ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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己の限界を知らずに済んだ者ほど勇ましい

<経験と言動の逆転現象>

よく「辛い体験をした者ほど逞しくなる」
などという理論を唱える人達がいる。

そして、脆弱な精神の形成は辛い体験の欠如、
もしくは、その体験からの逃避が原因であるとし、
他者により辛い体験を強いることを提案する。

つまり、それが精神的脆弱性の
治療や予防に繋がるというわけだ。

だが、物事はそれ程単純ではないだろう。

中には、「辛い体験」による精神的疲弊や
消耗が原因で引き起こされる脆弱性や、
幼少期に継続的な精神的ダメージを受け、
それによって強固な精神を形成するための
順風な成長が阻害されてしまったが故の
脆弱性という可能性もあるはずだ。

そういった場合にさらなる精神的負荷を課す
ことは、返って逆効果になるどころかその者を
窮地に追い込むことにすらなりかねない。

冒頭の言説はそういった危険性を秘めいてる。

 ***

確かに適度なストレスは必要だ。
例えば肉体でいえば、筋肉は適度な負荷に
よって一旦破壊され再構築されることによって
より強くなるし、骨も常にある程度の負荷が
かかっていないとどんどん弱くなる。

しかし、行き過ぎた負荷を掛けることは
取り返しの付かない結果を生むこともある。
関節を骨折したり、腱を切ってしまった時は
一生その後遺症が残ることもあるだろう。

怪我にしても、浅い傷だと完全に回復して
その傷跡も無くなってしまうこともあるが、
深い傷や火傷などは一生その跡が残ることに
なるし、神経を損傷すれば元通りに戻ること
は難しく、手足を切断してしまえば二度と
生えてくることはない。

そしてそれは精神に於いても同じことなのだ。
精神とて肉体と同じく無限性はなく確実に
疲弊もすれば消耗もするし、受けたダメージも
必ずしも回復可能なものばかりとは限らない。

だから、何らかの原因でそういった行き過ぎた
負荷がかかり、その後遺症の辛さを身をもって
体験した人は、他者に「辛い体験をした者ほど強く
なれる」などという無責任なことは絶対に言わない。

仮に「精神にも負荷が必要だ」ということを
主張する場合も、それはあくまで「適度な負荷」
であるということを傍から見れば滑稽なくらい
強調するだろう。それは、度を越えた負荷が齎す
結果の恐ろしさやその後遺症からくる大変さを
実際の経験を通して嫌と言うほど知っているからだ。

ところが、己の限界を知る必要のない程度の
精神的負荷しか経験せずにその人生を送って
くることが許された人達の多くは、
その恐ろしさに気付くことが出来ない。


そして精神もまた肉体と同じ様に無限性はなく、
枯渇してしまうこともあれば回復不能な損傷を
負ってしまうこともあるという「精神の有限性」
という条件の考慮を忘れ(軽視し)がちになる。


だから、それによって誰かを窮地に
追い込み兼ねないような危険性を帯びた
言説を平気で唱えることが出来る。
(実際他者を窮地に追い込むために
そういう発言をしているのかもしれないが)

つまりそれは結果として、実際に己の限界を
知らずに済む程度の精神的負荷しか経験した
ことのない者ほど他者に対してより精神的に
大きな負荷を掛けるべきだと主張し、実際に
後遺症を背負うことになるほど重い負荷を経験
してきた者ほどそのことに警鐘を鳴らすという、
経験と言動の逆転現象を生じさせる
ことになる。



<肯定される精神的暴力>

だが限界を超えた負荷を経験し、より重い
後遺症を背負わざるを得なくなった者ほど
社会的成功を収めたり、もしくは一旦
収めた成功を維持し続けるのは難しい。

その一方で、成功を収めそれを維持し続けて
いる者の多くは、上手く「適度な負荷」
を経験してきた(いる)者達だ。
つまり、己の限界を知らない者達。

・世の中の人々が(社会的に)成功した人間
と失敗した人間のどちらの言うことを信じるか。

・日本に於いて、精神的に枯渇しかける
ほど消耗してしまった、或いは回復不能な
までの損傷を負ってしまった人間と
そうでない人間のどちらが多数派か。

・「精神には無限の可能性が秘められている
のだから、今は劣勢でもその力を上手く発揮
すれば貴方にも大きなチャンスがありますよ」
という甘い言説と、「精神も肉体と同じく個人差
もあれば限界もあるので、其々その限られた条件
の中で如何に上手く生きぬいていくかしかない」
という夢のない言説のどちらを信じたくなるか。

