ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

むしろ「普通」という名の集団の方が怖い

遅刻83人にゲンコツ、宇和島の中学教諭…行き過ぎと謝罪(読売新聞)

 愛媛県宇和島市の市立中学校の男性教諭(41)が、学年集会に遅刻した2年生の男女83人全員の頭をゲンコツで殴っていたことがわかった。うち生徒7人の頭にコブができ、男性教諭は「行き過ぎた指導だった」と、保護者らに謝罪したという。

 学校側によると、男性教諭は今月3日、2年生の生活態度について指導するための学年集会で、生徒が集合時間に7分遅れたことに腹を立て、全員を正座させたうえ、一人ずつ順番に殴ったという。ほかの教諭6人が制止しようとしたが、止められなかったという。


男性教諭が83人にげんこつ(サンスポ)

 同校では集会の場合、開始時間3分前に予鈴が流れ、それから生徒が並んで会場に向かうシステムで、生徒はこの方法でクラスごとに担任に引率され会場に入っていた。

 学校側は「生徒がふざけていて遅れたわけではなく、このシステムに問題があった」として、生徒と保護者に謝罪した。大半の生徒は「何で殴られたのかわからない」と怒っていたという。

ほかの6人の教諭の制止を振り切ってそのまま83人も殴り続けたってなんか凄いな。どんな状況なんだそれは。チンピラが暴れまわっている図しか思い浮かばないんだけど。「一端殴り始めた以上、全ての遅刻者を殴り続けないと平等精神に反する」とかいう妙な使命感にでも突き動かされていたのだろうか。そうでもなけりゃ、なかなか出来ないだろうこれは。

若しくは、ロリコン趣味の人間がハァハァ目的で教員になるのと同じ様な理由で、この教諭もその職に就いていたとか。「これで正義の名の下に思う存分暴力を振るうこと(ハァハァすること)が出来るぜ!」みたいな。

そもそもサンスポ(或いはスポーツ報知)の記事を見る限り、生徒は担任の指導と学校のシステムに従っていただけであり、必ずしも遅刻したとはいえない状況であったわけで、今回のケースは「正しい暴力」という建前すら成立していなかったみたいだし。にも拘らずこういった暴力を振るったのだとしたら、それは一体何を目的とした暴力だったんだ?ということになるわけで。
----------------------------------

ただまあこの話自体は、こういった暴力行為が問題視され、ちゃんとそれが改善されるような動きが取られるのであれば、もうそれ以上取り立てて騒ぎ立てる程のことでもないようにも思うし、一々こういった個別のケースを全国的に知れ渡らす必要はあるのか?という疑問もある※1

それよりもこのニュースで怖いなと思ったのは、ネット上を幾つか見て回ったところ、このニュースを見た人達の多くが「先生GJ!」「この程度の体罰を問題視するからクソガキが増えるんだよ」「またモンスターペアレントが…」「むしろ保護者が(暴力を振るった)先生に謝れ」みたいな反応を示し、体罰応援団と化していたことだ。

体罰に関しては、何らかの大儀を掲げさえすれば暴力を振るってもよいという風潮を助長することになるのではないか、ルールを逸脱した手段で他者にルールを守ることの大切さを説く事に無理はないのか、恐怖によって人間の動きを制御することには何かよからぬ副作用があるのではないか、大儀を下支えする「真に正しき世界」など存在するのか、それは単に個々人の利害の一致や対立から生じた方便でしかないのではないか、そもそもその暴力は、本当に掲げた大儀の成就に寄与しているのか、といった幾つもの重大な問題点がある。しかし今回のケースはその大儀すら成立せず、そういった体罰の本質的な論点にすら至らないただの癇癪による暴力行為であった。問題は、それにも拘らず多くの「普通の人達」がその暴力行為を支持し、逆にその暴力を受けた生徒やその行為に意義を唱えた保護者達を激しく非難していたことだ。

そういった非難の記事やコメントを目にしたこの生徒や保護者達は、きっと大きなストレスを抱いただろうし、人によっては精神的にも大きなダメージを受けることになったかもしれない。つまり、その非難は単に免罪的なものであるというだけでなく、この事件の被害者達に対する追い討ち的な加害行為に他ならない。

