ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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日常に溶け込むカルト

カルトと言うと何か特殊なもので、普通に暮らしていればそれに関わったりすることもまずないと多くの者は思っているのではないか。だが実はそうではなくて、むしろそれは常に日常と共にあるのが通常であるように思う。
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大抵の人間は、社会的環境の下でカルト的な抑圧を受けているし、また与えている。例えば順応という言葉は、実はカルト的な風習に収斂されていくことを意味している場合も多いのではないか。

というのも、それが用いられる時、何故それが正しいのか、が語られることは先ずない。初めから有無を言わさずそれに従うべき、という文脈でそれは持ち出される。つまり理屈ではないので、理屈でそれに異議を唱えて覆すことはできない。そこではただ、順応するか、それができずに排除されるかの二択を迫られる。

そこで順応できずに排除されても、他に行くところがあればそれは大した問題にはならない。しかし、社会的な順応競争の枠組みは基本的に規格が統一化されているため、実際には逃げ場がなく、否応なくそれに取り込まれることになる。そしてそこでの競争に敗れ、社会システムという大きな枠組みから脱落することは、実質的に生存からの排除を意味する。

現に社会はこういう内容を持っているし、順応できない者は死ね、に近い内容を持つ発言は、順応者達の口から毎日当たり前のように発せられ続けている。

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この順応のための苦痛は努力と読み替えられ、多くの場合、順応者の誇りとなり、アイデンティティとなる。私は多くの苦労をしてきた、だから生きている価値がある、といように。だが、苦労をしたらそれが必ず報われる世界など存在しない。つまり、苦労が順応の原因である、などと言うことはできないし、ましてや苦労の量と成功の大きさが比例するはずもない。そもそも全ての人間はみな異なった条件を持っているわけだから、本当は苦労の量を外部から統一的な規格で計測することすらできない。

しかし、実際にはそれは計測される。個々人の感覚が持つ千里眼によって。そして、大抵は苦労こそが成功の、順応の源であると認識される。それ故、非順応者は苦労が足らない堕落した者達だからどんなに痛い目にあっても当然、いや、むしろ苦労が足りないからこそ順応できなかったのだから、彼らのためにもっと苦痛を与えてやらなければならない、ということになる。それに異論を唱えても、それは同時に順応者のアイデンティティを踏みにじることにもなるから、怒りによって益々それをブーストさせることにしかならないのが概ねだろう。そしてやがてその内容はシステムへと還元されていく。戸塚ヨットスクールの脳幹論やオウムのポアの正当性も正にこういうものであった。

特筆しなければならないのは、こういった世界観、考え方は、何も特殊なものでもなんでもないということだ。それはむしろ非常に一般的なものであると言えるだろう。戸塚やオウムの特殊性は、世界観や考え方というより、暴力を社会システムに代行してもらわず、直接自分達の手で行ってしまったところにある(例え一般的でない世界観を持っていても、暴力をシステムに代行してもらっているうちは大した問題にはならない)。

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もし、ある集団内における大多数の者がカルト的な内容を持つ枠組みに収斂されたなら、その時、その集団において果たしてそれはカルトと認知され得るだろうか。或いは、恐怖政治が圧倒的多数に支持されている時、それは恐怖政治であるとその社会において認知され得るだろうか。結局そういったものは、それがいずれ力を失った後や、それが力を持つ集団の外からしか社会的には認知され得ないものなのではないか。日常においてカルトが存在しないかのように認識されるのは、結局それが日常に溶け込んでいて確認できないだけに過ぎないのではないか。

そしてこれを突き詰めていくと、もしかしたら秩序とは、カルト的な抑圧の下でしか保つことができないものなのではないか、というところに辿り着き、全く救いがなくなるという。
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Angraの「Carry On」をVSCとS-YXG50で


【追記6/26】ヴォーカル・パートの音量をちょっとだけ下げて上げ直した。

昔打ち込んだもの。音源はVSCとS-YXG50。ただ、それだけだとどうもエッジが足りない感じだったので、AmpliTube FREEを特定の帯域にだけ限定して掛けてみた。

