ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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原因と責任を一緒くたにした議論は混沌への入り口

通り魔、バスジャック…凶悪事件の原因は?(livedoor「世論調査」)

7月22日夜に京王八王子ショッピングセンターで女性書店員を刺殺するという事件が発生しました。
犯人の33歳の男は被害者とは面識がなかったといい、調べに「仕事がうまくいかず両親に相談したが乗ってくれず、無差別に人を殺したいと思って包丁を買った」「家族で仕事に関してトラブルとなり、とっさに人を殺そうと決意した」などと供述しているそうです。
最近は秋葉原での連続殺傷事件、14歳少年によるバスジャック事件など「誰でもよかった」という理由の凶悪事件が多数発生しています。
あなたはこのような凶悪事件の根本的な原因はどこにあると思いますか?

 

なんだろう、この「貴方が落としたのはこの金の斧ですか?それともこの銀の斧ですか?」みたいなアンケートは。

そもそも、其々背景が異なるであろう個別のケースを「凶悪事件」と人括りにしてこういった問いかけをすること自体にかなり無理があるが、それはこの際置いておくとして、今現在この社会で「凶悪事件」という表現で一般的に指し示されるところの現象は、(それがそこで良くないこととして認識されていたかどうかはともかく)人間が集団で生活を営むようになったその時から、あらゆる時代や場所、あらゆる形態の社会に於いて起こり続け、一度もそれが途絶えたことはないはずだ。つまり、人間とはそういうものだということ。よってその“根本的”な原因はと問われれば、「人間が人間であること(人間の資質)」としか言いようがない。

これが「このような凶悪事件の責任はどこにあると思いますか?」という問いならば分かる。責任というのは政治的に決定されるものだから、それ次第で如何様にでもすることが出来る。だが原因は事後的政治や人気投票で決定されるわけではないし、「人間の資質」自体を「本人(個々人)」の意思や「社会(含む家庭)」の形態によって変更することは出来ない。つまり、この問いに対してこの選択肢しか用意されていないアンケートというのは、正に無茶振りと言う他ないということ。
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ただこのアンケートに限らず、この手の議論が為される場合、どうも原因と責任の違いが明確に区別されないままそれが論じられていることが多いように思う(いや、そういう自分も結構その違いをハッキリと意識せずに物事を述べてきたような気もするが…)。そしてそのことが、ただでさえ紛糾し易いこの手の議論をさらにややこしいものにしている。

例えば「責任の所在を分散させる昨今の風潮が…」などといった類の意見がよく述べられることがあるが、少なくとも戦後この国に於いて凶悪事件を起こした本人の責任が社会や家庭に分散されたことなんてないはずだろう。その責任を軽減し、その分を社会に負担させたなんてことがあっただろうか?社会に連帯責任を負わせ、凶悪事件が増えればその分増税するとか、犯罪が多い地域の補助金を減らすとか、或いは事件を起こした子供の代わりに親が牢屋に入れられるとか(アメリカではそういうケースもあったようだが)、そんなことはなかったはずだ。むしろその責任は分散されるどころか、厳罰化の流れが形作られ、その責任を増大する方向へと舵を取ってきたのがこの国の歴史じゃないのか。つまり、本人の責任は増大されることはあっても分散も軽減もされていない。だからこれからそういった方向へと社会が動き出すことを憂慮するというのなら分かるが、すでにそれが成立しているかの様に言うのは間違いだろう。

では何故こういった論調が出てくるのかというと、原因に関する議論をしているのを見て、それを責任に関する議論と取り違えてしまうようなことがあるからだろう。例えば「“本人”は事件発生の一要素でしかない」といった発言に対し、「いや、責任は全て“本人”にある」といった具合に。そうやって原因と責任がごっちゃになって議論されることで、正に志村けんのコントに於ける「爺さんや婆さんや状態」になってしまい、まったく話が噛み合うことのない議論が延々垂れ流され続けることとなる。

つまり、こういった話題に関して何か述べる時は、先ずそれが原因に関するものなのか、それとも責任に関するものなのかということをちゃんと明確にした上でそれを為さなければ、それはただ議論を掻き回してややこしくするだけのものにしかならないのではないかと。

 ***

ただ困ったことに、実際には原因と責任を統一してしまわなければ気が済まないという人達もいる。つまり、その責任を全て「本人」に求めるだけでは気が済まず、原因もまた全て「本人」に求めなければならないと主張する人達。これには幾つかのタイプがある。

・カタルシスタイプ

このタイプは事件を勧善懲悪的物語として捉え、それを娯楽として消費することを重視するため、悪役である「本人」は全く何の同情の余地も無い「完全なる悪」でないと気が済まない。そして原因が「本人」以外にもあるという認識を世間が持つことは、事件に於ける勧善懲悪的性質を中途半端なものにしてしまい、そこからカタルシスを得ることが難しくなるため、それを避けるため事件の原因は全て「本人」にある主張する。

