ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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REAPERが4.32にアップデート

4.32 one blastoff! - Cockos Confederated Forums

REAPERが4.32にアップデートした。その新機能の幾つかを紹介。
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▼ビデオ

VLCメディア・プレーヤーでのプレイバックが可能になった(この機能を利用するためには、VLCメディアプレーヤーをインストールしておく必要がある。また、FLVは拡張子をmpgやmp4に変更する必要あり)。これによって、VLCメディア・プレーヤーで再生可能なファイルはREAPER上でも再生可能になる。これまでもFFmpegのDllを使用することで再生可能な形式を増やすことは出来たが、幾つかのファイルで試してみたところ、その方法よりも今回の機能を利用した方がスムーズに再生されるものがあった。ただし、書き出し形式を増やすためにはやはりFFmpegが必要。

↓フォーラムの関連スレッド
Video Playback and Exporting - Cockos Confederated Forums

一応注意しておくと、VLCはVirustotalで2つほど赤が出るのがちょっと気になる。有名なプレイヤーなので大丈夫だとは思うが。
420_04.png

▼ルーティング・マトリックス

ルーティング・マトリックス画面において、マウスによる現在位置がハイライトされるようになった。また、MIDIインプット/アウトプットが表示されるようになった。
420_02.png

▼オート・ミュート

モニタ保護のためのオート・ミュート機能が働いた後、再生すると自動的にミュートが解除されるオプションが追加された(デフォルトでオンになっている)。これは地味に便利。「Options -> Preferences -> Audio -> Audio settings -> Reset on playback start」
420_01a.png

▼MIDI

アレンジ・ビュー画面でMIDIイベントを直接貼り付けることができるようになった。
420_03.png
↑トラック1のノート・イベントをアレンジ・ビュー上でトラック2に貼り付けて見たところ(#CCも貼り付け可能)。

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本来、今回のアップデートではMIDI関連の改善が含まれるはずだったが、そちらは色々手間取りそうなので、とりあえず出せるものだけは先に出しておく、という感じのアップデートな模様。MIDI部分はREAPERの大きな弱点の一つで、何年も前から手を付けるよう要望がありながらずっとスルーされていた経緯もあるので、次回のアップデートには期待している人も多いと思う。ただ、フォーラムにはMIDIに煩い人達が結構いるものの、基本的にトラック単位でMIDIを扱う人が殆どのようで、自分が改善して欲しい同一トラック内でのチャンネルの扱いに関する機能に関しては殆ど要望が挙がっていないのが残念。
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指示通りに作業していたらチンピラオヤジにもの凄い勢いで怒鳴られた

夜勤になってから、また自分の仕事のやり方も全く異なり、戸惑うことばかり。時間も朝からの時よりも少し長くなったし、仕事内容も以前よりきつくなったので、家に帰ってから風呂に入って寝たらもう直ぐに仕事に行かなければならないという、そういう毎日。それでもようやく今の仕事のに馴れてきた初めての週末、その最後の最後で事件は起こった。
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自分の現場に指導者は二人いる。一人はその現場の責任者の社員A。もう一人は今また新しく研修に来ている人を指導する嘱託社員Bで、後は皆自分と同じような短期契約の派遣社員ばかりだ。さらにうちの現場の直ぐ上にも部署があり、そこは嘱託社員Cが管理している。その部署は自分が今している仕事との関わりが深い。問題なのはこの嘱託社員Cだ。

この会社は製造業なので当然あるものを作っているわけだが、うちの現場は、元となる物(ブツ)にある加工を施して隣の現場に持っていくのが仕事だ。そしてその一工程を一サイクルと呼んでいる。その加工前の物を運んでくるのは自分に任された仕事のうちの一つだ。

で、その日は自分がこの現場で夜勤になって始めての週末で、朝礼でいつもより一サイクル少ないこと、余分な物は持ってこなくてよいことが嘱託社員Bから伝えられた。なので、いつもなら置き場所がある分だけ目いっぱい物を持ってくるのだが、その日はそれに合わせた分しか物を運んでこないようにしていた。しかし、もう直ぐ仕事が終わるという頃になって、社員Aから置き場所がある分、さらに物を運んできておくよう頼まれた。なのでそれに従い、物を持って行ったところ、いきなり何の前触れもなく、どえらい剣幕で嘱託社員Cに怒鳴られた。それも尋常な怒鳴り方ではなかった。たまにテレビでやっている、大阪の警察が暴力団の事務所に踏み込む時のような、あんな怒鳴り方だった。元々見た目も喋り方もヤクザみたいな奴なのだが。

自分は社員に支持された通りに作業していただけでしかない。しかし、アレが仮に自分のミスだったとしても、あんな風に怒鳴ることの仕事上の必然性、そうすることの仕事上のメリットが全く思い浮かばないのだ。ミスがあればその情報を伝達し、補正するのが彼らの仕事ではないか。しかも自分は今の現場に来て一週間、そしてたかだか一ヶ月半の人数合わせ、ただの使い捨て要員だ。職人を目指している者でもなんでもないし、会社は未熟なことを承知で雇っているわけだから、それに応じた対応と責任を取るのが彼ら(上役)の仕事であるはずだ。