思えば、MUSEを使い始めて初めてちゃんと打ち込んだのがこの曲だった。まだ使い方がよく分かっていなかったので、半音下げチューニングを調号で何とかしようとしたりして…。しかしピッチの扱いに関しては未だにこのシーケンサに勝るものはないのではないか。この曲で使っているようなピッチ入力をREAPERですることを考えただけでも気が遠くなる。それはDominoや昔のSSWなどでも同じ。

まあ、ギターに関しては(有料音源を持っているならば)もうピッチでどうこうする時代じゃないのかもしれないし、ヴォーカル・パートを楽器の音色で模倣するという手法を取ることも今ではまずないだろうけど。

DDMFのColourEQがフリー化

▼ColourEQ
ColourEQ.png

KVRニュースによると、ColourEQは元々他のEQでは利用できないようなユニークな周波数応答曲線を特色としていたが、今ではその特色の殆どはIIEQ Proにも組み込まれているし、他の製品の開発により専念したいから、もうフリー化する、みたいな成り行きらしい。フリーだけで頑張っている人には朗報かも。

REAPER:ダイナミック・スプリットで無音部分をカットして負荷軽減

後から所々内容を変更したり付け加えたりしています。

Dynamic split - CockosWiki

有料版のREAPERには「ダイナミック・スプリット(Dynamic Split)」という機能がある。これを使うと、オーディオ素材のトランジェント(音のアタックやサステイン)を検出し、そのタイミングでアイテムを自動的に分割することができる。

dynamic_split7.png

例えば、生録した音源の音のタイミングのズレを一音づつ直したり、オーディオ・クォンタイズを行ったり、余分な部分の音だけを除去するに当たって、この機能が役に立つ。

それに加えて、ダイナミック・スプリットはゲートとしての機能も備えている。ゲートが必要ならプラグインを使えばいいのではないか、と思うかもしれないが、この機能で無音部分をアイテムごと切り取ると、その部分の余計な負荷を軽減することができる、というメリットがある(当然、ゲートを挿す分の負荷も軽減できる)。

例えば、(其々の録音ファイルを適切な箇所に配置し、VSTiなども含めた全てのパートを一端wev化したマルチトラック・ファイルを扱う際)1曲中に2、3度しか登場しないパートでも、そのままだと無音部分においてファイルを再生するための負荷がかかってしまう。この機能ではそういった問題を解決することができる。実際、全てのパートが最初から最後まで鳴っているなんてことは余りないだろうから、必要なパートにこれを施していけば、そこそこの負荷軽減が期待できるのではないかと思う。また、この方法はプラグインでゲートを掛ける場合と違って、目でも音を確認できるので、それもメリットの一つと言えるだろう。以下はその手順について。
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▼(1)無音部分の切り取り

該当アイテムを選択して右クリックし、「Item processing」->「Dynamic Split」をクリック。すると以下のような画面が現れる。

dynamic_split3.png

そこで、一番上の「Split points」項目で「When gate opens」と「When gate closes」の二つにチェックを入れる(「At transients」は必要に応じてオンオフを決定。ゲートしか使わないならオフ)。これによって、ゲートが開いた時と閉じた時のタイミングでアイテムを分割する設定になる。そしてこの二つにチェックを入れると、「Gate」項目の「Remove silence」を選択することが可能になるので、それにチェックを入れて有効にする。

dynamic_split0.png

すると、上の画像のように無音部分と判断された箇所が影で表示されるようになるので、それを見ながらちょうどよい具合になるように其々の項目を調節していく。調節が終わったら「Split」ボタンを押す(この機能で無音部分を切り取っても、元となるwavファイル自体は毀損されない)。

↓実際に無音部分をカットしてみたところ。上は元の素材。
dynamic_split1.png

ここで一番重要なのは、「Gate」項目の「Gate threshold」と「Hysteresis」だろう。前者でゲートが開く音量の大きさを決定し、後者でそれが閉じる音量の大きさを設定する。例えばスレッショルド-50dB、ヒステリシス-5dBに設定すると、素材の音量が-50dB未満の部分は無音と判断され、それよりも音量が上がるとゲートが開く。そして再びその音量が減少し、-55dBになるとゲートが閉じることになる。スレッショルドを上げ過ぎると必要な音までもが切り捨てられ、下げすぎると不必要なノイズを生かしてしまうことになるので、ここは慎重に設定しなければならない。

