ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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批判に資格は必要ない×批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

Twitter / 猪瀬直樹

まだ言いたいことがある。ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビュ―うけてもよい。


Twitter / hiroki azuma

猪瀬さんに森川さんを紹介した甲斐があった。コミケ条例適用外の言質を都トップから得た。マンガ規制反対で猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん、これが政治です。

この森川という人物は、夕張で雪かきをしてきたのだろうか。猪瀬氏がネトウヨ認定しない人間はオッケーということか。まあこれは、行政のトップが政策についての意見を、自分の気に入った人間からはだけは聞いてやると言っているわけで、どのみちそんな無茶な主張に乗っかって妙な前例を作らない方がいいに決まってはいるのだが…。

にしても、もし「これが政治」※1なのだとしたら、政治は権力やコネを持った一部の人間だけに許された特権ということになってしまう。
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実際ネットの一部ではこの発言に多くの反発が寄せられているわけだが、逆にそれを非難する声もある。

はてなブックマーク - Twitter / hiroki azuma

tegi おたく文化 これを否定するだけの人ってなんなんだ。自分は何をしてるのか。あんたら聖人かなにかか。

Sigma こういう実績積み上げの努力を叩く人らは、どんな政治活動してたの? 何人の政治家を説得したの? 抗議署名してただけ? / でも、コミケはゾーニングできてるし問題ないのは明白。そんな安全サイドの話はいいんだ

しかしこれは逆だろう。むしろ彼は、コネを持たない多くの人間は行動しても無駄だという内容の発言をしているわけだから。だからこそ多くの人間がそれに拒否反応を示したわけで。

そもそも「実績」というが、これは実績とは言えない。いくら言質を取ったところで、実際に明文化されていない限り、結局のところそれはお上の都合で恣意的に運用されてしまうというのはいわずもがなだ。言質と名文が対決すれば、最終的に名文の方が正しいということになる(そしてそれは手法として戦略的にも用いられる)。また、実際に条例が適用されないとしても、こんなやり方ではお上の配慮によってそれが許されている、というような状況が作り出されてしまうことになる。

仮にこれを実績だとみなしても、実績を出したとされる者をそれを出していない者が批判してはならない(或いはその批判が嘲笑の対象にされる)、ということになれば、多くの者はそこで口をつむぐしかなくなる。また、実績を出して初めて政治活動をしたことになるのならば、予め成果が約束されている一部の人間だけしか政治に参加しなくなるだろう。これは、社会的に大きな影響力を持っていない者は黙っていろ、と言っているに等しい。もちろん、批判としての条件を満たしていない非難は「叩き」として蔑まれてもしかたがない。だが、それはその者が実績を出したか否か、或いはそこでの主張以外に何か他に派手な活動をしていたか否かとは全く関係のない話だ。

つまり、政治参加や政治活動を重んじるのであれば尚さら、「これが政治です」の持つ問題性に注目せざるを得なくなってくる。また、批判をすること自体に何らかの条件を課すのだとすれば、それは多くの人間から政治参加の機会を奪うことになるわけで、そのような主張をするのと同時に、より積極的な政治活動をしていなかったことを問題視するというのは、全く筋が通らない。

 ▼批判に資格は必要ない

民主主義は内容を一切保証していない。ただし、誰もが自由に主張することができる。それが民主主義が持つ唯一の長所。その長所を奪ってしまったら、一体民主主義に何が残るのか。

批判の価値は、それが批判としての条件を満たしているか、批判として的を射たものであるか、ということによって判断されるべきであり、その者が持つ肩書きや属性や経歴で判断すべきものではない。また、批判すること自体に資格を求めるのも誤りだ。もしその者が別の案件で全く異なった逆の主張をしていたとしても、或いはそこでなされた主張とは間逆の行動を取っていたとしても、それはその主張自体が間違っていることの証明にはならない。そういった整合性の無さによって損なわれるのはあくまでその者自身の信頼性であって、そこで述べられた批判自体の評価はまた別にあるはずだ。

それに、実際にそれによって成果を出した者や出せる者だけしか批判をしてはならないのだとすれば、それは一部の人間だけに限られた特権となり、多くの者は目の前にどんな酷い状況が成立していても、ただただその現状を追認するしかなくなる。また、そこで述べた主張と己の状態とを常に一致させなければならないのだとすれば、「聖人」は滅多にいないわけだから、世の中の主張は自ずと自己の状態と簡単に一致させることができるような粗悪な主張で溢れかえることになるだろう。そしてそれは同時に、過去の過ちによって行ってよい批判や主張がどんどん狭められていくことをも意味しているから、人々から修正の機会を奪うことにもなってしまう。