それをあんな風にしてしまったら、職場の人間関係はギクシャクするし、怒鳴られた者だってモチベーションを失うだろう。それで辞める人間だっているだろうし、最悪、事件に発展する場合だってなきにしも非ずだ。あの行為はどう考えても仕事上マイナスでしかない。だとすれば、あれは仕事上の行為ではなく、奴の個人的なウサ晴らしとしての行為だったということになる。

要するに、奴は初めから自分に目を付けていて、何かにこきつけて怒鳴りつけてやろうと、そう考えていたのではないかと自分は疑っている。コイツなら何を言っても何をしても反撃してこないだろう、立場が弱い人間だから、そういう嫌がらせをしても何ら自らがリスクを負うこともないだろう――そういうことを考慮にいれた上での行動だったのではないかと(それが証拠に、自分に物を持ってくることを命じた社員には怒鳴っていない)。

 ***

こういうことを我慢するのも含めて仕事であり、それができてこそ大人だと言う人もいるかもしれない。だがそれは違う。たしかに、労働がポジション維持活動であるとすれば、我慢もまた労働であると言えるかもしれない。しかしこの手の嫌がらせは決して(ある事柄を成し遂げるための作業としての)仕事ではない。それは明らかに個人的なものであり、むしろそれによって仕事を犠牲にする行為だ。

元々ポジションを獲得していない自分達使い捨て要員は、ポジション維持活動としての労働というより、単に一時的な取引として仕事を行うためだけにここに来ている。自分達はただその一点のみで結びついている。そのための契約を結んでいる。「他人に罵倒されて耐えるだけの簡単なお仕事です」というような契約内容ならともかく、そうでないなら個人的な嫌がらせに付き合うなんて仕事のうちに入らない。そんな契約は結んでいないし、それに付き合う義理もない。このようなことが続くのであれば、それは向こう側の契約内容に瑕疵があったと、少なくとも理屈上は言えるだろう。

しかし自分が何より許せないのは、そこでは仕事にマイナスになる個人的なウサ晴らしや嫌がらせが、恰も仕事上必要な事柄であるかのように装われ、仕事上の立場を利用して行われていることだ。そしてそれが野放しにされ、それに耐え、順応し、そしてまた下の立場の者にも強いていくという因習が成熟であるとされ、なんら改善されないことだ。

政治に興味が持てない人が多いのは、こういった本当に深刻で切迫した身近な生活状況は、それによって改善されることは望めないと分かっているから、ということもあるのではないか。まあ確かに、今回の件はどちらかと言うと「人」の問題であり、そういった事柄に政治が直接介入してくるというのは不味いということはあるかもしれない。しかし政治によってまともな働き口を増やすことができるのだとすれば、こういった状況の深刻さも軽減されることになる。だが政治は、雇用を増やすことは考えても、その条件を改善することには見向きもしない。ただクソみたいな条件の働き口を乱発することにしか興味がなく、それを乱発した上で「(職は)探せばあるはずだ!」と言う。それが民衆の声だ。

すると結局のところ、自分みたいな趨勢から外れた底辺の人間がああいう人間や状況に報いるには、銃を乱射する、みたいな方法しか残されていないわけだ。

 ***

それにしても運の悪いことに、奴の着替えのためのロッカーは自分のロッカーの直ぐ後で、毎朝(といっても実際は晩だけど)仕事前にも必ず顔を合わせなければならない。ほんと、どうすんのよこれ。

生死の掛かった取引では市場原理は働かない

過酷な労働環境で働く労働者は奴隷的であると言われることがある。だが――自分の今の職場がそこまで過酷であるかどうかはともかくとして――自分のような使い捨て用品としての労働者は、そうであるが故に奴隷的であるとは言えない。というのも、奴隷というのは主人の財産でもあるからだ。だから主人はその価値を毀損しないよう計らう必要性もでてきたりする。それは例えば、継続的に使い続けるためのカメラと使い捨てカメラの扱いの関係を見れば分かり易いだろう。つまり、自分のような人間はある意味奴隷以下の存在であると言える。
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これに対し、企業側からの法に抵触する形での労働の強要やパワハラなどに何ら抵抗を示すこともなく、唯々諾々と従ってしまう会社員は「社畜」と呼ばれ、揶揄されたり非難されたりする。何故それが非難されることになるかと言えば、そういう者がいることで市場原理が働かなくなるからだ。