ただ実際には、ここで不必要なノイズを取り除こうとしても上手く行かない場合も多いので(より厳密にそれを行いたいのなら、結局手動のヴォリューム・オートメーションで行うのが一番確実)、先ずは必要な音が切り捨てられないことを最優先して設定を行うべきだろう。

しかし、特に音量差が激しい素材などの場合、どんなに設定を弄っても以下のように必要な音までもが切り捨てられてしまうケースが出てくる。

dynamic_split4.png

そういう場合は、その切り捨てられる部分の前後をショートカット「S」で分割しておき、それ以外のアイテムを選択し、スプリットするとよいだろう(スプリッティングは選択した複数のアイテムに対して一括して行うことが可能)。

因みに、こんなふうにして無音部分を切り取ることを、LogicやProToolsではストリップ・サイレンス(Strip Silence)と言うらしい。

▼(2)パラメータについて

以下は、上では触れなかったパラメータについて。

続きを読む »

多分ずっとこんな感じ

http://ja.favstar.fm/t/215273426535976960

「負け組を放置すると犯罪者になって社会にダメージを及ぼすので税金から生活保護を献上して大人しくしていて貰う」と「山の神様が暴れて村を破壊しないように毎年処女を献上する」は似ている。@shibata616

その山の神様は元々口減らしのために追放された村の者が変容したものであり、村人はそれを知っているから、追放者が山の神になる前に誰にも迷惑を掛けず自害してもらうことを願い、「ヒトニメイワクヲカケルナ、ヒトニメイワクヲカケルナ」と祈り続け、時折大規模な「迷惑掛けるな祭り」が執り行われる。村人はそれに熱狂することで山の神の脅威を忘れようとするが、それをよりいっそう盛り上げるために、また新たなる追放者が必要とされるのだった…とまあ、多分滅ぶまでずっと人間はこんな感じ。

「敵」の自害と慮りに甘え続ける日本×「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

松井知事「自己完結して死んで」 ミナミ通り魔事件で - 47NEWS

松井一郎大阪府知事は11日、大阪・ミナミで男女2人が刺殺された通り魔事件で逮捕された容疑者について「『死にたい』というのなら、自分で死ねよ。本当にむかむかくる。人を巻き込まず自己完結してほしい」と述べた。

自分の意志で生まれてきた人間なんていない。人間の一生は無理矢理社会に巻き込まれることで始まり、社会とのもみ合いのなかでその在り様が決定されていく。よって、生活することも死ぬことも、自己完結などあり得ない。よく言われる「自立」のパッケージの中身にしたって、それは社会システムへの巧みな依存でしかない。

リアルタイム検索でこの事件に関する注目キーワードが幾つか上がっていたので見てみたところ、松井知事発言のように、「甘えるな、死にたいなら自分で死ね」で溢れかえっていた。だが、この甘え発言は倒錯と言うほかない。ちょっと回りくどくなるが、何故それが倒錯であるかについて書いてみる。
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 ▼(1)似非自由競争主義者と二つのトレードオフ

黒葛原歩先生の生活保護に関する怒涛のツイートをまとめたよ。 - Togetter

実際ね,ホームレス支援とかしてるとね,どー考えても生活保護しかないのに「本人が保護を受けたがらない」っていうケースが,結構あるのよ。でも,そしたら解決は【1】役所以外で助けてもらう,【2】自力救済,即ち窃盗・詐欺,【3】死ぬ,しかないでしょ。で,残念ながら【2】になる例がまた,結構あるのよ
ATsZRA 2012/05/27 22:27:01
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丸囲み数字は確か機種依存文字だったように思うので、丸囲みは【】に変更している。

実際には、【3】が自殺のことだとすると、もう一つ、【4】全てを投げ打って敵と戦う、という選択肢もある。

現代社会における常識では、労働問題もまた、市場での自由な競争に任せておけば全て上手くいく、ということになっている。だが、競争には敗者がつきものだ。そして競争に破れ、市場から淘汰されたからといって、労働力という商品がすぐさま現実から消え去るわけではない。

