ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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何故、人は「辛い」ものに対して「甘い」と言うのかについて

【八王子通り魔事件】母は「うちは教育テレビを見ているから」と不登校かばう(産経ニュース)

 菅野容疑者は地元の小・中学校を卒業した。だれもが「おとなしい」「内向的」と口をそろえるが、別の素顔ものぞかせていた。知人は「休み時間に同級生にからかわれると怒って教室を飛び出し、次の日は登校しなかった」と明かす。
 こうした性格から友達はおらず、教室ではいつも1人だった。中学2年になると不登校に拍車がかかり、進学した高校は1日も行かずに退学。その後は職を転々とした。
 唯一の理解者は家族だった。母親は「昭くん、昭くん」と言ってかわいがっていたという。学校に行かないことを周囲から指摘されても「うちは教育テレビを見ているからいいの」とかばっていたと、近くの女性(64)は証言する。
 20歳を過ぎても母親と仲良くコンビニに買い物に行く姿も見られた。だが7年ほど前に「彼女ができた」として家を出て以降はほぼ音信不通。その後に彼女と別れ、1人暮らしをしていたというが住所は家族にすら話さなかった。
 父親は「犯行原因は思いつかず、頭が真っ白」と頭を抱えた。一方、知人からは「甘やかした結果じゃないか」という声も漏れた。

如何にも「甘やかされた」ことが事件の原因だと言わんばかりの記事だが、この記事の内容を見る限り、この人物の人生からは「普通」を上回る「辛さ」や「苦さ」を読み取ることは出来ても、「甘さ」なんてものは微塵も読み取ることが出来ない。

まあ産経とすれば、母親がこの人物をかわいがっていたことや不登校をかばったこと、職を転々としたことを「甘さ」とし、それこそが事件の原因であるかのようにもって行きたいのだろうが、ではこの人物をその時点で無理やり学校に登校させていたら、合わない職場に我慢して居座り続けさせたなら、家族ですら彼に全く理解を示すことがなければこの事件は起きなかったのかといえば、とてもそうは思えない。むしろ事件が起こる時期が早まることになっていただけのように思う。

もしこの記事で伝えられた彼の人生に「甘い」ものが読み取れると仮定して、じゃあその彼が持っていたような「甘さ」を、そういったものを誰かから譲って貰えるとしたなら、それを喜んで受け取る者なんているだろうか。学校に馴染めず、周りの者達からからかわれたあげく不登校になり、その不登校を家族が擁護してくれるという「甘さ」を、職を転々とする「甘さ」を、学校や職場では誰一人理解者を得ることが出来なかったが、両親という理解者を得られた(しかし最終的にはその理解者にすら裏切られた感じたようだが)という「甘さ」を、態々望んで味わいたい人間なんているだろうか。そんな人間は先ずいないだろう。

何らかの状態が「甘い」と表現される場合、それは誰もがそれを味わいたいものであるからこそ、誰もがその状態を手に入れたいと思うような魅力を持っているからこそ、それは「甘い」と表現される。或いは、どんな不利な状況にあってもその成り行きを自身にとって都合良く解釈することが出来る感覚を持っているからこそ、それは「甘い」と表現される。誰もが忌み嫌うようなそんな条件や状態は「甘い」などとは言わない。どう考えても悲観的になっている様なそんな状態を指して「甘い」などとは言えない。むしろそれらは「辛い」とか「苦い」と表現されるべきであろう、本来ならば。だが実際には、そうやって「辛い」ものや「苦い」ものが「甘い」と評されることは決して珍しいことではない。まるで「裸の王様」のエピソードのように、誰がどう見ても渋柿であるものに対して、大勢の者達が恰もそれを熟れた甘い柿でもあるかの様に一様に振舞って見せる様なことが現実には多々ある。
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例えば、冒頭の記事で伝えられた様な事件を起こす人物は、「普通」よりもずっと辛い人生を送ってきたケースの方が圧倒的に多い。勿論、だからといって「辛酸を舐めたことが事件の原因だ」などと言うことは出来ないだろう。いや、それが事件と全く関係ないとは言えないし、個々のケースに於いてはそれが大きな要因となっている場合も多いかもしれないが、全体的に見れば、「普通よりも多くの辛酸を舐めた者達」の殆どはこういった事件を起こさないし、限界にまで追い詰められても、その多くが蜂起や復讐よりも自殺という道を選ぶ(といって本当は当人の意思でそれを選択している訳ではないのだが…)。そういったことからして、幾らこういった事件を起こした者達が「普通」よりも多くの辛酸を舐めてきたケースが多いからといって、その要因が少なくとも“単独で”この手の事件一般に於ける根本的な原因となっているなどと判定を下すことは出来ない。とはいえ、もし仮に「甘さ」や「辛さ」という視点からこういった事件の要因を探ろうとするならば、「甘さ」よりも「辛さ」の方がよりそれに深く関与していると考えた方が遥かに妥当だろう。

