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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

「現実」が正しくありますように…という呪い

<タワーレコードフリー・マガジン『intoxicate』 vol.74>より~

その夢が恐るべき敵に降りかかりますように
INTERVIEW&TEXT:前島秀国 ――スティーヴ・ライヒ――

 《ダニエル・ヴァリエーションズ》の場合は、私が作曲の題材を選んだのではなく、題材の方が私を選んだというべきだ。(2002年にパキスタンで斬首処刑された)ダニエル・パールの父親が面会を申し込んできて、彼を追悼するための曲を委嘱してきたんだ。すでに新作の委嘱を受けていたから、パールが殺される直前に遺した言葉「私の名前はダニエル・パール」を第2楽章のテキストにして、曲を付けることにした。(中略)
 ダニエルという名前は旧約聖書のダニエル書に由来するが、実は作曲に着手するまでダニエル書を読んだことがなくてね。ダニエル書に出てくるネブカドネザル王の言葉「私は夢を見た。恐ろしい光景が夢の中に現れ、頭に浮かんだ映像に悩まされた」には、本当に驚いた。ワールドトレードセンターのことが、即座に頭に浮かんできたからだ。でも、話は9・11に限らない。バーミヤンの仏像破壊、バリ島やベスランやロンドンやマドリッドのテロ……。第1楽章のテキストになったネブカドネザル王の言葉は日々、現実のものとなっているんだ。
 第3楽章のテキストには、王に対するダニエルの返答「その夢が恐るべき敵に降りかかりますように」を用いた。これは例えば、ナチスの“千年王国”で世界制覇を夢見たヒトラーが最終的に拳銃自殺したこと、あるいはナポレオンがエルバ島で死んだことなどを考えてみるとわかりやすい。こんな例を出すのは申し訳ないが、太平洋戦争終戦時に中国と太平洋の支配を夢見ていた日本軍将校が自決したのも、そうだね。ダニエルの言葉は、非常に古くからある言い伝えなんだ。歴史を見れば明らかなように、他者を支配し、殺戮した者は、やがてその行いが自分に降りかかってくる。おかげで、我々はみんなファシストにならずに済んでいるというわけだ(談)。

このインタビューを読む限り、どうもこの曲は追悼曲というよりは呪いの曲と言った方が適切であるような気がするな…。

それに、彼は「おかげで、我々はみんなファシストにならずに済んでいる」と言っているが、その発言に対しても違和感を覚える。むしろ、人間を「正しい我々と誤った彼ら」の二種類に分類することが可能であるかのようなそういった考え方こそが、ファッショの源となっているんじゃないのか。そして「我々みんな」がそれを克服出来ないが故に、束となることでしか生き残ることが出来ない状況が成立しているが故に、そういった性質を拭い去れないが故に、人間にとって避けえぬ資源と環境の奪い合いや、その争いに敗れた者達の復讐という暴力合戦もまた、より大規模なものとなって表れることになる。

9・11のテロにしても、その裏にはアメリカの支配と殺戮に対する抵抗や復讐という動機があり、ある特定の人達からすれば、それはまさに「その夢が恐るべき敵に降りかかりますように」という願いが具現化した瞬間でもあったわけだし。アメリカ人だってそのことを全く知らないわけでもあるまいに。
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予め予言された「恐ろしい夢」。全ての人々が幸せを獲得し、それを維持し続けることは許されない。その予言された「恐ろしい夢」は誰かが必ず引き受けなければならない。人間にとって「現実」とは、常にそういった大きな恐怖と苦痛を突きつけてくる残酷さを備え持った存在だ。

そして人間は、その残酷さが自らや自らの拠り所となる依存対象(特定の思想や信念、宗教、共同体、システム、人物等)に向けられた時、その「現実」を誤ったものだと認識し、それが是正されるように望む。だが同じ「現実」ではあっても、その「現実」が変化することによって、今以上の残酷さが自らやその依存対象に向けられることになるのではないか、という懸念を誰かが覚えた時、その者はその「現実」を(ある程度)正しいものだと認識し、その是正を阻止しようとする。それは例えるならば、お互いがお互い「誤った現実」を押し付け合う爆弾ゲームのようなもの。

実際のところ、「現実」はただ人間にとって残酷なだけで正しくもなければ誤ってもいないのだが、そうやって人間社会に多くの「正しい現実」や「誤った現実」というものが作られていく。そこに政治の原点がある。従って正誤という観点から「現実」を観察しようとした時、その者が見ているのは既に「現実」そのものではなく、人間同士が「現実」から義務付けられた残酷さをお互いに押し付け合っている様を見ているということになる。

そんな風に考えると、「現実」が正しくありますように…、と願うことは、一種の呪いなのではないかと思えてきた。一見清らかにも思えるその祈りの根底には、どうせ「恐ろしい夢」が具体的なものとなって人間達に降りかかることが避けられないのであれば、その夢が自身にとって邪魔となる者達にこそ降りかかってくれればいいのに…、というどす黒い思いもまた、同じくしてそこに流れているのではないかと。

勿論、その「現実」の生み出した残酷さは、そんな人間達の思惑や政治活動をすり抜けて、突如として目の前にやって来て、その義務を果たすように要求してきたりするものであったりするのだが。

Reich at NEC - Daniel Variations


しかしだとすると、追悼曲であるこの曲に冒頭のインタビューで述べられていたような意味が込められていたとしても何ら不自然ではない。そもそも、その祈りは祈りであると同時に呪いであり、呪いであると同時に祈りでもあるのだから(というか、宗教曲は元々こんなものなのかもしれないし、単にダニエル繋がりでそのテキストを用いた結果そうなっただけなのかもしれないが)。それに、よくよく考えてみると、誰かに不幸が訪れることが誰かの鎮魂になるであろうと人々が思うのはごく一般的なこと。「誰々の死を無駄にしない為にも奴らに不幸を!」なんてのは、作られた物語だけでなく、実際の人間社会でもよくあることだし。

そういや、自分も呪いと鎮魂の二つの意味を同時に込めたを作ったことがあったっけ。ただ自分がその曲に込めた呪いは、特定の誰かではなく、誰もが備え持つ「人間の資質」そのものに対するものだった、という違いはあるが。

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