この問題に対し、多くの自由競争主義者は、再び競争に参加させる、という処方箋を出す。しかし、物としての商品は価格をどんどん下げて再び市場に投入ということも可能だが、労働力を売るのは生活を維持するためであり、それにも限界がある。また、物であれ人であれ、それにとって無理な条件で使用され続ければ壊れてしまうのは同じことだ。その時、物なら廃棄すればそれで済むが、人はそう簡単にはいかない。だから、物では取れる対策を人でもまた取れるとは限らない。そもそも、幾ら価格や条件を下げたところで、自由市場において全ての商品に買い手が付くことなどあり得ない。さらに、一度市場で淘汰された者が就活するというのは、市場の意向に反して無理矢理商品を誰かに売りつけることを意味するから、市場の意向を尊重する者ほどそれが困難になるという問題もある。

つまり、「再び競争に参加させる」という解決法は、自由競争であればこそ尚更それが功を奏する可能性は低くなる。そして競争であれば必ず、競争に参加することすらできなくなる敗者が生まれる。「労働」を重んじるのならば、市場で価値を失った者を国が雇う、という解決策もあるが、自由競争を重んじる者はこれを否定するだろう。

そこで次に、ではこの問題にどのように対処し、それにどれ程のコストを払うのか、という問題が突きつけられる。留意しなければならないのは、これは自由競争導入に伴って必然的に生じる、自由競争そのものの問題だということだ。故に、この問題に配慮することに対して――自由競争主義と相反するものだという意で――社会主義的などというレッテルを貼る自称自由競争主義者がいるとすれば、それは似非と見るのが妥当だろう。自由競争主義者であれば尚更、この問題に真剣に取り組む必要があるからだ(それをしないというのは、例えば原発を推進しておきながらそのリスクについては無視、と同じ)。

しかしどのような対策を取ろうとも、それにはコストがかかる。そして一線で競争を続けている者達の多くは、なるべくならそれにコストを払いたくない、と思うことだろう。何故ならそこにトレードオフの関係が成立しているからだ。

 ***

其々がどのような形態で生活を営むかはともかく、誰かの生活やその水準を守ろうとすれば、他の誰かのそれを犠牲にしなければならない。そのためには誰かをシステムから切り捨てなければならない場合もあるだろう。ある一時点を切り取って見れば、あるいはこれ以上経済成長が望めないとすれば、ここにトレードオフの関係が成立しているのは事実だ。しかしそこには同時に、システムに包括出来ず、【1】の選択肢も持ち得なかった人間は、否が応でも【2】【3】【4】のうちのどれかを選択せざるを得なくなる、という問題もまた存在している。これもまたトレードオフの関係にある。

ところが、前者のトレードオフは「現実は厳しいのだ」という決め台詞と共にやたらと強調され、切り下げや切り捨ての正当性の根拠として頻繁に持ち出される一方、それとセットになっているはずの後者のトレードオフについては、逆に恰も存在しないかのようにして扱われるのが通常だ。もし切り下げや切り捨てを野放図に行い、何も問題が起こらないのであれば、それで生活が守られる側の人間にとっては、これほど「甘い現実」はないだろう。

だが、もちろんそう上手くいくとは限らない。包括化の努力を怠り、安易に切り捨てや切り下げという手法にばかり頼りすぎると、トレードオフとしての【2】【3】【4】から生じる問題がどんどん増えていくのは当然のこと、自らが切り捨てられる側になる可能性もまた高まっていくことになる。貧困層と富裕層の財産ばかりが増加し、中間層が消滅することを後押しする危険性だってある。さて、それらを踏まえた上でどうバランスを取るべきか、というのが社会政策の出発点のはずだ。

であるが故に、一つの意見として、安易に切り下げや切捨てをすべきではない、という主張が出てきたりするわけだが、多くの場合そういった主張は道徳的意見とみなされ、道徳だけでは社会は上手く回らないのだ、という主張に丸め込まれる。その一方で、包括化失敗のトレードオフとして必然的に生じてくる問題に対しては、自己完結しろ、甘えるな、という道徳的非難が寄せられる。つまり、個人の道徳による解決が求められる。だが、それこそ正に道徳では絶対に解決しない問題なのだ。

