ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「労働」という名のマクガフィン~労働問題は作業問題ではない

人間社会を『アリとキリギリス』的な世界観で理解しようとする風潮は昔から根強くある。しかし、人間社会には『アリとキリギリス』のような作業さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアは存在しない(社会的競合も資源の枯渇も存在しないという前提条件の下で、其々が落ちているものを自由に持ち帰って蓄えるのが『アリとキリギリス』における労働)。人間社会における生存活動について知ろうとするならば、作業について考察するだけでは不十分だ。何故ならそれの本質は作業ではなく、社会的競合という条件の下、「労働」というマクガフィンを巡って行われるポジション争いだからだ。
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人間は「労働」というマクガフィンを巡る物語に依存した形でしか大きなまとまりを得ることができない。人間とはそういう生き物。

そして「労働」は、具体的な条件を伴った明確なものとしてそれを定義づけることができない。何故なら、それがなされてしまった時、もはやそれはマクガフィンではなくなってしまうからだ。その魔法が解けてしまった時、その「労働」は人々を結びつける力も神聖さも尊さも誇り高さも全て失ってしまい、ただの作業へと成り代わる。そして「労働」は「労働」としての価値を、人々はまとまりを、一般的共有物としての世界観を失う。

故に「労働」は決して明確で統一的な定義を持ち得ない。ただその都度、マクガフィンとしての力を獲得した活動がそれとして認識され得るのみだ。そしてそれが「労働」という称号を、つまりマクガフィンとしての力を獲得しているうちは、その内容について問われることはない。「労働」とは元々内容を表しているわけではないからだ。幾ら阿漕な商売をしていても、幾ら道義に反する方法でその称号を手に入れ、守り続けていても、それがその称号を保持しているうちは、他のそれらと同じ神聖で尊く誇り高い“何か”でしかない。そしてその“何か”を保有しているが故に、その者は世間に対して胸を張ることができる。

逆に幾ら努力や作業をしてみたところで、その称号を、マクガフィンとしての力を獲得することができていなければ、その活動はただの個人的趣味や利己的行為、或いは無駄な行為としてしか認識されない。例えば二人の人間が全く同じ作業をしてみたところで、公認労働環境を獲得することができた人間とそうでない人間では、一方は労働をしたことになるが、もう一方は労働をしたことにはならない。

 ▼(1)何がそれを「労働」へと変化させるのか

単に作業しただけでは「労働」にはならない。それが「労働」に成り代わるためには、他にも何らかの条件をクリアしなければならない。では、そもそも世間一般では何をもってしてその作業が「労働」であると判定されているのか。一体どのような条件を満たせばそれをしているとみなされるのか。

金を儲けるための動きを取れば「労働」をしたことになるのか?しかしその考え方は、「しようとした」という個人の感覚を根拠にしようとする論理であり、全くお話にならない。では実際に金銭獲得に繋がる活動をすればそれが「労働」になるのか?いや、必ずしもそうとは言えないだろう。例えばホームレスは非常に過酷な条件の下、日々働き続ける労働者であるはずだ。もし「労働」にともなう苦労、即ち「内容」がそれを神聖で誇り高いものにしている正体であるとすれば、一般よりもより大きな苦労が伴うであろう金銭獲得活動を行っている彼らは、より神聖でより誇り高い存在ということになるはずだ。

だが実際にはそうはならない。それどころか、「ちゃんと仕事してくださいよ~(by加藤浩次)」などというように、働いていないことにされ、むしろ人々から蔑まれてしまうことの方が多い。暖房や冷房が効いた快適なスタジオでくっちゃべっていることが立派な「労働」とみなされる一方、正に『アリとキリギリス』のアリに最も近い活動をしている彼らは、『アリとキリギリス』的教訓が生み出す怠け者(キリギリス)として扱われてしまうわけだ。

なぜそうなるのか。稼ぐ金、動かす金が小さすぎ、経済的貢献をしていないとみなされるからだろうか?しかしそれで怠け者とみなされるというのは理屈が合わない。また、より大きな金銭を動かすための活動が「労働」なのだとするなら、ただのギャンブルもまた「労働」とみなされてしかるべきということになるはずだろう。だが、実際にはそのように認識されることは余りない。