 ▼批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

そもそも、批判に資格が必要なのだとすれば、一体誰がその資格を判断するのだろう。そしてその資格を判断する側の正しさは何によって担保されるのだろう。結局のところ、それは武力であったり、社会的抑圧であったりするのではないか。

何かが批判され始めると、それが持つ内容の判断以前に、批判自体を封じ込めようとする動きが必ず出てくる。この社会は、批判を武力によって封じることは問題視されるが、社会的抑圧によってそれを封じることには非常に寛容だ。実際、実社会(とネットの外の社会を仮にこう呼ぶ)で体勢の側を批判すれば、人生そのものを危機に晒すことにもなりかねない。そこでは、抑圧による押し通しによって「正しさ」が担保されている。それ故に、多くの者は批判をする機会を、批判の仕方を学ぶ場を得ることができない。そしてその代わりに、「押し通し」を学ぶ。

ネット上に誹謗中傷があふれている※2のは、このことと無関係ではないように思う。実社会では、体勢の側を批判することは実質的に禁止されているに等しい。よってその分の鬱積を、人生を危機に晒すことなくものが言えるネット上で晴らすことになる。しかし、批判や議論の仕方について学ぶ場が殆ど無いため、多くの者は、批判一つとっても、それをどのようにして行ってよいのかが分からない。となれば結局、実社会でみっちり仕込まれた、抑圧による「押し通し」で其々の「正しさ」を証明するしかなくなる。それが誹謗中傷として表れる。そしてネット上におけるその抑圧は、再び実社会が持つ抑圧の「正しさ」の根拠として利用される。

どうもこのような悪循環があるように思えてならない。



※1 「猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん」をコネも抑圧も使わず纏め上げて、「これが政治です」と言っていれば格好よかったのに。それこそ政治だと思うが。明文化に漕ぎ着けたのならともかく、コネ使って言質を得たことで威張られてもなあ。「みなさん」は、コミケの心配だけを理由として騒いでいたわけでもないだろうし。

※2 実際には誰もが見られるような形で可視化されていないだけで、ネットの外もまた誹謗中傷で溢れているのは間違いないだろうけど。
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グラミー賞と伊藤政則としがらみと

グラミー賞:日本人同時受賞 松本さん、独特の色気/内田さん、世界的評価(毎日jp)

日本人がグラミー賞を受賞したというニュースを聞いて、ふと伊藤政則氏のことを思い出した。
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彼がDJを務めるとあるラジオ番組での話だが、かつて喜多郎氏がグラミー賞を受賞した時、テレビからグラミー賞についての取材があり、彼はその取材を受けたのだそうだ。彼が言うには、グラミー賞で誰が受賞するのかということは、業界の様々なコネしがらみや思惑によって決まっているようなところがあるので、余りそれを真に受け過ぎるのも考え物だ、というようなことをひとしきり話した後、最後に「まあ世界的に有名な賞だから、日本人がそれを受賞するというのは喜ばしいことなんじゃないでしょうか」と閉めのセリフを吐いたら、そこだけ切り取られて使われた、ということだった。

実際自分もその放送を見た。たしか、安藤優子アナウンサー時代の『ニュースJAPAN』だったと思う。珍しく彼がテレビに出てきたと思ったら直ぐさま引っ込み、なんだか妙に短い中途半端なVTRだったなあ、と思っていたのだが、そういうことがあったのかと。テレビ番組というのはそうやって作られているものなのかと。そんな風に思ったものだ。

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まあテレビ側からすれば、グラミー賞はこんなにも権威ある素晴らしい賞なんですよ、それを日本人が受賞するなんて素晴らしいですね!…というような構図を予め思い描き、それを具体化するためのパーツを得るためにインタビューを取りに行ったのだろうけど、そこで取れたのがあれなわけだから。伊藤氏の空気読めなさっぷりときたら…。考えただけで笑える。おい、これどうすんだよ…、せっかく日本人がグラミー賞を取ったというのに、グラミー賞は業界の様々なしがらみや思惑によって決まっているので余り真に受けない方がよいのだそうです、みたいなことニュースで流せるかよ。かといってもう別の評論家にインタビュー取りに行く時間なんてもうないし、ああ、政則使えねー、マジ使えねー、――みたいな修羅場があったんだろうなあ、と。そしてその状況を打開するための苦肉の策があの編集だったのだろう。