・政治タイプ

このタイプは、原因が「本人」以外にもあると世間に認識されることや、それによって事件を起こした「本人」に対して世間が同情するような風潮が生まれると、それが事件を助長することになるので、そういった認識がなされてはならないと考えるタイプ。そのため、このタイプは表向きは原因は全て「本人」にあると主張していながら、内容的には社会の在り方が犯罪を助長することになっているという矛盾した主張をしていることになる。まあ政治なんてそんなものだろうけど。

・セカイ系タイプ

ガチで事件の原因が全て「本人」にあると思っているタイプ。これはこれから起こるであろう現実や既に起こってしまった現実の形を、一個人の意思で変更することが可能であり可能であったということを主張していることになるわけで、その考え方は正にセカイ系のそれと一致する。まあ一個人の意思で世界が滅んだり救われたりするとまでは主張していないので「小さなセカイ系」と言った方がいいかもしれないが、社会という要素を吹っ飛ばして一個人の意思だけで現実の形をコントロールすることが出来るというその考え方はやはりかなり特異なものだろう。いや、しかしその特異なものこそが多数派であるような気もするが。虚構の物語に於ける演出としてのセカイ系は侮蔑の対象だが、現実に於けるセカイ系的主張は大人気。

 ***

でまあ、原因と責任の違いが明確にされないままこういった議論が為されることになる現状では、例えば「一個人の意思だけで現実の在り様をコントロールすることなんて出来るはずがない」と主張すると、「そうやって責任を社会に擦り付けようとするから云々…」といった全く的外れな回答が返ってきて、カオスへの入り口が開いたりしてニントモカントモ。

コメント

原因と責任

この話はたぶん書くと思ったよ.基本的に同じ考えだからツッコミだけ書いておくよ.

「幾つかのタイプ」に分類してしまうのは,筋の通った批判よりもカリカチュアになりやすいし,読む人の気をそらしやすい.こうした批判には,誰が言っていることなのかを明確にした方が(新聞のヒトコト記事は良い餌食になってくれるだろう)良い.(逆にこの分類がどれだけ正確なものであるかというツッコミを考えるとわかるが)相手の最も痛い部分だけを突いてやれば良いわけ.

ただし,筋を通した批判というのは,いがいと一般に受けが良いかといわれると微妙でもあるのだが・・・.つまりカリカチュアというのは,一度価値観を疑わせてみる,そのためにあるわけで.

>この話はたぶん書くと思ったよ.

完全に行動が読まれていますな。

>「幾つかのタイプ」に分類してしまうのは,筋の通った批判よりもカリカチュアになりやすい

確かにその通りです。この記事の後半部分を書いたことは、自分自身に妙な後ろめたさを感じさせることとなっていました。それはあの部分が批判として筋が悪いだけでなく、一個人の意思により現実の在り方をコントロールすることが出来ると主張する人達の一般的な振る舞いにより普段から蓄積されてきたストレスを晴らす為という、趣返し的な性質が強いことをある程度自覚していたからでしょう。悪意に対して悪意で応戦するというか。それがああいう形になって表れたと。まあそういうことをすれば良い結果には繋がらないということは分かってはいるのですが、中々それを上手く別の形で昇華するのは難しくて…。

>筋を通した批判というのは,いがいと一般に受けが良いかといわれると微妙でもあるのだが・・・.

実際、筋を通した批判の方がそうでない批判よりも必ずしも大きな力を持つことになるとは限らないですし、すでに成立してしまった常識を筋の通った批判だけで覆すのは難しいでしょう。その上、筋を通さない批判の方が筋を通した批判より遥かにお手軽で簡単です。だから筋が通った批判を為すことを重んじている人は、先ずそれを為すことが出来る能力を持っていることを前提として、それが力を持つからということではなく、自身の規範に従う形でそれを為しているように思います。

ただ、世の中にはそもそも「批判する言葉を持たない者達」もいる訳で、そういう者達は当然批判されてしかるべき悪意を自身に向けられても、我慢するか若しくは悪意で以ってそれに応戦するしかなく、(政治力があればまた別だが)それがその者を益々窮地に追い詰めることとなり、最終的には言論以外の方法で他者を批判せざるを得なくなる、というような問題もあります。最近注目を浴び勝ちな抑圧を受け続けてきたことによる反動としての犯罪などは、このことが少なからず関係しているように思うのです。

引用元を明確にする

引用元を明確にするというのは、学問の世界だけではなく意味があると思う。特にテレビ番組でタレントが言っていることよりもネタとして価値があるし、新聞で書かれている事を取り上げたほうが明確に伝わりやすいし、記事を見る側にも正確な情報にアクセスしやすいのでよい事だらけだ。

関連話だけど、適用範囲を拡大解釈したために議論がかみ合わなくなったり、あるいは意図的に論点を摩り替えるというのは多く見られますね。まあ、これは自戒の意味でもありますけど。どうやら、意図的なものは論外とすれば、人間が犯しやすいミステイクの代表例に見えます。根っから理系人間としては、そっちに興味が傾くんだなこれが。