さらに、より大きな金銭を獲得するための活動が「労働」なのだとしたら、会社員はいつ「労働」をしたことになるのか。というのも、その考えからいくと、少なくとも会社員は作業を行っているその時点ではまだ「労働」をしたということにはならない。何故なら、獲得する金銭の多寡以前に、会社員が実際に金銭を手にするのは作業よりもずっと後のことであり、もしかしたら賃金不払いでそれをもらえない可能性もあるからだ。つまりその考え方では、サービス残業や賃金未払いによる作業は「労働」には含まれないことになる。と同時に、より大きな金銭を得たり動かしたりすることほど尊い「労働」ということになる。

だが実際にはそのようには認識されていない。よってこれもまた「労働」であるか否かを分け隔てる分水嶺になっているとは言えない。それに、もし金銭獲得行為、金を動かす行為が「労働」なのだとしたら、強盗や詐欺は――法律違反ではあっても――内容としては「労働」の条件を満たしていることになるはずだ。だがそれらは内容的にも決して「労働」であるとは認められない。

では、利益を生み出す行為が「労働」なのか?しかし、だとしたら赤字の会社はさっさと廃業した方がよいということになる。赤字の国家はさっさと解体した方がよいということになる。それらは絶えず負の利益を生み出し続けているわけだから。

だが実際にはそうはならない。日本の多くの企業、そして世界の多くの国々は赤字だが、だからといってその負の利益を生み出す行為を簡単に止めようとはしない。それは、利益を生むことよりも自分達の状態や社会的ポジションをより好ましいものとして維持し続けることの方が重要だからだろう。もちろん大きな利益を生んだ方が良いに決まっている。だがそれはあくまで己の状態をより良く保つために望ましいからであって、そのためにはむしろ負の利益を生み出し続けることもやむなし、とするのが実情だ(ex.原発はたかだか数年間の発電のために、その後十万年間管理し続けなければならない廃棄物を出す。しかしそれを分かっていても止められない)。

 ***

つまり、一般に用いられる「労働」とは決して内容のことを指しているわけではない。作業のことを指しているわけでもない。「労働」とはあくまで称号であり、マクガフィンとしての力を伴っているかいないかが、その称号が付与されるか否かを分け隔てている。

マクガフィンとしての力は、「社会の役に立っている」と多くの人々に認識される状態を持っていること、と言い換えてもいいかもしれない。もちろん、そこで重要なのは内容ではない。内容がどうであろうと、そのように認識されていればそれは力を獲得することになるし、そうでなければそれは力を獲得し得ない。

そもそも、「(こうあるべきという)社会」や「役に立っている」自体が認識上の存在でしかない。ある人物が思い描く理想にとって必要なものだけがこの世に存在する、という状態はまずあり得ない。世界は常に人間が生み出す規範やシステムの外にも広がっている。そのことから考えると、理想の外側にあるそれらも含め、あらゆる全てのものはこの世界の存続に必要であり、役に立っていると言える。しかし同時に、理想の形は人の数だけ存在し、その多くは競合しているため、「役に立っている」ものは必ず誰かの迷惑にもなっている。つまり「社会の役に立っている」とは、そういった個々人の捉え方の問題でしかない。

しかしなんにせよ、それが生み出す力が、称号の獲得が、其々が社会的に良好なポジションを獲得し、それを維持するための大きな鍵となっているのは確かだ。

 ▼(2)「労働」と「努力」が織り成す煌びやかな物語への見果てぬ夢

「労働」は内容を指しているわけではないし、作業とイコールで結びつけることもできない。ところが実際には、労働問題は恰もそれが作業問題であるかのようにして取り扱われることが多い(ex.労働者はみんなのために役立つ作業をしているから、苦労をしているから偉い)。

なぜそうなるのか。恐らくそれは、「労働としての作業」が「努力」として読み替えられるが故のものだろう。

「努力」は魂の気高さの象徴。その多寡によって尊ばれるべき者と蔑まれるべき者、つまり其々の魂の貴賎が判断されることが多い。そうやって「作業」を「努力」と読み替え、それを通して魂の貴賎と「労働」を絡めることで、マクガフィンを巡る物語はより煌びやかで求心力のあるものへと昇華する。例えば『アリとキリギリス』はその煌びやかな物語の代表的存在だろう。