これは逆に言えば、テレビ側が予め思い描いている構図やストーリーを上手く読み取り、それに都合の良いコメントをしてくれる人間が、テレビ御用達の評論家やコメンテーターになっていくということでもあるだろう。評論家にとってテレビから取材が来るというのは、芸能人で言えば『さんま御殿』に出演するようなものだ。そこで使える人間と使えない人間のふるいわけがなされる。だとすれば、テレビに出てくる評論家やコメンテーター達がのきなみ「世間の常識」にシッポを振る幇間芸人ばかりであることにも得心がいく。

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B'z : 伊藤政則×B'z、貴重なFM番組をネットで公開 / BARKS ニュース

とはいえ、もしあの時グラミー賞を受賞していたのが、彼と少なからずつながりのあるB'zだったら、伊藤氏は果たしてあんなことを言えただろうか?答えは恐らくノーだろう。少なくとも、もうすこし慮った発言をしたはずだ。しかし、それはグラミー賞におけるしがらみや思惑と一体何が違うのだろうか?大相撲の八百長のように、実際に携帯で申し合わせたりするのとは全く違う次元のものではあるだろうが、結局のところその両者は同じ性質を基盤として成り立っているものなのではないか。

つまり、人間はコネやしがらみや社会的趨勢との思惑の一致によって、それらに支えられることによって初めて社会的地位を確立することが可能となるのではないか。「本当に公平な人間には友人はいない」とはよく言ったもので、本当にしがらみから逃れようとしたら、恐らく世捨て人にでもなるしかないだろう。しかしそうやって獲得した「本当の公平さ」は、コネやしがらみの無さ、そして世間の思惑との不一致によって、周りからは不公平さとして認識されるだろう。であるならば、そのような公平さというのは一体何の価値があるのだろう?



※1 因みに、今回自分はテレビでグラミー賞のニュースを見ていないので、そこでそれがどのように報じられたのかは分からないが、『ニュースJAPAN』と同じフジサンケイグループの産経ニュースでは、伊藤氏の言うような業界の思惑について言及する記事が掲載されている。

グラミー賞日本人受賞ラッシュの裏に“オトナの事情”(MSN産経ニュース)

REAPERv0.999のプロジェクトセッティング~Pan Law設定、その他

REAPERのデフォルトPan Lawは+0dBだが、これは設定によって変更することができる。

変更の仕方は、先ず左上の「File」から「Project settings」を選択して(または「Alt+Enter」で)開いたウィンドウ上にある「Project settings」のタブをクリック。

すると以下の画面が表示されるので、そこにある「Default track pan law -- centered gain」の項目で好みの数値を選択。後は「Save as default project setteings」をクリックして設定の保存をして終わり。

panlaw1.png

また、REAPERではプロジェクト・セッティング以外にも、個別のトラックごとにPan Lawを設定することができるようになっている。やり方は簡単で、意中のトラックのPanスライダー上で右クリックし、そこで現れたウィンドウ上にある「Override default track pan law」にチェックを入れ、好きな設定を選べばよいだけ。

panlaw2.png

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嘘が経済を回し、自己責任がそれを止める

【2ch】ニュー速クオリティ:ブルーベリーが「目に良い」は嘘っす

ここでは何かこういったことが特殊なことであるかのように扱われているが、むしろこういったことは非常に一般的なことであると考えた方が妥当だろう。
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これに限らず、体裁と実態を本気で一致させようとすると、多くの商売や労働は成り立たなくなる※1。そして多くの者が、ありもしない何らかの効能や、機能以外のイメージに突き動かされるからこそ、経済は調子よく回り続けることができる。経済活動にはそういう一面がある(故に多くのCMは、内容を説明するよりもイメージに訴えかける)。よって、ブルーベリー・アイ的なものを全て厳密に否定していくと、相当数の人間が職を失うことになる。それどころか、本当のことばかりを言っていると職を得ることはおろか、人付き合いすらできなくなるだろう。つまり、そういった欺瞞に依存しないと「自立(持続可能な依存状態)」すら獲得することができなくなるわけだ(――とはいえ、こういったものをいつまでも放置しておいてよいのか、ということは逐一考えていく必要はあるだろうが)。

