ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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個人の暴力は糾弾され、集団の暴力は称揚される

例の秋葉原無差別殺傷事件の関連記事について書いた
悪意はちゃんと個人に蓄積されていくの続き

一昨日はついカッとなって書きなぐってしまったが、そういうことをするとロクな記事にならないな。いや、まあ元々断末魔ブログだからそれでもいいんだけど。ただ、前の記事だけでは自分が一体当該記事(というか、実際はあの手の論調)の何に腹を立てているのかよく分からない部分もあるかもしれないので、補足として前の記事では書けなかった怒りの理由についても書いておこうかと。
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自分があの手の論調に腹を立てるその理由を一言でいえば、それが独立した個人による他者の暴力を糾弾していながら、自ら(我々)が集団で行ってきた(いる)暴力(集団を形成することで匿名化し、道徳によって肯定された暴力)を隠蔽しているからだ。

現代社会に於いて、人間は何らかの利益集団や利益システムに依存し、それによって集団の生み出す力を上手く吸収することが出来るようになって初めてその生存の持続が可能となる。つまり、完全なる孤立は即ち死を意味する。故に、誰かをその利益集団やシステムから排除することや、依存の継続や獲得が難しい状況を作り出すこと、その依存先を獲得するのが難しい状態に個人を追い詰めることは、それ自体が不特定多数の集団によってなされる個人に対する極めて悪質な暴力行為以外の何物でもないのである。

しかし、この暴力は集団によって間接的になされるものであるが故に匿名化され秘匿化される。尚且つ、依存先の獲得、或いは獲得した依存先でのポジション争いの得て不得手という技術的な問題が道徳的な優劣に置き換えられることによって、そして集団の利益という大儀が用いられることによって、それは正当化される。そういう過酷な依存先しか獲得出来なかったのはその個人が努力をしなかったからだ、能力の低い者を依存させると皆の利益を損なうから、そういった者は依存先を獲得出来なくても仕方が無いのだ、そういった厳しい競争によって社会はより強くなっていくのだ、といったように。

これは何らかの属性に向かって投げつけられる悪意にしても同じことだ。その属性が奇妙だから、キモいから、皆を不快にさせるから、そしてその属性を捨てようとしないから、悪意を投げつけられて当然なのだ、といったようにその暴力は肯定される。当然、その投げつけられた悪意が蓄積されれば蓄積されるほど、その個人は消耗し、最終的には自身の存在価値を信じることが出来なくなって、依存先の獲得や依存の継続が極めて困難な状態に陥っていく訳だが、誰かがそのような状態に追い込まれることもまた同じ様な理由で、「仕方が無いこと」として片付けられる。

だが、こういった「集団の利益」を大儀にし、制度やシステム、風土を通して匿名化、秘匿化された状態で行われる集団による暴力は、実際は単に「誰もやりたがらない過酷な役割を自分以外の誰かがやって欲しい、しかも出来るだけ低コストで。出来れば切捨て要員や、バッシング要員もそれなりに用意しておきたい。それが自分の利益に繋がるのだ」という単純化されたトレードオフ関係が個々人の頭の中に想定され、その意思が働いた結果許容されている暴力でしかなく、大儀なんて本当は全て方便でしかないのだ。

そしてその暴力が振るわれる対象は、特定の誰かである必要はない。誰かがそういった嫌な役割を引き受けてくれさえすれば、正にそれは「誰でもよい」のである。こういった、集団による不特定多数の個人を対象とした暴力が日常的に行われていることは、自分自身の行いを少しでも省みる気持があるなら、誰でも直ぐに気づく筈なのだ。だが、ネガティブさが全て淘汰されてしまうポジティブ社会に於いては、それすら適わない。よって、集団による暴力にブレーキが掛かることもない。で、自分達が(物理的・観念的な)群れを形成し、その群れによって個人に対する無差別攻撃を行ってきた(いる)ことを忘却しているが故に、個人がその群れへの反撃として行う無差別攻撃に対して意表を突かれたように感じ、より一層驚愕することになる。

自分はこんな境遇にいるはずではなかったという一種の被害者意識と、世間に認められたいという自意識が交錯しているように思われる。(中略)私たちはともすれば、何かことがあるたびに、社会が、政治が、教育が悪い--と、安易に、かつ漠然と結論づけてこなかったか。それが「自分は被害者」という甘えの構造、あるいは厳しい現実からの逃げ道をつくる要因になっているように思えるのだ。