 ***

しかしそういった物語を創造しようとする試みは、何も創作物という舞台の上だけで行われてきたわけではない。現実世界という舞台においても、そういった物語を作り出そうとする動きは常にある。その一番分かり易い例が共産主義だろう。

――本来、個々人の努力具合は決して測ることはできない。全く異なった条件を持つ個々人が、其々自分が元々持っている力の一体どれほどまでを引き出してきたのか、ということは誰も知り得ない。よって其々の努力具合を比較対照することもできない。しかしながら、努力が測れないと煌びやかな物語を成立させることができない。

それを可能とするため、其々の努力具合を作業によって平等に計測するシステムを考案し、それによってはじき出された努力具合に応じて報酬を受け取る、という社会を作ろうとしたのが共産主義だ。つまり、「みんなのための作業」としての「労働」さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアを作ろうとしたわけだ。

しかしながらその試み上手くは行かなかった。何故なら、元々この世界は作業量や苦労の多寡によって国家や人々の貧富が決まるようにはできていないからだ。そもそも、其々の理想や目的を一つに統一することがすでにできない。それは常に競合し続けるようにできている。そういった条件に抗い、人間社会を『アリとキリギリス』的ユートピアへと変貌させようとする社会実験は失敗に終わったのだ。

しかし未だにそういった、作業さえしていれば、努力さえすれば誰もが幸せになれるユートピア、「労働」と「努力」のハーモニーによって醸し出される煌びやかな物語への夢を、多くの人々は捨て去ることができない。

何とかしてそれを現実世界という舞台の上に作り上げたいという思い。或いは既にそれが現実世界において成立していると信じたい、という思い。そういった人々の思いの強さが、労働問題が恰も作業問題であるかのような錯覚を生み出し、支えている。
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自己責任的に言えばスクリーニング検査は正しい

東日本大震災:転入者に放射線証明の提示要求 茨城・つくば市が撤回(毎日新聞)

 東京電力福島第1原発事故で福島県から避難してきた転入者に対し、茨城県つくば市が放射線量検査(スクリーニング)を求める措置を決め、抗議を受けて撤回していたことが分かった。市原健一市長が19日に会見し「対応に不備があり誤解を生じた。被災者への配慮が足りず本当に申し訳ない」と陳謝した。

 転入届の窓口の市職員が11日、放射線量検査済み証明書の提示を求めたため発覚。市は即日、福島県からの転入者に検査を求める措置を撤回した。3月14日に福島県からの避難者受け入れを始めたのに合わせ避難所などで検査を実施し、同17日付で転入者にも検査を求める措置を決めていた。

 放射線医学総合研究所(千葉市)の神田玲子・放射線防護研究センター上席研究員は「エックス線診断を受けた人から放射線がうつることがないのと同じで人からの汚染はない」と話した。

其々は己の行動を自由に決定する権利がある。それを決定するのはお上でも世間でも専門家でもない。そしてその判断のために必要となる――リスクとリターンを計算するための――情報は徹底的に開示されなければならない。それによる判断は尊重されねばならない。その代わり、そこから導き出される結果は其々が責任をもって受け止めなければならない、というのが自己責任。その考え方でいけば、この場合、情報を求められた転入者側は出来うる限りそれを提示しなければならないし、受け入れ側はその情報に虚偽がない限り、自己の判断から生じた不利益は甘んじて受け入れなければならない。そして第三者はその判断を尊重しなければならない。
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ネットではこれ(スクリーニング検査)を差別だとする声が強いが、それは的外れだろう。これは差別問題というより、相手の持つ自己責任的理念を尊重するか否かの問題。

自己責任の「正しさ」は、現実における事象は全てメリット(リターン)/デメリット(リスク)に置き換え可能である、という前提と、自由意志による自己決定という思想・理念の上に成り立っている。スクリーニング検査を否定するためには、この「正しさ」に勝る何らかの「正しさ」を提示しなければならない。或いは自己責任が持つ「正しさ」自体を否定しなければならない。これはそれができるか否かの問題。

