ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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直ぐに属性/経歴批判に走る自称普通の日本人は多いけど…

誰かがなんらかの主張を行った時、その主張が間違っていることを示すため、その主張を行った者の属性や経歴を指し示し、こういう属性や経歴を持っている者の言うことだから(間違っている)…みたいな反駁方法を取る者は多い。

これは逆に言えば、「立派な社会人/普通の日本人」である自分の意見は、属性的、経歴的に劣であるあの者の意見よりも正しい、というアピールでもあるだろう。だがもし、ある主張に納得がいかない時、その言説の内容を批判するのではなく、直ぐに属性批判や経歴批判に手を出し、相手の印象を貶めることで自説の正しさを証明しようとする者が「立派な社会人/普通の日本人」であるとするなら、日本の平均的言論レベルは極めて低劣なものであるということになる。つまり、こういった方法で行われる対抗言説は実質的に、日本の平均的言論レベルは低劣である、というアピールにもなっている。
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敵の存在が人生に活気と希望をもたらす

大阪維新の会を待ち構える落とし穴 - 中央公論.jp

 厳しいのは大阪府である。橋下知事は過去一〇年以上、ずっと赤字続きだった大阪府の財政を黒字に転換したことを強調するが、その中身は実にお寒い限り。一般企業と違って行政の台所は借金でも歳入に組み入れることが合法的に可能なため、借金を増やせば収支を黒字に見せかけることもできる。しかし、それは見せかけの黒字にすぎない。借金がどれだけ財政の負担になっているかという「実質公債費比率」の推移を見ると、平成十九年度から二十一年度まで、大阪府は一六・六%から一七・二%へと増加。逆に大阪市は一一・八%から一〇・四%へと減っている。ちなみに、この数字が一八%以上になると、地方債の発行には国や都道府県の許可が必要となり、二五%を超えると財政破綻の一歩手前、早期健全化団体に転落する。大阪市に比べて大阪府の財政はイエローカードの危機的状況なのだ。大阪市は逆に、關淳一前市長の改革によって財政は緩やかに好転しているのである。
 さて、チルドレン議員の何人かに「大阪府と大阪市の財政はどちらが厳しいか」という質問をしたところ、例外なく全員が「大阪市」と答えていた。

大阪府の財政を黒字に転換したことを強調し、大阪市の財政健全化に対する姿勢の悪さを糾弾し続けてきた橋下府知事だが、実際に内容的に財政が悪化していたのは大阪府の方だったという。

(続)大阪府と大阪市の借金残高について 「実質公債費比率について」

最近になってようやく橋下知事もそのことを認めたわけだが、彼の支持者達はこのことをどう思っているのだろう。というのも、彼を支持してきた人達の多くは、財政健全化への期待やそれを成し遂げた功績を彼を支持する第一の理由として挙げてきたはずだからだ。ところが好転していたはずの財政は、借金による黒字化で好転しているかのように装われていただけであり、実際はむしろ悪化していた。つまり、本来ならこのことによって一番怒らなければならないのは元々彼を支持してこなかった者達より、むしろ財政健全化を最重要視し、それ故彼を支持してきた人達のはずなのだ。財政が悪化していただけでなく、彼はその事実を隠し続けてきたわけだから(内容的に改善している、という直接的な表現は避けてきたかもしれないが)。
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しかしながら、その事実が暴露されたことによって彼の人気が衰えるかといえば、そうはならないだろう。これが何を意味するかといえば、彼が多くの人々から支持されてきた理由は財政の健全化ではなかったということだ。つまり彼の人気は、アンケートなどによって表にあわられる理由以外に、もっと他の要素が関わっている。

では何故これほどまでに彼が人々の人気を獲得することになったのか言えば、それは彼が“みんな”の敵を上手く作り上げ、それを人々に提供する能力に長けていたからだろう。この問題における大阪市がそうだったように、そうやって何者かを憎らしい敵に仕立て上げ、それを糾弾する度に彼の人気は増していった。

 ▼敵の存在が人生に活気をもたらす

しかしこの敵の提供という手法や、そこで提供されたものを受け取ることは別に彼のような人間やその支持者だけに特有なものではない。むしろそれは非常に一般的なものと言えるだろう。