恐らくこの手の反応を示した人達は、読売新聞、毎日jp、若しくは47NEWS(共同通信)の記事を読んでその様な感想を持ったのであろう。何故ならこの三社の記事には、生徒達が担任の指導に従っていたのにも拘らずこの様な暴力を振るわれたという事実の記述がすっぽり抜け落ちているからだ。この三社がそのことを記述しなかったのは何らかの意図があってのことなのか、それともただの無思慮によるものなのかは分からないが、そこに一つの大きな問題点があったことは確かだ。だがもっと問題なのは、「普通の人達」の暴力に対するハードルの低さだ。

何しろ多くの「普通の人達」が、その詳しい事情すらよく知らないのに、体罰という肩書きを連想させるような語り口を目にしただけで、こうも簡単に見も知らぬ他者に振るわれた暴力行為を喝采し、自らもその大儀すら存在しない暴力の輪に加わって被害者達に更なる暴力を振るってしまったりするのだから。体罰という肩書きのない他の多くの暴力事件では、被害者の立場を代弁する「普通の人達」で溢れかえるというのに。ただやはりその場合も、加害者(容疑者、若しくはその概念を大きく敷衍することによって捉えられた者達)がもっと激しく暴力を振るわれることを後押しするためであったり、被害者の立場を代弁することで己の暴力を正当化するためであったりして、暴力を肯定するベクトルへと物事を運ぶ一環としてそういう主張が行われるということには変わりないのだが。

いずれにせよ、それだけ「普通の人達」が暴力を肯定するための、そして自らもその暴力の輪に加わるためのハードルは低くく設定されているということだ。しかもその暴力を振るった「普通の人達」は、それが「普通の行為」であるが故に、自らが加害行為を行ったという自覚を抱くことすらない。これが「普通の行為」と認識、認定されなければ、その暴力は際立ち、多くの者達からそのことを指摘され、自らも己のその暴力行為を自覚せざるを得ない状況へと追い込まれることになるのだが、それが普通という感覚や称号を獲得しているが故にその認識は薄まり、かき消される。

例えばこの教諭が行った大儀なき暴力に関しても、昔ならそれほど大きな問題にはならなかったかもしれない。何故なら、昔はそういったタイプの暴力が振るわれることが普通だったからだ。だから一々そういったことが問題視されることもなかったし、メディアに大々的に取り上げられることも余り無かった(メディアがこういった問題を積極的に取り上げ始めたのは、事件事故、社会問題を娯楽化して伝えることがより一般化し、それが普通になったということも大きいが)。つまり、普通という感覚がそういった暴力を下支えしていたのだ。

しかしそれが問題とされるようになった現在でも、やはりそういった暴力が普通であるという感覚は多くの人々に根強く生き残り、その普通という感覚がその暴力を非とする現在の風潮こそが異常なのだとして、再びその暴力が普通とされるような社会にゆり戻そうと狙っている。ネット上で、この大儀すら存在しない暴力に送られた多くの喝采は、再びその「普通の感覚」に沿った社会へとゆり戻そうとする動きが具体的な一つの形として表れたものだったのだろう。

<大きな暴力は「普通」の力添えがあってこそ可能になる>


この教諭は、この事件が起こったその時その場所では、誰もその暴力を止めることが出来ない程の力を持った暴君であった。だがそれは、その個人が一時的にその集団内での常識や雰囲気を上手く利用出来ていたからに過ぎない。それが外部からの風が流れ込むことによって、その常識や雰囲気に変化を齎し、彼がそういったものからそっぽを向かれ、普通という肩書きを失った時、つまり独立した個人として集団の生み出す力と向き合わなければならなくなった時、一時は暴君ですらあった彼もまた、やはり個人としては弱者であったということが明らかにされる。彼の暴力は、彼一人の力だけで成し得たわけではない。「普通」や「常識」という、集団が生み出した力が彼を支えていたからこそそれが可能だったのだ。