まあ実際にはそういった理屈云々ではなく、悪党であると判断された一方の側が世間的にねじ伏せられることによって「正しさ」が決定されてしまうわけだけど。結局、善と悪の戦いからしか「正しさ」が導き出されないという勧善懲悪的現実。

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にしても、「エックス線診断を受けた人から放射線がうつることがないのと同じで人からの汚染はない」というこの放射線防護研究センターの回答も妙だな。スクリーニング検査の提示を求めたのは、衣服などに放射能が付着しているのではないか、という恐怖心故のものだろう。それに「放射線がうつることがない」と答えてしまうのは一体どうなのだろう。放射線がうつるなんてことは初めから誰も思っていない――いたとしても極めて稀だろう――わけで。

シンセでお絵かき

これは面白い。フェイズ・スコープ上で、音を使って様々な幾何学模様を描き出そうとする試み。こんなことが出来るとは。シンセはREAPERに付属している jesusonic で作った自作のものを使っているらしい。

余り大きな音で聞くと耳に負担がかかるかもしれないので注意(少し大きめの音で聞いて耳鳴りがしばらく止まなかった)。



みんな大好き Stereo Tool




こちらのキャンバスは schwa の schOPE(有料)。

風評は市場の本質×風評としてのイズム

福島原発の事故による風評被害を防がなければならない、というような主張が世間を席巻している。だが、そういった主張にはどうも釈然としないものを感じてしまう。というのも、元々市場の在り様を形作っているのは風評だからだ。
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 ▼(1)日本ブランドの失墜

例えばブランド戦略が成立するのは、イメージが人々の消費行動を決定付ける主要な要因となっているからだ。いくら実用面だけを追及しても、決してそれは人気商品にはならない。それが人気商品として他の競合商品に打ち勝つためには、それなりのイメージが伴っていなければならない(ex.実用面を最優先させたファションは、いわゆるオタク・ファッションになる)。

同じように、健康食品と呼ばれる類の商品は、必ずしもそれが健康に良いから売れているわけではない。多くの健康食品は「健康に良い」というイメージによってそれが消費されている。後になってから、むしろそれは健康に悪かったという事実が判明する場合だってある。海外から個人輸入した健康食品によって重篤な病に蝕まれ、亡くなった者すらいる。つまり、健康食品の人気は健康に良いという事実ではなく、「健康に良い」というイメージや風評によって支えられている。

そして多くの日本企業は、世界的な健康ブームに乗り、日本ブランドが持つ安全性というイメージを積極的に利用して商品を売り込む戦略を取っていた。ところがそんな折、今回の原発事故が起こった。

東京新聞:「関東産」でくくられ 県産野菜に風評被害も:埼玉(TOKYO Web)

食の放射能検査、不満続々…国で統一基準を(読売新聞)

■「厳しい値」

 暫定規制値についても、疑問の声が上がる。野菜類の規制値(根菜、芋類を除く)は1キロ・グラムあたり放射性ヨウ素2000ベクレル、同セシウム500ベクレル。茨城県で出荷制限となっているパセリは軽くて表面積が大きく、重量で比較すると他の野菜に比べて数値は出やすいが、実際に食べる量はわずか。県農政企画課は「現実にそぐわない数字」と指摘する。


銚子市漁協への指導要請=水揚げ拒否で千葉県に-農水省 - 時事通信

日本の農産品、25カ国が規制 中東や南米にも拡大 - 47NEWS

多くの国々は日本ブランドを敬遠し、日本人もまた東日本ブランドを敬遠し始めている。そういった市場の動向に懸念を抱き、憤る者も多い。低線量被曝なら安全なはずなのに、何故売れないんだ。うちの商品は放射能(放射性物質)で汚染されていないのに、何故売れないんだ。「現実」にそぐわない規制を緩和すべきだ、と言って。そしてその怒りを、放射線に対して悲観的な見方をする消費者や、そういった情報を流す者達に向ける者も少なくない。

だが、そういう人達は根本的な勘違いをしている。というのも、今までそれらの商品が売れていたのは「安全だから」ではない。安全か否かについて全く心配する必要がないという安心“感”が伴っていたからこそ売れていたのだ。しかし、今やそれは「健康に良い」どころか、「極端な量さえ摂取しなければ健康に害を及ぼさない」ものになってしまった。危険性は低くとも、気にせずに済むものから気にしなければならないものになってしまった。このイメージ毀損は、市場における商品価値という観点から見れば極めて大きな影響を持っている。