例えば、多くのゲームは敵を倒す場を与えてくれる性質を持つものであることが多い。スポーツだってそうだろう。物語にしても、敵と戦ったり悪を罰したりするようなものほど求心力が強かったりする。ある意味、人々は常に敵を、悪を欲している。何故ならその敵との戦いが人々に活気を与え、その者に人生における興味(意味)と動機をもたらしてくれるからだ。そしてそれに没頭することによって、或いは悪が罰せられることの爽快感によって、人々は生きることの辛さを紛らわそうとする。

だが、そういった娯楽は確かに人生に活気やカタルシスをもたらしてはくれるが、――例外もあるだろうが――希望までは与えてくれないだろう。しかし、政治の場ではその限りではない。あの者達が我々の足をひっぱっている、あの者達のせいで我々の生活は逼迫しているのだ、というような舞台設定を持つ敵の提供を受け入れれば、その戦いによって興味や動機のみならず、あの敵を倒せばこの状況が好転するのではないか、という希望をも抱くことができる。希望をかけた敵との戦いは、その者の人生をより一層強く活気付けてくれることだろう。実際、こういった敵の提供というマーケティング手法は、ゆとりやニート、オタク、モンスターナントカに代表されるように、テレビや出版などの分野でも盛んに用いられてきた。

そして政治の場において、昨今より多くの人々を引き付けるより魅力的な敵を提供することが出来たのが橋下知事だったというわけだ。つまり彼は、この希望なき茨の時代において、より多くの人々に希望とカタルシスをもたらしてきたある種の救世主という側面を持っている。だからこそ彼は大勢の者達から支持されてきたし、それ故に彼を支持してきた人達は、それをもたらしてくれる限り彼を支持し続けることだろう。その希望やカタルシスの配布に比べたら、財政再建化の嘘などほんの些細な事柄でしかない――と、そういうことなのだろう。

橋下知事「政治に独裁を」 資金パーティーで気勢 大阪市長選立候補には言葉濁す - 産経ニュース

そのためには独裁という犠牲も厭わない、とさえ思っている人も多そうだ(大阪都構想に希望を抱いている者などそうはいまい。人々が注目しているのは、むしろそこで行われる戦いの方だろう)。

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ただ、こういった戦いは結局単なる内ゲバを招くのがオチで、それによってその組織や集団が発展していくことはまず考え難い。例えば、幾ら憎いからといってスポーツなどにおけるライバルチームを本当につぶしてしまえば、そのスポーツの人気はそこで途絶えてしまう。余りに力の差がつき過ぎても白けてしまい、やはりそのスポーツ全体の人気は下降することになるだろう。つまり、必要なのは力を拮抗させた上での節度ある戦いであり、本当にガチのつぶし合いになると、集団としての活気は失われてしまう。しかしながら、人々が心の底から敵を憎んでくれないと、敵の提供というマーケティングが大きな成功を収めることはない。

さらにこの手法は、それによって人気を獲得した者がその人気を維持し続けるためには、次から次へと敵を生み出し続けなければならない、という問題を抱えている。敵として魅力的な対象を喪失してしまうと、そこで人気も途切れてしまうからだ(少年漫画などにおいて、次から次へと「最強の敵」が順序よく登場するのもこのためだ)。だがこういった手法が一般化すればするほど、敵として何者かを祭り上げた側にもまた、誰かを引き立てるための敵の役割が回ってくる可能性が高まることを意味する。もちろん、敵として祭り上げられた者が祭り上げた者を敵として認識するのは言わずもがな。つまりそれは、人生という舞台の上で行われるある種の爆弾ゲームのようなものと言ってもよいだろう。この手法はそのような性質を持っている。

――ただ、敵の提供という手法に頼り切るような政治家が増えることはこういった様々な問題を孕んではいるものの、もはや政策で多くの人々に希望を与えることができるような状況にない以上、そういった手法を上手く利用することができる者が政治の場で人気を博すのはある意味当然の成り行きともいえる。そうである以上、敵の提供によって力を増した橋下知事という敵を倒しても、また第二、第三の橋下知事が登場してくることになるのは必定だろう。