ところが、こういった事件が引き起こされた原因として「犯行を行った者を甘やかしたこと」を挙げる人間は大勢いても、「その者が辛酸を舐めさせられたこと」を原因として挙げる人間は殆どいない。事件の予防として「もっと辛酸を舐めさせろ!」と提案する者達は幾らでもいるが、「もっと甘さを!」と訴える者は先ずいない。どう見てもそういった事件を起こした者達が「普通」よりも多くの辛酸を舐めて来たことが明らかであってもだ。

こういった反応は、社会的に不利な状況に追い込まれている者達に対してもまた同じ様にそれが向けられることが多い。そして明らかに「普通」よりも「辛い」状態にあるその者達を指して「甘い」と表現し、その状況を抜け出す方法として更なる辛酸を舐めさせることが提案される。

 ***

では何故人々はそういったあべこべの表現を敢えて用いるのか。何故「辛い」や「苦い」を「甘い」と言い換えるのか。以下、その理由を幾つか考えてみた。

・物語を演出する道具として「甘さ」が有益であるため

見ている者にカタルシスを齎すことを目的として作成される『水戸黄門』の様な勧善懲悪的物語では、その物語に登場する悪役の悪辣さが際立っていれば際立っているほど最終的に齎されるカタルシスが大きくなるという傾向がある。だから、如何に上手くその悪役の悪辣さを演出することが出来るかということが、その物語を成功させるための重要な一つのポイントとなる。

だが、カタルシスを得る為に消費されるのはそういった純粋な捏造物語だけではない。むしろ現実の断片を素材とし、それを貼り絵のように貼り付けていくことで形成された、虚実の入り混じった捏造物語の方が好んで消費されるというのが昨今の流れ。そしてそうやって作成される勧善懲悪的物語に於いては、「甘さ」というものが悪役の悪辣さを際立たせるための道具として非常に有益であるため、対象に対してその「甘さ」を強調するような装飾がふんだんに施されることとなり、それがあべこべ表現に一役買っている。

・精神論的信仰を否定されたくないから


日本人の多くは精神論を信じているが、「精神の力を上手く工夫して用いれば、その力を最大限に発揮することができれば、誰もが最低限の社会的地位と幸せを獲得することが出来る。そういった環境がこの国には成立している」という精神論的教義からすれば、社会的に失敗した者達は常に精神の力をちゃんと引き出すことを怠った存在でなければならない。精神論的立場からすれば、そういった者達が精神の力を限界近くまで発揮していたなどということを決して認めるわけにはいかない(「悲劇」として例外的にそれが認められることもあるが、それはあくまで例外でなければならない)。何故なら、それを認めてしまうことはその宗教自体を否定することにもなってしまうからだ。そしてその宗教が失われてしまえば、その教義によって希望を抱いてきた者達からその希望が奪われてしまうことにもなる。だから精神論を信奉する者達は皆その拠り所となる宗教(法則)が、希望が奪われないように、必死になって、その社会的失敗者達が精神の持つ真の力を引き出さずに諦めてしまったという「甘さ」を、まだまだ余力を残した状態であったという「甘さ」を指摘する。

・精神論的な位の高さを競い合うから

精神論に於いては、如何に多く精神の力を引き出してそれを消費したか、如何に大きな負荷を受けながらもその力によってそれに耐え続けているか、ということでその宗教上での上下関係が決定されるようなところがある。日本に於いてやたらと苦労自慢をしたがる人が大勢見受けられるのはそのためだ。それ故、他者の苦労を見ると「いや、あの程度の苦労なんてまだまだ甘い」と言いたくなる※1