放射能暫定限度を超える輸入食品の発見について(第34報) - 厚生労働省

 旧ソビエト連邦チェルノブイリ原子力発電所事故に係る輸入食品中の放射能濃度の暫定限度は、ICRP(国際放射線防護委員会)勧告、放射性降下物の核種分析結果等から、輸入食品中のセシウム134及びセシウム137の放射能濃度を加えた値で1kg当たり370Bqとしている。


実際、日本もまた、チェルノブイリ事故の際には現在よりもより厳しい――今なら「良識的な日本人」から「現実にそぐわない」と評されるような――基準を設けていた。

つまり、実際に安全か否かはそもそも重要ではない。端的に言えば、日本ブランド、東日本ブランドは今、市場で全く人気がないのだ。安全性云々以前に、それらが持つイメージが大きく損なわれ、市場価値を失ってしまった。だから売れない。合計で年間何ミリシーベルト以下なら大丈夫、みたいな言い訳をしなければならない商品が、他の競合商品と競り合って勝てるはずもない。とりわけ、日ごろから「安全性」というイメージに敏感であるが故に日本ブランドの商品を買っていた消費者が、今度は逆にそれを忌避すべきものとして認識するようになるのは当然の成り行きだろう。

 ▼(2)風評との戦いは市場との戦い

こういった現象を風評被害だと言って憤る人達は、安全なものを安全でないと思い込んでいる「愚か者」がいるから商品が売れない、と思っているようだ。だから市場における人気の無さは「被害」に置き換えられ、「愚か者」や「不適切情報(放射能に対する悲観的見方)」を流す「加害者」との戦いが始まる。

もちろん、低線量被曝については必ずしも問題がないとは言い切れないため※1、実際に安全でないと思っている人もいるだろうし、中には単なるデマを信じて買い控えをしている人もいるだろう。だがそれは本質ではない。極端な言い方にはなるが、内容がどうであろうと、危険であろうとなかろうと、需要があればものは売れるし、需要がなければ売れない。人気があるものは売れるし、人気が無いものは売れない。そういった風評に左右されるのが市場だ。そして今の今まで、そういった風評を最大限に利用してきたのが日本ブランドだったはずだ。それが今、失墜したのだ。

さらに言えば、「被害」説を採る人は、「愚か者」が「適切な情報」に触れ、それを理解すれば再び商品が人気を取り戻すことができると考えているようだが、それも誤りだろう。何故なら、人間の感覚は知識によってコントロールすることができるようにはできていないからだ。ストレスを自意識でコントロールできないように、「キモい」という感覚を理屈で払拭できないように、イメージや不安(感覚)を知識で完全にコントロールすることなどできない。この問題の対処法は、人々が不安疲れで不感症になるのを待つことくらいしかない。

要するに、日本・東日本ブランドは安全性に問題があるから云々以前に、人気が無いから、市場価値が無いから売れない。だが、未だにその事実を受け入れられない者も多い。だからその「人気の無さ」を「被害」に読み替え、風評と戦う者が現れる。しかしながらそれは市場の否定にも等しい行為であり、不人気商品が上手く流通しないことに腹を立て、何故買わないんだ、と言って逆切れしているに等しい。客が馬鹿だから商品が売れない、と言っているに等しい。

 ▼(3)風評としてのイズム

道徳的な理由で騒ぎ立てる人達はともかく、実際に被災した人達が、原発事故の影響で努力する場を失ってしまったり、或いは自分の努力の結晶が市場で爪弾きにされたりすることのやるせなさをどこかにぶつけたい、という気持ちは分かる。なんせ自分もまた、人間マーケットにおいて廃棄されるべき烙印を押された商品(労働力)だからだ。市場というのは元々そういう冷酷さを持っている(それが市場によって媒介されるものである以上、必ず売れ残りや使い捨てという問題が生じる)。