まあなんというか、一つの国や組織が没落していく時は大体こんな感じになるのだろうな、としか言えない。

それに、敵の提供という手法で成り上がった者が次から次へと敵を生み出し続けなければならない宿命を背負っているように、その敵の提供を受け取ることに希望やカタルシスを依存してきた者もまた、常に敵を求め続けなければならない宿命を背負っている。だとすれば、その戦いから足を洗って希望やカタルシスを失うよりも、用意された舞台設定の上で敵と戦い続けることの方がまだ健全だと言えるのかもしれない。

「今ままで大して興味も持ってなかったクセに」について

日本女子サッカーがワールドカップで良い結果を出したことに便乗した精神論プロパガンダ(ex.諦めない力)の横溢が鬱陶しい昨今だが、それはともかくとして。――今回のケースのように、何らかのイベントなどによって特定のジャンルが一時的に大きな盛り上がりを見せると、必ず「今ままで大して興味も持っていなかった者がこんな時だけ騒ぐこと」への批判的論調が巻き起こるのが恒例行事のようになっている。
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しかし、ワールドカップやオリンピックなどは、そのようなライト層までもを巻き込まなければ成功を収めることは難しいだろう。そしてそうやってより広く一般の耳目を集め、多くの人々の興味を引くことができるからこそ、未来の根強いファンや優秀な選手が生まれてくる可能性も高まるし、そこに金も流れやすくなるという側面がある。

つまり、あるジャンルが大きな力を持ち、それを維持し続けるためには、定期的に「普段は大して興味を持っていない者達」に騒いでもらわなければならない。そういう人たちにも興味を持ってもらい、「可能性」を広げなければならない。もちろん、考え方としては着実に根強いファンだけを増やしていく、という方向性も考えられる。だが、そのような思惑が目論見通り上手くいくことは滅多にないし(全員のうちの誰が未来の根強いファンや優秀な選手になる素質を備えているかは誰にも分からない。よって「可能性」を膨らませるしかない)、市場規模を広げ維持するためには、やはりそれと同時により多くの人々の興味を引く工夫もまたこらさなければならない※1。そのためには、一度興味を持ったからにはこれからもずっと興味を持ち続けなえればならない、みたいな高いハードルを設けるのはマイナスでしかないだろう。

では、「こんな時だけ騒ぐこと」が駄目だとされる根拠は一体何なのだろう?大会が失敗して欲しいとか、そのジャンルがいつまでも一部の人達にのみ愛でられるマイナーなものであって欲しいと願うなら、確かにそれは駄目なことだろう。だがそれが駄目の根拠として挙げられているわけではないだろうし、他にそれが駄目なもっともらしい理由も見当たらない。実際のところそれは、ただ単に「気に食わない」というだけのことでしかないように思える。

もちろん、流入する人数が増えればそれだけ場が荒れやすくもなるのは事実であり、そこに問題を見出す者もいるだろう。だが一方で、ライト層を取り込まないとその市場が大きく成長することができないというのもまた事実だ。そもそも、そのジャンルがメジャーになるということは、場の荒れが常態化することを意味するわけで、場の荒れとメジャーになることは元々切っても切り離せない関係にある。

また、場が荒れることを問題とするにしても、新参者が盛り上がりの輪の中に参加することや、そのジャンルにおいて無知である者がその話題に言及すること自体は荒らし行為とまでは言えないし、それを糾弾するのはおかしい※2。それに実際には、むしろ新参者の流入を快く思わない古参のファンが場を荒らしていることも少なくないのではないか。つまり、場を荒らすのは必ずしも新参者だけとは限らない。



※1 そういえば以前、女性の野球ファンを増やすことを目的として高校野球の前座にジャニーズを呼んだところ、前座が終わって試合が始まると同時にジャニーズ目当てで来た大勢の客が一挙に退散するというなんともお寒い一幕があった。流石にそのジャンルとは全く関係のない餌で人をひきつけようとするようなやり方が上手くいくはずもなかった。