 ▼(2)宥和策の失敗に伴って生じる必然的紛争

全ての人間が生活を維持し続けることはできないし、全ての者が納得の行く人生を送ることもできない。全ての者が納得の行く社会を作ることもできない。この世がユートピアでないという事実は、生きるとは、生死をかけたポジション争いであり、迷惑の掛け合いであるということを意味する(――生まれてきて良かったと思うことのできない人間からすれば、産み出されること自体が既に大いなる迷惑)。つまり、例え同国人であろうと、其々は元々お互いに「敵」としての性質を絶えず水面下に備え持っているわけだ。

だが、その性質をむき出しにしたままだと、お互い常に「敵」に怯え続けなければならなくなる。それではよろしくないということで、なるべくその性質を直接的にぶつけ合わずに済むよう婉曲化することで人間社会は発展してきた。つまり、社会制度・政策は、「敵」同士が集まって生活せざるを得ないこの社会における宥和策としての性質を持っている。

これが何を意味するかと言えば、その宥和策で下手を打てば、それだけ紛争が激化するということだ。宥和策は基本的に社会システムへの包括という形で行われるが、それが失敗すれば、システムに包括化された人間とそうでない人間は、お互い「敵」としての性質をむき出しにして向き合わなければならなくなる。

そうなれば、前者の側から見れば後者の人間は、生きることを選択しようと自害しようと最後まで戦いぬこうと、その存在自体が常に暴力性を帯びることになる。一方、包括化されなかった側の人間からすれば、された側の人間から絶えず「死ねという状況」を投げつけられることになる。

その時、自らが包括化されている側にいるからといって、つまり、戦力的に圧倒的に優位な側にいるからといって、その紛争の被害から全く無縁でいられると考えるのは間違いだろう。相手に「死ね」という状況を投げつければ、その者から「お前こそ死ね」というカウンターが返って来るのを覚悟しなければならない。その反撃を無いものと予想するなら、それは見立てが「甘い」と言うほかない。ましてや、自害でなく討ち死にを選んだ「敵」に、「甘えるな」などと言うにいたっては全く支離滅裂だ。

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宥和策に失敗すれば紛争が起こる。紛争が起こればそれによる被害を被る可能性が出てくる。だからそれを緩和するために力を尽くさなければならない。しかしそれにはコストがかかる。しかも、幾ら手を尽くしたからといってそれが上手く行くとは限らない。そもそも全ての人間をシステムに包括することなどできない。逆に言えば、幾らシステムに収まろうとしてもそれに収まることができない人間もいる。そういった者は嫌でも強大な包括勢と「敵」として向き合わなければならなくなる。だから紛争が、それによる被害がこの世からなくなることはない。だからこそ現実は厳しい。

一方「甘えるな」言説は、甘えなければ全て上手く行くはず、という甘い見立てが背景に想定されていて初めてその説得力を獲得し得るものだ。そして「厳しい現実」が現れると、それに向けて一斉にその甘い見立ての成果物が投げつけられる。「甘えるな、死にたいなら一人で死ね」と。だがそれもまた、紛争が起こっても「敵」は「誰にも迷惑を掛けず」勝手に自害してくれるに違いない、という甘い見立てが裏切られたからこその拒否反応だろう。そうやって問題解決を「敵の自害」に依存し、その慮りに甘え続けてきたのが今のこの社会ではないか。冒頭の事件における甘え発言は、こういった倒錯の上に成り立っている。

 ▼(3)「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

『もののけ姫』のキャッチコピーは「生きろ。」だったが、この手の、生き抜くことの大切さ、生命の大切さ、を説く言説にはどこか胡散臭さが漂っている。

社会システムに上手く依存することが出来ている人間は、ただそれを持続すればよいだけで、態々「生きる」という選択を積極的にする必要はない。その選択が迫られるのは、そのシステムの外に追いやられた時だ。そして「生きる」を選択するということは、冒頭の例で言うと【2】を選択することに他ならない。宮崎駿は果たして、そういう状況に追い込まれた者に対し、「【2】を選択しろ」と言うことができるだろうか。自分は出来ないと思う。そしてそれは彼だけでなく、殆どの者がそうなのではないか。生きることの素晴らしさを説く言説がどこか胡散臭いのはこのためだ。