――にしても、こういった世間の動向にはどうも釈然としないものも感じてしまう。というのも、これまでこの社会は、市場による結果を「正しさ」の主たる根拠にしてきたはずだからだ。それが突然、市場を否定し、人気の無さを「被害」であるとする主張が主導権を握り始める。そしてこれまで散々「自己責任」を唱えてきたはずの社会が、「人々を不安にさせるから」という理由で好ましくないとされる情報を隠し、人々の消費行動をコントロールしようとし始める。中国や北朝鮮を“日本とは違って”言論の自由が無い国であるとし、問題視してきたはずの民衆が、パニックを防ぐためという大儀と「煽るな」という恫喝によって、ボトムアップ的に情報統制をしこうとし始める。共産主義――努力を一旦作業に置き換えることで個々人の努力具合を測り、それを結果に反映させようとする、努力によるユートピアシステムの造成――を嘲ってきたはずの人達が、努力が実らないことの不公正さを説いてみせる。そういった手のひら返しがあるにもかかわらず、かといってパラダイムシフトが行われた様子もない。

こういった現象から分かるのは、多くの人々にとって内容としての理念や原理、主義などは、初めからどうでもよかったということだろう。市場における商品は内容よりもまずイメージが重視されるように、「市場原理」や「自己責任」、「言論の自由」、「共産主義/資本主義」などの理念やイズムも、ただその肩書きが持つイメージや風評が、その時々の都合で体よく利用されてきただけに過ぎない。結局そういうことなのだろう。

――しかし、幾らそうやってこの状況に理屈を付けて自分の感覚を納得させようとしてみても、やはりこういった世間的趨勢の出鱈目さに対する気持ち悪さはどうしてもなくならない。



※1 線量限度の被ばくで発がん 国際調査で結論 - 47NEWS

 【ワシントン30日共同】放射線被ばくは低線量でも発がんリスクがあり、職業上の被ばく線量限度である5年間で100ミリシーベルトの被ばくでも約1%の人が放射線に起因するがんになるとの報告書を、米科学アカデミーが世界の最新データを基に30日までにまとめた。報告書は「被ばくには、これ以下なら安全」と言える量はないと指摘。国際がん研究機関などが日本を含む15カ国の原発作業員を対象にした調査でも、線量限度以内の低線量被ばくで、がん死の危険が高まることが判明した。  低線量被ばくの人体への影響をめぐっては「一定量までなら害はない」との主張や「ごく低線量の被ばくは免疫を強め、健康のためになる」との説もあった。報告書はこれらの説を否定、低線量でも発がんリスクはあると結論づけた。

「みんな一つになろう」という呼びかけが…

「あなたはそこにいますか」に聞こえてならないのだが。

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DDMFまた値上げ×REAPER4のリリース予定が今年中旬に変更

 ▼DDMF値上げ

DDMFがまもや値上げ。今度は$20から$29に。$20のうちにさっさとコンプを買っとけば良かったかなあ。前から迷っていたのだが、T-RackSのセールが来たのでそちらを優先して買い逃してしまった。

因みに、最近リミッターがv1.1にバージョンアップした。自分の環境では、以前はリミッターのデモが読み込まれない不具合があったが、バージョンアップしてからはちゃんと読み込まれるようになった。さっそく試してみたところ、音はどちらかといえば柔らかめで、音割れ耐性もT-Racksのブリックウォールよりも少し上に感じた(ソースにもよるだろうけど)。これを使えば音圧は簡単に稼げる。ただし、コンプもそうだが、微妙にスピーカーに張り付つき、少し音がぼやける感があるので、そこら辺が少々ネック。コンプ、リミッター共に$20だったら買って損はない、と胸を張って言える出来なのだが、 $29ドルになると中々微妙な感じ。他のベンダーは基本的にどんどん値下げしたりセールしたりしているわけだし。

 ▼REAPER4のリリース予定が今年中旬に変更

去年の暮れから今年初旬だったはずのREAPER4のリリース予定がいつのまにか

REAPER 4 is expected to be released mid 2011.