・「大きな負荷を掛けるべきだ」という主張
(これは同時にその発言者が大きな負荷を
経験してきた、或いはこれからも強い負荷など
恐れない、というアピールとしても機能する)と、
「負荷は適度なものでないといけない」という
主張のどちらに「勇ましさ」、つまり論戦の勝敗
を大きく左右する「イメージ的強さ」を感じるか。


こういった条件を鑑みてみると、己の限界を知る
ことなく人生を送ってくることが出来た者の主張が
そうでない者の主張よりも広く一般に受け入れ
られることになるのは必然と言えるかもしれない。

そして、それはつまり「精神の有限性」という
条件が軽んじられてしまうことをも意味する。

しかしそのような条件の下で冒頭の様な単純化
された言説が広く社会に浸透してしまうと、
精神的・環境的暴力を際限なく肯定する
ような土壌が出来上がってしまう。

何故なら「有限性」が軽んじられた上での
精神的・環境的暴力という「精神的負荷」は、
それが被暴力者にとって損害であるという
認識が薄まり、むしろそれは「治療」や「鍛錬」
という被暴力者にとっての利益になる行為だ、
という認識がなされてしまう
からだ。

当然、「有限性」が軽視されているから
その暴力行為による損害認定へのハードルは
非常に高く設定され、余程分り易い形で損害が
表出しない限りそれが認められないため、
その暴力行為に対する歯止めも掛かり難く、
歯止めが掛かる時は既に対象が深刻な状態に
陥ってしまっていることが多い。

その結果脆弱性は駆逐されるどころか、
横行する精神的暴力によって回復不能なダメージを
負った、「後遺症」を持つ所謂世間で言う所の
「心の弱い」人間が次々と生み出されることになる。

だが、強い精神的負荷を受けたが故に生まれた
「心の弱い」人間は冒頭の言説によって「辛い体験
の不足」という誤診がなされ、その治療として更なる
精神的・環境的暴力が課される
ことになる。

尚且つその一連の流れは、「強い人間を育てるため」
という大儀で世間から公認された娯楽化した暴力
として消費
され、弱い人間を叩くことを正当化出来る
この言説の麻薬的魅力に魅入られた人々は、暴力を
向ける対象欲しさに大儀をどんどん拡大解釈し始める。

運良くその暴力を受けながら社会的成功を
収めた人間も、その多くがその状況を変えるどころか
自身が暴力を受けたことを大儀としてその暴力の渦を
加速させる役割しか果たせない※1

所謂「俺が我慢したんだからお前も我慢しろ」
という理論だ。

日本に於いて自殺の多さが目立つのも、
「精神の有限性」という条件の忘却や、
それに伴って形成されるこういった暴力の
サイクルが個々人に与える精神的疲弊や
消耗が無関係であるはずがないだろう。

しかし、その暴力のサイクルの中で行われる
生存競争に勝ち残った、自らが自殺という現象の
一部でもあり淘汰者でもある筈の人達が、
「自殺とは自身と周囲の人間に対する許しがたい
暴力行為である」などと言って憤ってみせたりする
のだ。

全く「現実は小説より奇なり」
とは本当によく言ったものだ。


※1 それは一種のコミュニティー参加でもある。
大抵の人間は孤立からくる恐怖感や孤独感、
「独立した個人」が持つの脆弱性回避のために
何らかのコミュニティーへの参加を目指す。
だが、新たなコミュニティーを作るよりも、
ある程度磐石な地盤が整った既存の
コミュニティーに参加するほうが容易であり、
多くの者は後者を選択するし、またそれしか出来ない。
この暴力のサイクルは、それ自体が磐石で
参加し易いコミュニティーとして機能していることも
その求心力の源の一つとなっている。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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