其々で目的や動機が異なっているという問題

一見同一のテーマについて同一の目的を持ってその話をしているようで、実際は其々がそのテーマについて語ることで何をしたいのか、何故それについて語ろうとしたのか、という目的や動機が其々で異なっているという問題があります。そもそも人々が何か行動を起こす時、個人的な動機は勿論、その目的もまた完全に一致するということはあり得ないでしょう。目的に関しては一時的、表面的に一致することはありますが、それはたまたま其々の思惑(利害)が一致している(或いはその様に思う)だけのことでしょうし。

原因と責任を一緒くたにしてしまうこと、言説の出所を明確にしないこと、拡大解釈をしてしまうこと。これらはいずれも技術的な面で議論が噛み合わなくなる原因となりますが、議論が噛み合わないことの大元を辿っていくと、その根っこにはその議論を行っている者達が其々その目的や動機を異にしているということに辿りつくように思います。

例えば単にその話題を肴にして盛り上がりたいだけという場に於いて、その話題について本当に真摯な議論を行おうとすれば鬱陶しがられるだけでしょう。そういう場所に於いてそれは必ずしも「よい事」になるとは限らないのです。ネタとしての価値にしても、テレビでやっていることは基本的に議論としての価値がないものも多いですが、しかしながら実際のところ、新聞の記事よりもテレビ番組の方が世間一般が期待している所の意見の反映のさせ方は遥かに上手いし、その影響力もまた大きいわけで、そういう意味からすれば必ずしも全ての人間にとって新聞の方がテレビよりもネタとしての価値が高いとばかりは言い切れないでしょう。あそこは長らく新聞に代わってこの国の常識を形作り、それで社会を画一化してきた場所でもあるわけですし。

 ***

で、この場所での話に戻すと、自分がこのブログで何をしているのかを一言で言えば、ある特定の考え方や思想に裏付けられた要求や主張を自身や自身の持つ属性に突きつけられてきたこと、そしてそれに嘘や瑕疵があり、それに従ったが故にした失敗などによって鬱積してきたものを吐き出す行為です。ですが、それを突きつけた者はもはや何処の誰だったか明確ではなくなっている場合も多いですし、そもそもその時点ですらそれが明確でない場合もあります。それが明確であっても必ずしも情報ソースが残っているとは限りませんし、直接言及するのが憚られる(有名ではない)個人によるものである場合もあります。しかし、だからと言ってその鬱積自体が消えるわけではありません。また、幾らテレビでの議論に議論としての価値がなくとも、そういった要求や主張を誰かがしていれば、やはりそれはそれでストレスは溜まっていくのです。

だからついつい、具体的な誰かの意見に対する反論としてではなく、そういった一連の要求や主張を裏で支えているであろうある思想や考え方自体に噛み付きたくなるのです。そしてそれ故に出所が明確でない言説への反論のようになってしまったり、その根本的な動機が「吐き出し行為」であるが故に、ついつい解釈を拡大してそれを吐き出す場所を作ろうとしてしまう。

まあ元々そういった極個人的行為として行っているのがこのブログであって、それが他者にもちゃんと議論としての価値を持つようなものにするためには、そういったある思想や考え方が具体的な形として新聞の記事などに顕著に表れた時を上手く狙って突かないと駄目だということでしょうね。動機が動機だけに、それは自分にとっては結構難しいことですが。

ただ、一体どの程度まで引用という形を取るべきなのかは疑問なところもあります。何らかの考え方に瑕疵があることを述べる時に、常に一々何らかの引用を例示してからそれを述べなければならないとしたら、それはかなり窮屈な気がするのですが。

窮屈ですね

見透かされたような気がするので,謝っておいたほうがよさそうだ.「吐き出し行為」から無理にでもひきずりだしてみようという気があったことは認めるよ.確かにそれは窮屈だ.無理にとはいわないさ.

ついでに記者とかいう職業は,つっこまれるための存在のような気の毒な人種なので,おもいっきりつっこんであげるというのがこの私.これも「勧善懲悪」の一種ですな.娯楽として消費する・・・うん楽しい!「オイラってホント 悪い子」

まじめな話だと,どの道でもプロフェッショナルというのは大変なのだ.ただ,こうしたツッコミには,すぐに気にならなくなるものらしいです.こうして同情の余地のない「完璧の馬鹿」として「お互いに」楽しめるわけですな.ぬはははは!双方ご満悦.愉快愉快.

>無理にとはいわないさ.

実際の所、正気を保っているだけでもいっぱいっぱいですからねえ。
追い詰められれば追い詰められるほど冷静な議論は難しくなりますから。

>こうしたツッコミには,すぐに気にならなくなるものらしいです.

そういう人しかその場に残ることは出来ないということでしょう。

>双方ご満悦.愉快愉快.

現実には双方ご満悦なんてことは滅多にないですけどね。
生きることは暴力を循環させること、みたいなところがありますから。
ですから、私もまた私なりの方法でそれをしているわけです。

まあそういった暴力の輪から抜け出すことなんて誰も出来ないでしょう。
死にでもしない限り。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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