結局、殆どの人間は生き抜くことや生命の大切さなど肯定できない。ましてや「逃げずに戦え」を肯定できる人間などそう滅多にはいないだろう。何故ならそれは、【4】を選択すること推すことになるからだ。実際にそんな主張をした人間は、頭のおかしい奴扱いされるだろう。もちろん、システム内での競争もまた戦いとは言える。しかしそれは所詮婉曲化されたそれでしかない。それだけを切り取って肯定しても、「戦え」を肯定したことにはならない。お互い「敵」としての性質をむき出しにして向かい合った時、自害を選ばず戦い抜くことを肯定してこそ「戦え」を肯定していると言えるだろう。

要するに、「生きろ」「戦え」は、生きるか死ぬか、戦うか逃げるか、という本当に差し迫った状況にない時にだけ支持され、本当にそれが現実味を帯びてくると途端に否定される、そういうイメージだけで中身空っぽなオシャレ・アイテムとして使用されているだけにすぎないのだ。

reapeaksファイルの保存場所を指定する

REAPERを使っている人には恐らく常識だと思うが、使い始めた人は案外知らなかったりするかもしれないので一応書いておく。
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REAPERでは、音声ファイルを読み込むと波形を表示させるためのreapeaksファイルが作成される。しかし、デフォルトのままだと読み込み元となるフォルダにどんどんそれが溜まっていき、どうしてもフォルダ内が煩雑になってしまう。それに、たかがreapeaksといえど、溜まってくると容量もバカにならないし、捨てても必要ならまた作られるので、一箇所に集めて管理した方が便利だ。

そうしたい場合は、Option -> Preference -> Pathsを開き、「Alternate wave form peak(reapeaks)cache path」の項目で、適当な場所を指定する。

↓一番下の項目
peakfile.png

これでそれ以降、reapeaksファイルは全てここで指定した場所に保存される。

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尚、一番上のデフォルト・レンダー・パス(Default render path)欄では、プロジェクトでレンダリングの保存先をまだ指定していない場合に表示される、デフォルトの保存先を指定することができる。未指定の場合、以前にレンダリングした場所が表示される。

↓Directory欄のデフォルト設定を指定できる
default_render.png

二番目のデフォルト・レコーディング・パス(Default recording path)欄では、プロジェクトを保存する前に録音やステム、フリーズなどでファイルを書き出した場合のファイルの保存先を指定できる。未指定の場合、自分の環境の場合だと、マイドキュメント->「REAPER Media」フォルダに保存される。うっかりプロジェクトを保存する前に録音してしまったりした場合は、取り合えずそこから類推されるような場所を探してみると録音ファイルが見つかるかもしれない。

「昔の人なのにすごい」は「上から目線」?

どうでもいいことだが、ツッコミを入れておかないと気持ち悪かったので。

【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 先人に「上から目線」の愚+(1/2ページ) - MSN産経ニュース

 賢者の言葉を紹介した本が売れている。ゲーテやニーチェ、カフカといった先人の言葉をコンパクトにまとめたものが多い。こうした中、巷(ちまた)でよく聞かれるのが、「ゲーテは今から200年も前の人なのにこんなにすごいことを言っていたのか。驚きました」「ゲーテの言葉は今の世の中でも十分に通用しますね」といった類いの反応だ。「どれほど上から目線なのか」と逆に驚いてしまう。たかだか200年後に生まれたというだけで、一段上の立場から「昔の人なのにすごい」とゲーテを褒めるわけだ。これは近代-進歩史観に完全に毒された考え方である。すなわち、時間の経過とともに人間精神が進化するという妄想だ。