に変更されている。実際、もう4月なのに未だにベータも出ていないので当然と言えば当然だけど。

にしても、前々から4が出たら購入すると決めているのに、中々リリースされないので、やるべきことをずっとやり残し続けているようでどうも収まりが悪い。しかも、そんなこんなしているうちにドルがどんどん高くなってきていたりして。4リリース後の価格設定ももう決まっているのだから、今から$60で4~5.99のライセンスを購入できるようにすればいいのに、と思うのだが、そうしないのは何故だろう(現在販売されているのは$40で~4.99までのライセンス)。

科学者脳とジャーナリスト脳みたいな何か

Togetter - 「keigomi29さんの(普通の)科学者と(三流)ジャーナリストの違いに関するツイートとそれに関する反応。」

【0】地震以来、いわゆる「ジャーナリスト」の人のいうことが、どうしてこんなに違和感があるのだろうと、バスを降りてから自席につくまでに考えた。ジャーナリストにも色々な方がいらっしゃるので失礼のないよう(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。keigomi29

揶揄という逃げを打っているとは言え、なぜこういったただのレッテル貼りが絶賛されてしまうのだろう。「違和感がある」のなら、該当するその言説のどこに問題があるかを指摘すればいいだけなのではないか。ジャーナリストという属性で一括りにし、不特定多数の対象にレッテルを貼り付けるというのは、科学的に妥当な批判方法と言えるのだろうか。
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【1】 (普通の)科学者は自説を否定する事例を探す。 (三流の)ジャーナリストは自説を補強する事例を探す。

【2】 (普通の)科学者は反例が見つかると自説は否定されたと考える。 (三流の)ジャーナリストは反例を気にせず自説は証明されたと考える。

これらは「(三流の)ジャーナリスト」を「(三流の)科学者」に入れ替えても成り立つだろう。

【3】 (普通の)科学者はひとつの例では不安である。 (三流の)ジャーナリストはひとつ例が見つかれば大満足である。

知り得ないはずの他人の内面を知り得たという前提で、その内面を批判している。

【4】 (普通の)科学者は事実から論理を導き出す。 (三流の)ジャーナリストは論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。

科学者にだってイデオロギーはあるだろう。事実、この風刺自体が後者の例になってしまっている(具体的な事実に基づいた批判になっていない)。

【5】 (普通の)科学者は相関関係が因果関係かどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは相関関係は因果関係だと考える。ただし因果の方向は任意である。

これは確かに、訓練を受けていない者が陥りがちな考え方だ。ただし、 それは「(三流の)ジャーナリスト」に限ったことではなく、「(普通の)社会人」に入れ替えても言えることだろう。

【6】 (普通の)科学者は抽出した標本が母集団を代表しているかどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは取材した対象が母集団を代表していると思いこむ。

【7】 (普通の)科学者はどの程度確かなのかを考える。 (三流の)ジャーナリストは絶対確実か絶対間違いだと考える。

自己言及になっている。前者の考え方によるならば、抽出した対象を明らかにし、それが母集団を代表していることを示さなければならないはず――この後、「普通のジャーナリストは三流だ、ということで(笑)」としている――なのだが、ここでは完全に後者の側に陥ってしまっている。と同時に、「確実(科学者)」と「間違い(ジャーナリスト)」という対立構造を作り上げてしまっている。

【8】 (普通の)科学者は見つからないものはないのかもしれないと考える。 (三流の)ジャーナリストは見つからないものは隠されていると考える。

いや、「見つからないものは隠されている“かもしれない”と考える」の間違いだろう。そしてそういう懐疑もある程度は必要だろう。というか、語尾を少し変えて対比するのはズルいと思うよ。「見つからないものはないと考える。」は不味いと思ったのだろうけど。

【9】 (普通の)科学者は誰の話を聞いても本当かどうか考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞く前に本当かどうかを決めている。

科学者であろうがジャーナリストであろうが、そういう人はいるだろうし、一流の人間であっても、そういうことをしてしまうことはあるだろう(多くの者は、富や名声を得たいと思っているし、また獲得したそれを守りたい、という心情を簡単には捨てられないだろう)。

【10】 (普通の)科学者は話を聞いて理解できないのは自分の知識が足りないからだと考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞いて理解できないのは相手の説明が下手だからだと考える。