 ▼自己責任が経済を萎縮させる

この手の健康食品、或いは自己啓発・資格ビジネスなどもそうだが、それらはそこで述べられた効能以上に、私は健康に、人生に良いことをしている、という幻想を売っている側面の方が強いと考えた方が適切だろう。で、そういった消費生活を送って失敗をすれば大抵は自己責任ということになるわけだが、そう考えると、自己責任という概念が重んじられるのは――その根本は自由意志への信仰だが――、大局的観点から見た経済的配慮、という作用もまた大いに関係しているのではないかと思えてくる。ここら辺を余り厳密に突き詰めていくと、その曖昧さに依存する形で生み出されている多くの商売は成り立たなくなってしまうわけだから。

消える若者市場:日経ビジネスオンライン

現に、個人の経済的失敗は基本的に自己責任であるとされるが、大局面から見た財界のビジネス的・経済的失敗は、自己責任とされることはない。むしろそれは「消費に背を向ける若者」というように、消費者側の責任とされる(人口減少、平均年収の低下という決定的要因を把握しているにもかかわらず、最終的には「背を向ける」という消費者側の個人の意思の問題に落とし込まれてしまう)。

自己責任という言葉が一般レベルで使われたのは、イラク邦人人質事件が最初ではない。それ以前に、証券会社と契約した個人の顧客が軒並み大損をするケースが相次ぎ、ちょっとした問題になったことがあった。その時、証券会社側が持ち出してきた言い分が自己責任だった。恐らくこれが自己責任という言葉が日本で広く一般に知れ渡った最初の出来事だろう。つまり、個人と組織の経済的利益が競合した際に、組織(企業)側の肩を持つことを目的として持ち込まれた、というのが日本における自己責任の出自だった。そしてこの構造は、イラク人質事件でも引き継がれていた。というのも、あの問題が紛糾したのは、無謀なことをした人間の命を救うために集団の財産である税金を使うべきではない、という考え方がその根本にあったからだろう。そして多くの組織は、その概念が持つ機能を最大限に利用し、各々の経済的利益を守ってきた。

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だが物事はそう簡単にはいかない。というのも、――他人に自己責任を突きつけるだけの人間はともかく――自己責任の「正しさ」を内面に強く焼き付けられてしまった人間は、その分だけ警戒心が強くなり、騙されまいとし、冒険もしなくなるからだ。すると結果的に消費に消極的にならざるを得ない。経済というのは機能ではなくイメージ、つまり嘘で回っている。それを、こんなの嘘でしょ、と言って効能の不確かな商品を買うという冒険をしなくなれば、或いは、オシャレやステータスなどという虚飾のために消費するよりも家計を守ることの方を重んじるようになれば、当然ものは売れなくなる。

例えば今の時代、単純にコスト面だけを考えると、多くの者にとって家や車を買うことは決して賢い選択とは言えないだろう。これまでは未来の経済成長を当てにすることはもちろん、それがステータスだから、という動機もまた一緒になって消費を支えていた。つまり、アレを買えば私も幸せになれる、ワンランク上の人生を送ることが出来る、というような幻想が消費を後押ししていた面があった(「中高年に“若さ”を売れ」というのは、まさに幻想を売る商売)。しかし、自己責任の洗礼を受けた者達からすれば、それは逆に危機管理能力のない馬鹿のすること、というネガティブなステータスになる。つまり自己責任は、個人と相対する組織/集団側の経済的優遇という機能を持つと同時に、個人消費を冷え込ませる機能をも兼ね備えている。

 ***

日経ビジネスオンラインの記事で取り上げられたような問題は、根本的には「無い袖は触れん」であり、せっせと血栓を作りながら「血流が悪い」と他人をどやし付ける人間がいる、というだけの話だろう。だがそれと同時に、組織が目先の利益を守ろうとして自己責任に依存し過ぎたが故に、個々人の危機管理意識が高くなりすぎ、それによって益々消費が冷え込んでいる、という一面もあるのではないか。つまり、血栓を作りながら「血流が悪い」と他人に不満をぶつけることに無理があるのと同じように、自己責任の機能に散々依存しながら消費の冷え込みを改善しようとすることにもまた無理があるのではないかと。