 彼らに悪気がないことはわかる。ただ感じたことを口にしただけだ。だからこそ深刻なのだ。捻(ね)じ曲がったイデオロギーが体のレベルで染み付いてしまっている。たしかにこの200年で科学技術は進化し、生活は豊かになった。当時、電話は存在しなかったが、今では誰もが携帯電話を使いこなしている。しかし、ほとんどの現代人はケータイの構造を理解していない。与えられたものを便利だから使っているだけであり、200年前どころか原始人となにも変わりはない。むしろ、石器を手作りしていた原始人のほうが、世界を深く認識していた可能性がある。現代人が先人より優れている証拠はどこにもない。一方、劣化を示す兆候は枚挙にいとまがない。その原因は《未来信仰》にある。

 かつては「昔の人だからすごい」という感覚はあっても「昔の人なのにすごい」という感覚はなかった。偉大な過去に驚異を感じ、畏敬の念を抱き、古典の模倣を繰り返すことにより文明は維持されてきたからだ。過去は単純に美化されたのではなく、常に現在との緊張関係において捉えられていた。(中略)

現代人の趣味に合わないものは「昔の人の価値観だから」と否定されるようになった。大衆は自分たちが文化の最前線にいると思い込むようになり、古典的な規範を認めず、視線を未来にだけ向けるようになった。過去に対する思い上がり、現在が過去より優れているという根拠のない確信…。畏れ敬う感覚が社会から失われたのである。

人間そのものは大して変わらなくとも、文化や社会システム、生活スタイル、常識や流行の思想といったウワ物はどんどん変わっていくわけで、にもかかわらず、時代を超えて通用する言説があるとするなら、それに「すごい」という評価を送るのは別におかしなことでもなんでもないだろう。つまり、「昔の人なのにすごい」の成立要件として「人間精神が進化」が関与していなければならない必要性はどこにもない。

それに、知識や発見の積み重ねを進歩と捉えるなら、「進歩史観」は必ずしも間違いではない。そして外部環境における進歩は進化ではないので、それに対して「人間精神が進化するという妄想」を抱いているなどと言うことはできない。またこのことは、個々人の能力差はあれど、同じ能力を持った者であるなら、積み重ねられた知識を利用できるだけ現代の方が有利――実際には、情報が氾濫しすぎていて取捨選択が難しいという面もあるだろうが――、ということを意味する。即ち、「すごい」は昔の人達は条件的に不利であったのにもかかわらず…、という驚きとして捉えることもできる。これは別に上から目線でもなんでもないだろう。

要するに、少なくともここに例として挙げられ批判されている発言からは、「人間精神が進化する」という考えを見出すことはできない。にもかかわらず、それにそういったレッテルを貼るなら、それこそ妄想の産物なのではないか。また、「昔の人の価値観だから」が表しているのは差異であり優劣ではない。よって、ここから「現在が過去より優れている」を読み取るのも誤りだ。
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さらに妙なのは、ここでは「時間の経過とともに人間精神が進化する」ことを否定しながら、「一方、劣化を示す兆候は枚挙にいとまがない。」とし、昔と今では人間の感覚が大きく異なっているとしていることだ。200年前の人達全員に訊いて回ったわけでもないのに、「「昔の人なのにすごい」という感覚はなかった」と断定してしまうこと自体相当無理があるが、何にせよこの人物は「人間精神の進化」という大きな変化を否定する一方、「劣化」という大きな変化が人間に起こっていると主張している。

進化論になぞらえて主張を展開しているので、敢えてそれに乗っかってみると、例えば、人間の尾骨はシッポが退化したものだと言われているが、それも進化の結果と言える。つまり、退化も進化の一部なわけだ。よって、もし「劣化」を退化のような大きな変化として捉えた時、それはむしろこの人物自身が「人間精神の進化」が存在すると主張していることになる。さらに、ここでは人間精神に優劣を設け、それが優なるものから劣なるものへと変化しているかのような主張が展開されているが、これは、進化とは劣なるものから優なるものへと変化することだ、という説と同じような誤謬の上に成り立っている。

また、「石器を手作りしていた原始人のほうが、世界を深く認識していた可能性がある。」というように、蓄積された知識や技術、そこから生み出される道具を利用できる環境にある現代よりもそれらがなかった昔の方が進歩していたと規定するなら、それは「進歩史観」ならぬ「退歩史観」ということになる。つまり、《未来信仰》を否定しようとするあまり、《過去信仰》に陥ってしまっているのだ。まあ「保守」ならば《過去信仰》を持っていても当然なのかもしれないが、これはこれで妙な話だ。