※2 全ての分野に明るい人間などいない。また、殆どの人間は殆どの分野において無知である。つまり無知な分野への言及が駄目であるとすれば、殆どの人間は常に口をつぐんでいなければならないことになる。

IIEQProをv3にアップデートした

早速IIEQProをv3にアップデートした。新しく追加されたフィルタは、従来からあるものよりも格段に出来が良い。v3はv2とはもはや別物と言ってもいいくらい。正直、$29に値上げされてからはもうお買い得感は余りないかなあ、と思っていたのだが、これなら値上げにも十分納得がいく。

DDMFからのメールによると、新しく追加されたフィルターは、おそらく現在市場に出回っているプラグインEQの中でももっともフレキシブルなものではないか、とあるが、確かにこんなこと↓ができるEQは余りないだろうなあ。
IIEQ3-test1.png

IIEQ3-test2.png

ただ、フレキシブルになったということは、それだけ使用者側の選択余地が増えるということでもある。オーダー・レンジングの選択や、(BandShなどにおいて)ことさら重要度が増したQの設定などが面倒くさいと感じる人もいるかもしれない。また、従来型のフィルターでもっとクリアな変化を得たいと思う人もいるだろう。そういう人は他のEQを探すしかない。ただ一つ言えるのは、今回のアップデートによって、IIEQProは価格だけではなくクオリティでも十分勝負できるEQになったということ。これは間違いないと思う。

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因みに、購入手順にこんな感じ↓

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IIEQ Proがver.3にメジャー・アップデート

メジャー・アップデートなので、アップデートするためには料金が必要になる。DDMFからのメールによると、既存のユーザーは通常価格――最近$29にアップした――の半額の$14.50でアップデートが可能とのこと。ただし、新バージョン発表の3ヶ月以内に購入した人は、ただで最新版を入手することができる。また、Macのことはよく分からないが、PowerPCのサポートは打ち切りになるとある。

IIEQ3.png

↑これが新しくなったGUI。個人的には前のGUIの方が好きだったんだけど…
(慣れるとむしろこちらの方が良いような気もしてきた。立体感があって)。

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ホカホカの失敗事例

小出裕章氏が反原発のヒーローとなった もう一つの理由|香山リカの「こころの復興」で大切なこと|ダイヤモンド・オンライン

前回のコラムについて――お詫びと補足|ダイヤモンド・オンライン

はてなブックマーク - 前回のコラムについて ――お詫びと補足|香山リカ


はてなブックマークでは、謝る必要は無かったという意見が結構あるが、それは大きな間違い。何故なら、当該記事は元々マジョリティ(「普通の日本人/立派な社会人」)をターゲットとしたホカホカ――バッシング対象を提供し、一緒に叩くことで友好関係を築く――商売用としてあつらえられた商品だったから。
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しかし、反原発的な態度を取る(取っている)人や小出裕章を支持する人はもはや必ずしも少数派とは言えず、それらは既に香山リカやダイヤモンド・オンラインの取引相手としても重要な位置を占めるまでになっている。その顧客に、悪の代名詞としてのニート・ひきこもりのレッテルをはり、自意識批判を行ってしまった。顧客の自尊心を高めることを生業とする幇間芸人がそれをやっちゃ不味いでしょう。

要するに、これは日本の伝統文化としてのDogezaであり、反省文。これからも日本で「普通の日本人/立派な社会人」を標榜する人達相手に自尊心ビジネスを続けていくためには、このケジメは絶対に付けなければならなかった。あの批判はお客様に対してではなく、私自身に対するものでした、というのもお約束。

よって、初めから原発・エネルギー政策なんて関係ないし、記事の内容が持つ妥当性という視点から謝る必要があるか無いかを判断するのも誤り。

労働/失業問題は作業問題でも心の美醜の問題でもなく、ポジション問題

 ▼(1)「働かない/働きたくない」は何を意味するか

作業をしたから労働になるわけではない。労働をしたから金が得られるのでもない。金の流れの中に上手く身を置くことができているからこそ金銭を獲得することができ、それによってその者は労働を獲得する。そのポジションを上手く確保することさえできていれば、活動の内容によってそれが労働であることが否定されることはない。例え大儀と違ったことをしていても、幾ら下劣な行為によってそれを確保していたとしても、それらは全て「労働」という一つの枠組みで捉えられる。