・他人の苦労や辛さが自分の利益になるであろうと本能的に感じるため


全ての者が不満なく幸せに暮らすことが出来るユートピアは存在しない。例えどれ程環境に恵まれ、どれほど上手くその社会を運営したとしても、やはり誰もが引き受けたくない役割を誰かが引き受けなければならないことには変わりがないし、誰かが人よりも損な役回りを押し付けられことになるのも変わらない。そういった大前提があるなかで、人は、他者がより苦労しより辛酸を舐めてくれることが、そうやって損な役割を誰かが引き受けてくれることが自身にとっての利益になる、ということを本能的に感じる。それと同時に、他者がそれをちゃんと引き受けてくれない為に、損な役割が自分に回ってくるのではないかと不安にもなる。だから、何かきっかけがある度に、他者がより苦労し、より辛酸を舐めるようにと社会的ベクトルを向けようとする。そしてそれを社会的に認めさせるための手段として「甘い」という表現が用いられる。あの者たちは、まだまだ其々に与えられた義務としての辛酸を舐めきっていない「甘い」状態である、といった具合に。

・「精神的サイヤ人説」と「共同体幻想」が合わさることによる化学反応

精神的な負荷を掛ければ掛ける程、その者はより強くより有能になるという精神的サイヤ人説。そして、そうやって同じ共同体に所属する他者がより強くより有能になることがその共同体をより発展させることとなり、それによってその共同体に所属する自身もまた利益を得ることが出来るという共同体幻想。この二つの思想が合わさることによって、やがて苦労して辛酸を舐めることそれ自体が目的化されていく。さらには、それが足りない者はその共同体にとっての害悪になるとまで認識されるようになり、他者の苦労不足、辛酸不足によって自身が何か不利益を被っているのではないかという思いが人々に芽生え始め、その不安から他者に対して共同体の一員としてまだまだそれが足りない状態であると指摘し続けないと気が済まなくなる。そしてその時の「不足」を言い表すものとして「甘さ」という表現が用いられる。

・僻み根性

「俺だって息苦しい思いをしながらも我慢して社会的な規範に縛られ続けているのに、自分だけその規範から解き放たれた行動を取るのはずるい」という僻みが、結果としてある規範から解き放たれることとなった者達の状態を「甘い」ものであると感じさせる。或いは、全体としては自身の方が恵まれていたとしても、ほんの一部であっても他者の方が恵まれているかのように思える要素があれば、それを許すことが出来ず、その一要素を以ってして他者に「甘い」という判定を下してしまう。

 ***


幾つかの項目に於いてはその内容が幾らか被っている様に思う部分もあるが、厳密に言えばやはりそれらは別々のものである様にも思うので、敢えてそれらを分けて書いてみたが、それはともかくとして、恐らくこういった其々の要素が絡み合うことによって、本来ならば「辛い」や「苦い」と表現されるべきものに対して多くの者達が「甘い」と主張するような傾向が作り出されているのではないかと思うのだが、どうだろうか。

ただ疑問なのは、そうやって何らかの事件や失敗が起こった主要な原因として「甘さ」を挙げ、それを防止することを大儀として不特定多数の「誰か」に辛酸を舐めさせることを推し進めて行けば推し進めて行くほど、同じ様に不特定多数の「誰か」からそのしっぺ返しが帰ってくる可能性が高まることになるのだが、そういった主張をしている者達は、ちゃんとその条件も加味した上でその説を唱えているのだろうか。もしそのしっぺ返しの可能性を計算に入れずにそれを主張しているのだとしたなら、その覚悟も無しにそれを唱えているのだとすれば、それこそその考えは「大甘」以外の何物でもないということになってしまうのだが。



※1 ただ、これもまた精神論の一面ではあるが、こういった考え方を持っている者の全てが「精神の力を上手く発揮すれば最低限の社会的地位や幸せが獲得出来る」という教義を信じている訳ではない。例えば、より重度のヒキ状態にある者が、自身よりも軽度のヒキ状態にあるものを見下すような態度を取ることによって起こる「偽ヒキ論争」といったものがある(あった)。あれもまた苦労自慢の一種であり、精神論的な位を決める戦いの一形態ではあるが、ひきこもりの殆どは基本的に前述したような教義を信じていないだろう。それは一般的成功を収めることが出来なかった者達が、自己を否定し続けてきた者達が、せめてその限定された宗教内で高い位置を獲得しようとする、せめてそういったことで自身に誇りを持とうとするバカバカしくも悲しき戦いなのである。

コメント

おっしゃる通りです。

>おっしゃる通りです。

ありがとうございます。
ただ、今改めて読み返すとかなり恥ずかしく、
後半部分はもう読むことさえができませんでした。
最初の部分だけで止めておけばよかった。

ただ、人間にはとにかく苦しみや怒りを何らかの形で
放出しなければならない時もありますからね。
自分は通り魔の代わりにこういった形でそれを行った、
というところでしょうか。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
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