※1 多くの労働は、実際には大儀と異なった内容を持っている。と同時に、それは他人への迷惑にもなっている。人間もまた生存競争の最中にいる以上、どうしてもその活動は競合する。労働が崇高なものとされるのは、“金を稼いだこと”や“公認労働環境で作業したこと”をイコール“社会の役に立っている”と乱暴に読み替えているからに過ぎない。

DDMFのプラグインが64bit対応に

なったみたい(Metapluginは除く)。既存のユーザーは無料で64bit版を入手することができる。

入手の手順は、「DDMF support」から送られてきたメールに記載されたリンクをクリックし、そのページで商品購入に用いたメールアドレスを記入してOKを押す。すると認証ページに飛ぶので、そこで「MachineID.zip」を落としてそれで自分のマシンのIDを調べる。そして同じページで調べたIDを入力し、プラグインとプラットフォーム(Mac or Win)を選んでOKを押すと、ダウンロードページ(32bit版と64bit版の二つのリンクがある)が表れるので、そこでプラグインを落とせばOK。確か、使用している全てのパソコンの分だけ入手可能というようなことが書いてあったようななかったような…。

<追記:2/19>
 どうもチャレンジ&レスポンスシステムを採用したことが不評だったようで、システムを以前のものに戻すことにしたらしい。よって、現在ではマシンIDを取得する必要はなくなっている。因みに、この報告が来たメール上に記載されているリンクからレジストページに飛ぼうとすると Not Found になるのでなぜかと思ったら、URL にその後に来る「and」が含まれていた。なんか焦ってる?<了>

あと、NYCompressorが2.0にバージョンアップし、M/S、L/Rを別個に分けて掛けることが可能になったらしい。1月20日以後にNYCompressorやFull Bundleを購入した人は無料でアップデートすることが可能であり、それ以外のNYCompressorユーザーは半額の$10でアップデートすることができるとのこと。NYCompressorはデモを試してみたけど中々良い感じだった。リミッターも試してみたかったが、そちらは何故か、自分の環境ではREAPERでもVSTHostでも読み込むことができなかった。

因みに、自分が購入したIIEQ Proのインターフェイスはこんな感じ↓

IIEQPro.png

「IIEQProTrueStereo」を立ち上げて、右上の「Mode:」の部分をクリックするとMSとLRを切り替えることが出来る。あと、マウスのセンターホイールでQを広げたり狭めたりできる。シングルバージョンでは、一気にポイントを立ち上げる幾つかのプリセットが用意されているが、「TrueStereo(v2.1)」では今のところデフォルトでプリセットが用意されていないので、いちいちポイントを立ち上げるのが面倒くさいという人は、自分でプリセットを作っておく必要がある。というかこれ、どうやってインターフェイスからバージョンを確認すればいいんだろう…。

 ***

フリーのパライコは色々試したが、その結果、結局パライコに関してはさっさとIIEQ Proを買った方が良いという結論に達した。値段も安いし(以前は$15で、それ以前は自由価格設定だったので、それから考えると$20は高いようにも思えてしまうが、プラグインの質に対する絶対評価からすると、やはり安い)。フリーのものはちょっと良さそうかなと思っても、大抵はQを狭めると直ぐに駄目になる。それにIIEQ Proに匹敵するほどのフリープラグインは当分出てくることもなさそうだし、何よりM/Sを分離して処理することが出来るのが便利。コンプでM/S処理というのは今のところどのように使っていいのかいまいち分からないところがあるが、EQに関しては結構修正に使いたくなる場合も多いので(トラックテンプレート機能を持ったDAWだと、テンプレートの呼び出しで直ぐにM/Sに分離することが出来るには出来るが、プラグインを立ち上げるだけでよいというのはやはり便利)。

それに、以前IIEQ Proと一緒にSonalksisのSV517やFabFilterのPro-Qなどのデモを試したことがあったが、それらと比べても、それほど極端に質の差があるとも思えなかったというのもこれを購入した動機の一つ。まあIIEQ Proはそれらよりも多少定位がぼやけ気味になる傾向があるにはあるが、その分感触が柔らかく、それはそれでまた悪くない。後、ブーストした時にどうしてもスピーカーに貼り付き気味になってしまう弱点もあるが、この弱点は他のものも持っていて、それほど大きな差は感じられなかった。SV517が多少マシとういくらい。