これは例の時津風部屋のリンチ事件にしてもそうだろうし、歴史上に残るような大きな虐殺事件に関しても同じことだろう。それらは決して特異な個人達の力だけで為されたわけではない。それは、その時その場所、その集団内に於いて、その行為が普通であるという感覚が一般的になった結果、そしてその普通に違う意見や行為を為すことによって「普通の人達」から排除され、裁きを受けさせられることになるのではないか、という恐怖に支配された結果として性格づけられた集団の空気(力)がそれを下支えしていたからこそ、それは現実のものとなったのだ。

集団のウネリから独立した個人が、一人で為すことの出来る暴力には限界がある。だが、「普通」や「常識」による力添えを得て為される暴力は、何万人、何十万人という人間を死に至らしめることも出来れば、何百万人という人間を奴隷として飼いならすことだって出来る。ならばより注意を払うべきは、「普通」でないが故に際立っている暴力よりも、「普通」であるが故に際立つことのない暴力、そしてより大きな暴力を下支えすることになる「普通」という感覚の方なんじゃないのか、と思う。

それに、集団のウネリから独立した個人による「普通でない」暴力にしたって、それはその者がある集団から「普通でない者」として排斥された結果として行われたものであったり、何らかの「普通でない」属性に対して多くの「普通の者達」から投げつけられた悪意を誰かが受け取り、その悪意を循環させた結果としての暴力だったりするわけだし。何しろ、悪意の投げつけ行為はそれこそ何千万という人間が集まって集団でそれを為すことが出来るが、その投げつけられた悪意は結局一個人としてしか受け取ることが出来ないわけで、その何千万という人間から受け取り続けた悪意を、その個人が一度に吐き出そうとすれば、どうしても際立ったものにならざるを得ないわけで。どちらにせよ、その暴力の裏にも「普通」が深く関っていることには違いないと。

こういったことは、殺人鬼のような特殊な感覚を生まれ持った者が為す暴力行為に関しても似たようなことが言える。というのも、そういった人間が特殊な感覚を生まれ持つことになるのは、人類が生き残っていくために身に付けた多様性こそがその根本の原因であり、決してその感覚を生まれ持ったその個人の責任ではない。つまり、人類が存続し、普通の人達が普通に生活を送り続けたいという欲望を実現するためには、そういった存在もまた同時に存在しなければならない。そして、誰かがそういった特殊な感覚を植えつけられて生まれてくるという役割を果たし、誰かがその暴力の犠牲にならなければ、普通の人間の普通の人生もまた存在し得ない。普通の人間が送る平穏な人生は、そういった犠牲の上に成り立っているのである。

勿論、だからといってそういった者のそういった行為を仕方がないこととして許容することは出来ないだろうが、いい加減人類の歴史も長いんだし、知識を積み重ねる手段も持っているのだから、其々の時代に於ける普通の人達は、「普通」という称号を獲得した者の最低限の教養として、それくらいの事実認識は持っていてもいいんじゃないかと。

<自爆テロも応援してね!>

あと、少し話は逸れるが、「殴る方も痛いんだからいいんじゃない?」といった理由で冒頭の記事で伝えられた暴力を擁護していた人が結構いたが、そういう人は(己の主張の論理的一貫性を保つために)自爆テロの様な暴力もちゃんと擁護して欲しいな。自爆テロは、まさに自身の命を捨てるという己の痛みと引き換えに他者に痛みを与えるものだから。その行為が「真に正しき世界」の形成やそれを阻害する者達への鉄槌といった大儀に基づいて行われることが多いという点や、恐怖によって人々を制御しようとするものである、という点でも共通しているしね。



※1 とはいえ、一般的には学校外でこういった暴力を振るえば間違いなく逮捕されることになるわけで、そのバランスをどう取るのかという問題は残るが。今でもそうなのかは知らないが、一時期、学校の外からの侵入者に対して異状に神経質になっていたことがあったが、集団内でのポジション争いが不得手な人間にとっては、いじめと体罰で溢れかえり、逃げることも許されず、それ故それらのことだけで気力を使い果たし、未来への準備をすることも出来ず、ただ粛々とダメージを刻み付けられるだけの時間を甘んじて受け入れなければならない学校の中が一番危険という…。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/202-51c6d91f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。