これに限ったことではないが、基本的に内面批判は下らない。それこそ「人文的」と揶揄される批判の代表選手ではないか。

【11】 (普通の)科学者は分からなければ勉強する。 (三流の)ジャーナリストは分からなければ説明責任を追及する。

後者をすべきでない行為だとするならば、其々は各々各自で勝手に勉強すればいいわけで、報道自体必要なくなるだろう。だが、「説明責任を追及する」ことも必要なことなのではないか。「聞き出す」役割を誰かがやらなければならないのではないか。確かに、東電や保安員の会見などを見ていると、相手をつるし上げること自体が目的であるかのようになってしまっている記者もいる。しかしそこに問題があるのだとすれば、単にそれを問題として取り上げればよいだけであり、属性自体を非難する必要はない。

それに、勉強することと説明責任を求めることは対立しないし、勉強したからといってそれらを全て適切に理解できるとは限らない。多くの場合は勉強しないのではなく、勉強しても分からないだけなのではないか。また、報道によって情報を受け取る者の殆どは無知であり、勉強もしないし、しても分からない人が殆どなのだから、それを馬鹿にできる人もそうはいないはずだ。さらに言えば、全て勉強して分かってしまう人であっても、そうであるならば、「分からない人」が大半だということは既に学習できているはずだから、そういう人に責任を求めるより、ただその事実を受け入れた上で、それに相応しい対応を探ればよい、ということになる。前者の考え方を実践しようとするならば、だが。

【12(了)】 (普通の)科学者は量と反応の関係を考える。 (三流の)ジャーナリストはあるかないかだけが問題である。

「あるかないか」をハッキリさせることができるならば、それはそれでジャーナリストとしての重要な役割の一つを果たしていると言えるだろう。そもそも、三流であろうとなかろうと、大抵は基本的にそれらの内容を問題としているのだと思うが。

――結局のところ、ここで挙げられた「(三流の)ジャーナリスト」の考え方は、自戒とすれば良いが、他者に突きつけると自己言及になってしまうようなものばかりだ。つまり、そこに「(三流の)ジャーナリスト」は必要ないし、また「(普通の)科学者」を対比させる必要もない。

 ***

では普通のジャーナリストは三流だ、ということで(笑) @vivisuke 毒を減らすために「三流の」という形容詞句がついてるけど、「普通の」ジャーナリストとしてもいいと思う。
keigomi29

肩書きを根拠として不特定多数の人間を貶し、一方の陣営の優位性を明らかにしようとするのは、「(普通の)科学者」のすることなのだろうか。――実際は科学者、ジャーナリスト云々というより、人によりけり、場合によりけりだろう。ここでは科学者という肩書きを持つ人物が、科学者というよりむしろ人文系、あるいは政治家としての側面を前面的に押し出しているように、同じ肩書きを持つ者でも様々な人間がいるし、同じ人間でも様々な側面を持っている。よって、肩書き自体を批判しても仕方がない。それどころか、肩書きに石を投げつけることで、それを媒介とし、不特定多数の人間にダメージを与えようとする行為は、科学というよりむしろ呪いに近い…というか呪いそのものだ。

そもそも、ここで明らかにしようとしているのは何なのだろう。科学者とジャーナリストでは求められる役割が異なるはずだ。それらを同列に並べて優劣を測るというのは、果たして適切な比較と言えるのだろうか。対比するなら、(普通の)科学者と(三流)科学者、(普通の)ジャーナリストと(三流)ジャーナリストを比べるべきではないか。そうならないのは、肩書きの優劣が自体が主題となってしまっているからだろう。その結果、科学者脳とジャーナリスト脳、どちらが信頼できるか、どちらの陣営に付くか、みたいな話になってしまっている。

ここでこの言説に喝采を送っている人達の多くは、恐らく「ゲーム脳」には批判的な人が多いのではないか。しかし皮肉なことに、このまとめでは、なぜ「ゲーム脳」が多くの人々に歓待されたのか、ということが箱庭的に再現されてしまっている。そしてそれを可能としているのは、恐らく「科学」ブランドの魔力なのだと思う。

 ***

いずれにせよ、「科学者(正しい)>一般人(普通)>ジャーナリスト(間違い)」みたいな序列が一般化してしまうのは非常に不味い流れだと思う。何故なら、それはそれ自体が既に科学的思考でないということもあるが、そういった考え方が定着してしまえば、科学者の肩書きを持つ者が暴走した時、もはや誰もそれを止めることができない、ということを意味するのだから。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
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