現在、自我が肥大した幼児のような大人が、闇の世界で万能感に浸るようになっている。革命、維新などという近代的虚言を弄んでいる連中は、歴史と一緒に大きく歪(ゆが)んだ頭のネジを巻きなおしたほうがいい。

昔から革命だ、維新だの言う胡散臭い連中はいたはずだし、同じように「「B層」が国を滅ぼす」※1――検索してみると、この人はそんな本を出版しているらしい――に代表されるような、賛同者の優越感をくすぐる言説をばら撒いて身を立てる自尊心ビジネスもまた存在していたことだろう。そしてそれに乗っかった人達も大勢いたはずだ。さらに言うなら、例えばポルポトは美化された太古の生活に戻ることを大儀に掲げていたように、《過去信仰》もまた革命とは無縁ではない。

「人間精神の進化」がないのなら、現代人が昔の人達よりもとりわけ賢明であると言うことはできないが、同時に昔の人達が現代人に比べてとりわけ賢明であったと言うこともできない。結局のところ、この言説のそもそもの間違いは、「差異」を無理矢理「優劣」に置き換えてしまおうとしたところにある。しかし、例えどのような規格でそれを測ろうと、必ず劣なる者が存在せざるを得なくなるだろう。つまりそれは、人間は常に劣なる存在を伴ってしか存在し得ないことを意味するわけで、この考え方は、人間は劣なる存在である、という結論にしか辿り着かない。

【追記】 もちろん、物事に優劣を付けること自体は否定しない。だがその場合、何でそれを測ったのかという、感覚依存ではない明確な物差しを提示すべきだろう。でないとそれはただの好き嫌いの話にしかならない。【了】



※1 この手の手法は、言説をCD、それに賛同することで得られる優越性を握手権と考えると、実にAKB商法的なものだと言える。CD(言説)自体はどうでもよいという。ある政治家や社会的傾向に問題があるのなら、その問題を指摘すればいいわけで、それらを支持する者はB層、みたいなレッテル貼りに支えられることで初めて成立するような言説は出来損ないとしか言いようがない。

Sleepy-Time RecordsのM/S対応VUメーター「STEREO CHANNEL」

このVUメーターはGUIが綺麗で見やすくてよいと思う。しかも、「OPERATION」の上の切り替えスイッチによって、左右のメーターをL/RからM/S表示に切り替えることも出来る。

sleepy_time_sc1.png

デフォルトでは0VU=-18dBFSだが、「NOMINAL LEVEL」項目で0VU=-24~-6dBFSの範囲で変更が可能。

入手は以下から。
StereoChannel - Stereo Gain Staging/Balance VST- Cockos Confederated Forums
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このプラグインは他にも、Left/Right/Mid/Sideごとのミュート機能、左右のチャンネルの位相反転と入れ替え、L/R、M/Sごとの音量バランス・コントロール機能など、様々な機能を備えていて、ただのVUメーターの範疇を超えている。他にも、「CENTER X-OVER」ノブでは指定した帯域――0~500Hzの指定が可能――以下のSide成分をなだらかに削り、モノラル化することができる。

応用としては、同じ素材を読み込ませた二つのトラックを用意し、其々にこのプラグインを立ち上げ、一方でSideをミュートし、もう一方でMidをミュートすれば、M/S分離処理をすることも可能。

またこのプラグインには、GUIから直接操作することは出来ないが、GUIを非表示にすることで設定が可能な項目もある。

sleepy_time_sc2.png

「Yellow/Red LED Level」では、黄色LEDや赤色LEDが点灯する音量レベル、「Yellow/Red LED Hold」ではその点灯を維持する時間を設定することができる。「Phase Correlation Timing」では、GUIの下の「STEREO CHANNEL」ロゴの右にある位相相関メーターのバーの振れる速度を設定することができる。他にも「Balance Law」「Balance Compensation」といった項目があるが、これはどうも挙動が不安定な感じなので、余り触らない方がよいかもしれない。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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