市場原理には、経済効率性を高めると同時に、労働者の質と労働環境・条件の質の改善もまた期待されている。それによってより多くの人々の生活もまた改善されるに違いない――この蓋然性が、極力市場に委ねるべきである、という主張の大儀になっている。ところが「社畜」が一定数存在すると、企業は現状の労働環境・条件を改善する必要がなくなってしまうため、その質の改善は阻害されてしまう。ルール違反が野放しにされ、市場は健全なものではなくなってしまう。それ故そのような存在は、侮蔑の意味をこめて「社畜」と呼ばれたりするわけだ。

だがその攻撃が当の本人達に効いているかと言えば、それは疑問だ。大抵そういう者達は「社畜」と呼ばれても開き直っているし、むしろ何の関係もない話題に態々それを持ち出してきて誇らしげにしている者さえいる。何故「社畜」がそのような鎖自慢をしたがるのかと言えば、彼らはそれ以下のポジションが存在することを知っているからだ。そして自らのそのポジションは多少我慢さえすれば持続可能である(或いは次の飼い主が見つかる)と考えているのだろう。だから幾ら「社畜」呼ばわりされても動じない。

この問題の根っこには、「社畜」が潤沢に供給されるからこそ労働環境・条件が改善されないのと同じく、自分のような使い捨て用品が潤沢に供給されるからこそ、「社畜」はそのポジションを維持し、誇り続けることができるという問題がある。

もちろん、それらが潤沢に供給されるのにはそれなりの理由がある。そこには生死がかかっているため、取引における選択の余地がなくなり、死の恐怖に後押しされる形でそれらは潤沢に供給されることになるのだ。畢竟、労働市場におけるそれのように、生死がかかっている取引に関しては、一方的関係性が形作られ対等で自由な取引が出来なくなるため、市場原理は働かなくなる。さらに言えば、労働市場に関しては、実際にそこで働いてみるまでその内容が分からないという情報の不透明さの問題もある。そんな状況でまともな市場が形作られるはずもないだろう。ましてや「職を選り好みするな」「直ぐに離職するな」などという(市場の自由を真正面から否定する)主張が常識的なものと認識されている社会では尚更だ。

要するに、――そもそも市場原理などというものに過剰な期待を抱くこと自体が間違いではないのか、ということもあるが――もし仮に市場原理を働かせようとすれば、まず取引の際に死の恐怖が付きまとい自由な選択ができなくなるような状況を改善しなければならない。そして実際にそこでどのような労働をするのかという情報が徹底的に開示されていなければならない。さらに言えば、市場のルールを無視し続けるプレイヤーには速やかに退場してもらわねばならない。そういった環境作りを諦め蔑ろにすることは、市場原理を捨てることに他ならない。だが、実際にそういう環境を実現させることに熱心な人間は一体どれほどいるだろうか?

そういったことを踏まえて現状を見てみると、「市場原理」は言葉では正当性の根拠としてよく持ち出されるものの、実のところ殆ど誰もそれを重んじようとする者などいないことが分かる。結局、重んじられているのは市場の機能ではなく、その言葉が持つイメージの政治的効用であり、それを利用しようとする者が大勢いるだけなのだ。

 ***

ただし経済効率性という面だけに注目すれば、もう少し違ったものも見えてくる。合理性や効率性という言葉は、「誰の何の目的にとって」という前提条件によって中身がガラっと変わってくるということに十分留意しなければならない。その上で、実際に人を使い捨てにしたり無茶なこき使い方をした方が誰かの何らかの目的にとって合理的で効率的である(それによって守られるポジションが増える)場合が存在するのもまた事実だ。

だが市場におけるそのような機能だけが重んじられるのであれば、市場とは所詮そういうものであるという情報――つまり特定の誰かの目的を達成するために他の誰かが割を食うのはやむなし――がはっきりと明示されていなければならない。そしてそれは市場原理をただの利害対立に変貌せしめ、社会的共有物としての性質を排斥することになるだろう。

そもそも経済効率性を高めることが何故良いことであるとされるのかと言えば、それによってより大勢の人達の生活が改善されるはずで、そこに自分もまた含まれるのではないか、と期待されるからだ。それが期待できず、単に割を食うだけであると認識した側の者にとっては、市場原理はただマイナスをもたらすだけのものでしかなくなってしまう。そうなれば市場を重んじる故はなくなってしまう。

問題は、自らの労働環境や条件が多少悪くなろうと、他の者が、或いは自分が使い捨てにされようと、企業にとっての経済効率性(というか利益)を重んじることで自分の今のポジションを維持することができるのであればそれでいい、と考える者が大勢いるであろうことだ。そしてこの考え方は、彼らの立場からすれば必ずしも間違いであるとは言えない。結果として、このような経済効率性を追求することだけが市場に求められることになる。

この場合、労使における対立軸はもはや経営者vs労働者、正規vs非正規という単純なものではなくなる。これは政治の場における制度設計においても言える。経営者が賛同しているだけではその政策は通らないわけだから。よくある「労働者同士がいがみ合えば経営者が高笑いするだけ」というようなセリフがどこか陳腐で時代遅れなものに聞こえてしまうのは、こういった状況が既に成立してしまっているからだ。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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