労働は、活動の内容によってそれになっているのではない。ポジションがそれを労働にならしめている。労働問題と言うのは、そのポジションを如何にして獲得し、維持するか、という問題。そしてそれを獲得できなかったり失ったりすると失業者になる。逆に言えば、そのポジションを獲得することができなければ、幾ら作業――例えば他の労働者と寸分変わらぬそれ――をしてみたところでそれは労働にはならない。

つまり「働かない」が持つ内容とは、作業をしないことではなく、そのポジションを獲得する能力が無いということを意味し、「働きたくない」とは、持続不能なポジションしか獲得できず、遅かれ早かれ同じ結果になることが分かっているから、それならもうポジション争奪戦には参加したくない、ということを意味する。

ところが実際には、ポジション争奪能力の欠落、喪失ゆえに生じる「働かない/働きたくない」問題は、その個人が活動をする気を持っているか否かという意志の問題や、作業問題であるかのように捉えられていることが多い。

 ▼(2)「心の美醜の物語」の市場価値

当たり前のことだが、社会的ポジション争奪戦には常に競合相手がいる。よって自分の意志(一存)だけでそれ――ひいては労働を行うか否か――を決定することはできない。また、全ての人間に、その者にとって持続可能なポジションが用意されているわけでもない。故に、必ず誰かが脱落していくことになる。

このポジション争いは、市場における商品の流通の問題として見ることもできる。この世に生まれてきた全ての商品に買い手がつき、それが価値を持ったものとして市場で流通し続けるなどということはあり得ないだろう。それと同じで、この世に生まれてきた全ての労働力(商品)が市場で価値あるものとして流通し続けるなどということもまたあり得ない。そこにはどうしても、売れ残りや使い捨て、消耗による流通価値の消滅という問題が付きまとう。

要するに、労働/失業問題とはポジション獲得問題であり、商品流通の問題でもある。失業者はそのポジション獲得(維持)能力が無いが故に、失業者となる。商品として売れ残ったり、消耗などによって流通価値が消滅するが故に、その者は無職になる。だからといって政府が市場に介入し、全ての商品が上手く流通し続けることができるような環境を作り上げることができるかと言えば、それは中々難しいだろう。全ての人間に持続可能なポジションを提供することもまた困難だ。――さて、この普遍的問題にどう対処するのか。それが失業問題の出発点だ。

しかし、この人類の持病たる解決不能なポジション争奪問題は、働く意志があるかないかや、成熟/未成熟などといった、個々人の精神の貴賎の問題に摩り替えられ、矮小化されてしまう。つまり、その普遍的問題はもう既に解決しているのだが、卑しい心の持ち主のせいで未だに問題として残り続けている、というような、「心の美醜の物語」によって現実は解釈される。そしてその物語の話題によって問題の核心はかき消される。

もちろんこれは別に労働/失業問題だけに限ったことではない。「心の美醜の物語」――もう少し具体的に言うなら、内面批判・自意識批判――で問題の核心が覆い隠されてしまう傾向があるのは、他の様々な問題についても言えることだ。

何故そういったことになるのかと言えば、それは「心の美醜の物語」に強い市場価値があるからだろう。それゆえ、その物語をより魅力あるものとして提供することができる人間は、ポジションの獲得や維持が容易になる。だがこの「心の美醜の物語」は、問題を適切に捉えたり、それを改善しようとするベクトルにとっては邪魔なノイズでしかない。よって、その問題の解説や解決のための処方箋としてそれを提供しているのなら、それは大儀と違った内容の活動をしていることになる。

――しかし、労働は内容によって労働になるのではない。ポジションによって、市場価値によってそれは労働になる。よってその条件を満たしている以上は、「心の美醜の物語」の提供もまた、他のそれらと同じ尊く崇高な労働であり続けることができる。人々を魅了する美しいノイズとして市場に流通し、鳴り響き続けることができる。労働とはそういうものだ。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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