「一種の被害者意識」というが、加藤容疑者はこの事件の加害者である前に、こういった集団による暴力の被害者であったことは事実だろう。だからといって彼の加害行為が許される訳ではないというのは確かにその通りだ。もし暴力がいけないことだと定義するのであれば、例えどんな理由があろうと、彼は他者に向かってああいった暴力を振るうべきではなかった。しかし、だとするのなら矢張りそれと同じ様に、例えどの様な理由があろうとも、何らかの個人が依存先を獲得し、それを維持することが困難になるような状況や状態に追い込まれるべきではない筈だ。何故なら、それ自体が既に不特定多数の集団によって為される個人に対する深刻な環境暴力以外の何物でもないのだから。そしてまた、例えどんな属性を持っていようとも、それによって悪意を投げつけられるべきではない筈なのだ。もし暴力がいけないことだとするのならば(だが実際は、そういった集団による個人への暴力は「仕方が無いこと」として片付けられる)。尚且つ、彼が事件の加害者であるからといって、それ以前に被害者であったという事実もまた忘れられてはならない筈だ。だが、ここではそれを隠蔽するような表現が用いられている。

そしてマスコミが何を言おうと、実際に集団による暴力は無くなるどころか、それが明らかに改善されたという現実さえ未だ成立したことはないのだから、この主張は観念論以外の何物でもない。もし集団による環境暴力が大幅に改善した事実があるのにも関らず、その暴力がより過酷だった時期よりもこの手の事件が大幅に増加しているというデータでもあるのならば、その主張にもまだ耳を貸す余地もあるかもしれないが、そうでもなければ、この主張は集団による暴力を肯定する為の援護射撃でしかないだろう。

そもそも、加藤容疑者の行った行為自体を肯定しているのはせいぜい2chのネタスレくらいのものじゃないのか。個人の行う暴力の否定については、もう既に完全に行き渡っているのだ。しかし、集団によってなされる個人への暴力については、否定されるどころか益々それが称揚される一方だ。そして、その集団の利益という大儀の下で行われる暴力というのは、結局のところ匿名化され、道徳によって肯定された、個人の利益のための暴力でしかないという事実は未だ全く世間に行き渡っていない。しかも、今回の事件では加藤容疑者が受けたその集団による暴力が全く事件と無関係であるとは先ず考えられない。

つまり、こういった集団による暴力の性質を明らかにすることこそが頭脳労働者が真っ先に取り組むべき事柄である筈で、それをせずに、もはや世間に完全に行き渡っている個人による暴力の否定をわざとらしく唱え、そして個人の内部に事件の根源的な原因が潜んでいるかのように装うのは、容疑者の外部としてその事件の原因の一端を担ってきた集団による暴力を隠蔽する為の欺瞞以外の何物でもないと自分は思った。だからこそ、自分はあの記事、というかあの手の論調に腹を立てたのだ。

 ***

ある現実がどのような因果によって成立したか、ということは実際のところ誰にも分からない。だが、誰かに悪意を投げつければ、暴力を振るえば、例えそれが集団によって支えられた制度やシステム、風土といったものを介して行われる間接的な暴力であっても、その暴力による苦痛はちゃんと個人に蓄積されていくことは間違いないし、そしてそれが個人に蓄積されればされる程、その(暴力による)吐き出し行為が行われる可能性が高まり、その吐き出し方もまた苛烈なものになるであろうことは予め分かっている。

ならば、その吐き出し行為の在り方を制御したいのならば、先ず個人へ振るわれた暴力による苦痛の蓄積自体を減らす方向へと持っていくのが筋じゃないのか?なのに、集団による個人への暴力を軽減せずに、個人の吐き出し行為の苛烈さだけを改善しようとするのはおよそ現実的なものの考え方とは言い難く、それはデパートのおもちゃ売り場で寝転がっておもちゃをねだっている子供の振る舞いとなんら変わりない。

6月10日付 編集手帳(読売新聞)

◆世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、「容疑者」という型通りの一語を添える気にもならない。

まあ、実際こうやって寝転がっている人もいるけど。自分達(容疑者の外部である我々)が「世の中の一人」として匿名化された状態で行ってきた暴力が事件の外的要因となっていることは絶対に明らかにしたくないし、これからもその暴力を止めるつもりはないぞ、という強い意志を感じるよ。

(追記) そもそも彼は、自身のことを「道具として使えなくなったら、後は誰にも迷惑を掛けずさっさと死ねよ」と誰もから思われているような存在だと認識したからこそああいう事件を起こしたわけで。自身が誰かから本当に大切に思われている存在だと認識していたら、彼もあんな事件を起こすことは無かったんじゃないか?つまりこのコメントは、自身に対してそういう認識しか持つことが出来ない人達に対して、「お前らも事件を起こせよ」という煽りに実質的にはなっているのだが、そういうことにすら気づかないんだろうな、こういうことを平気で言う人達って。で、自分が投げた石が他者に当たって跳ね返ってきたらまたワアワア騒ぐと。やれやれだぜ…。

 ***

映画評論家の水野晴郎さん死去(読売新聞)

いや~人間って、本当にクソッタレなものですね。
それじゃまた、美しい国でご一緒に苦しみましょう。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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