ただ、(自分が試した中では)FluxのEpureIIだけはそれらの中でもクリアさにおいて抜きん出ているように思った。EpureIIはブーストしてもカットしても、定位がほとんどぼやけない。さらに、常にスピーカーと一定の距離を保ってくれて、どんなにブーストしても張り付いたような感じにならないように出来ている。一聴してハッキリと違いを感じたのこれだけだった。これは一度使ってしまうと欲しくなる。但し凄く高いけど。半額でも高い。後、ついでに試したSonalksisのコンプも良かった。これもまた絶対にスピーカーに張り付かないように出来ている。低音が結構強調される感じなので、好き嫌いは分かれるかもしれないが。――というか、もはやすっかり曲を作るよりも道具いじりや品定めの方が趣味になってしまった。

まあ何にせよ、IIEQ ProはEpureIIクラスのものと比べると物足りなくはあるが、十分実用に足るレベルにあるのではないかと。

柔軟性が命取りに

コースター転落死:手でバー確認「客の苦情でやめた」 - 毎日jp

安全確認の内容が形骸化し、ただの儀式になっていたわけか。そこは譲っちゃ駄目だろう、というのは正論だが、こういった柔軟性が社会的ポジションを獲得し、それを維持するための重要な処世術となっている、ということも忘れてはならないだろう。
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背景に個々人や組織が持つポジション的優位性などでは太刀打ちできないような理念や原理に関する社会的合意※1があれば、ポジション的に不利な側にいる人間もまた、それを根拠にしてポジション的に優位な側に対抗することができる余地が生まれる。だがそういった後ろ盾が一切なければ、ポジション的な優位性がそのままモラル的優位性をも獲得してしまうため、そこで作り出された関係性においてその優位性を持たない側の人間は、ただ一方的に相手に従うしかなくなる。そしてそれが大人の対応、ということになっている。

つまり、日本社会がそういった世間(空気)原理主義※2で回っている以上、こういった柔軟性や形骸化を発端とする事件や不祥事が低減化することもないのではないかと。

<追記> まあ外国でもこういった事件は起こるだろうから、そういった文化的な要因が原因の全てということはないだろう。ただ、こういう事態を生み出し易い一つの条件が成立している、ということ。



※1 もちろん、ろくでもない社会的合意が形成されてしまうという問題もあるが。

※2 理念や原理を絶対視すれば原理主義になるが、かといってそれらが全くなければ、それはそれでまた必然的に世間/人気原理主義にならざるを得ない。その結果、社会的抑圧によるごり押しや阿吽の呼吸でその都度恣意的に「正しさ」が決定されることになる。また、手段が持つ理念が消し飛んで単なる儀式と化し、場合によってはその形式/雛形自体が原理(バイブル)化する。

自立と依存は対立する概念ではない

 ▼「自立」の中身は持続可能な依存

他人や環境に依存せずに生きていくことが出来る人間はない。それは「自立」というブランドを獲得した人間にも言える。その「自立」という状態は、運や資源、社会システム、文化、宗教、慣習、道具、情報、思想、コミュニケーション様式、社会的趨勢/情勢、肩書き、集団/組織、コネ/人脈、マッチング/タイミング、欺瞞など、様々なものに上手く依存することができて初めて成立する。
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「自立」とは、生活環境を将来に渡っても持続させることが可能であるような良好な依存状態のことを意味し、一般的に言われる「依存」とは、将来にはその生活が破綻することが確実視されるような持続性のない依存のことを意味する。

即ち、人間生活における自立/依存とは、それがより良好であるか否かの違いはあれど、どちらも内容的には依存には違いなく、決して対立する概念ではない。従って自立問題の核心は、持続性に問題がある不都合な依存状態を持つ者が、如何にして持続可能でより良好な依存状態を獲得するか、というところにある。

そして依存は一人だけでは為しえない以上、その問題は決して「個人の問題」には収まらない。さらに言えば、もし自立を獲得した者がそれについて語るならば、私はどのような形でどのようなものに、どうやって依存してきたか、ということを語らねばならない。

 ***

だが実際には、自立と依存は恰も対立する概念であるかのような前提でもって話が進められることが多い。そしてそこでは、前者が善で後者が悪であるかのようにして取り扱われる。だがその時そこで行われている自立議論は、もはや内容を度外視したただのブランド論議であり、各々が獲得した概念上のシンボルの見せ合いっこでしかない。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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