ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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それは極めて「常識的」な判断


ユーチューブに犯行予告! 10人死亡、フィンランドの銃乱射
(産経ニュース)

 【英中部マンチェスター=木村正人】ロイター通信によると、フィンランドの首都ヘルシンキから北西へ約300キロ離れたカウハヨキの職業訓練校で23日、男子学生が銃を乱射し、少なくとも学生ら10人が死亡。犯人の男子学生も銃で頭を撃って自殺を図り、搬送先の病院で死亡した。負傷者もいるもようだ。

 ロイター通信などによると、事件前、動画投稿サイト「ユーチューブ」に男子学生が犯行を予告したとみられる複数のビデオ映像が投稿されていた。カウハヨキ在住とする22歳の男が、射撃訓練場で銃を撃つ姿などが映っており、「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」などとの書き込みもあった。

(中略) 人口約524万人の同国は米国、イエメンに次ぎ世界で3番目に銃保有数が多く、100人当たりの銃保有数は56丁。狩猟人口が多いためで、15歳から銃の保有が認められている。昨年の事件をきっかけに、欧州連合(EU)と同じ銃保有年齢を18歳に引き上げる法案が協議されている。

「人生すべてが戦争であり、人生すべてが苦痛だ」

彼が置かれたような状況を戦争だと言ったならば、きっと「本当の戦争はそんなに甘いものじゃない!」などと言って捨てる人がいるかもしれない。だがもしそう思う人が居たなら、その人は生存競争という名の戦争、或いは画一化を目論む社会的ベクトルと人間の持つ多様性との衝突を甘く見すぎていると言わざるを得ない。
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戦争というものは、何も国同士によって行われるものばかりとは限らない。そもそも、国同士の間で行われる戦争は、必ずしも全ての人間にとって恐ろしいものとは限らない。何故なら、自国が他国と所謂戦争を行って幾ら多くの死傷者を出そうとも、その者がもしその国内で優位なポジションを獲得し、それを維持し続けることさえ出来ていれば、その者はその戦争によって命を落としたり、尊厳を踏みにじられたり、困窮した生活状況に陥ったりする危険性を回避することが出来るからだ。それどころか、そういったポジション獲得能力に長けている人間は、他の者達が戦場で地獄を見ているのを横目に、優雅で平和な生活を送ることさえ可能だ(勿論そういうことが可能となるには、その者が国内で優位なポジションを保つだけでなく、その国自体が国際社会というより大きな集団の中である程度優位なポジションを保ち続けているということもその条件として必要となってくるかもしれないが)。その一方で、もしその者がその国に於いて最下層のポジションしか得ることが出来なければ、別に国同士が喧嘩なんかしていなくても、その者は常に命の危険に晒され続けることになる。「社会」という名で匿名化された個々人や、その集団によって運営されるシステムや風土による拷問に耐え続けなければならなくなる。

例えば一般的には「平和」だと言われるこの国に於いても、実際には多くの者達がその尊厳を踏みにじられるような状況に直面しているし、命の危険に晒されるほど困窮した生活状況を迫られている。そして現実に毎年多くの人間が順次淘汰されていっている。結局日本に於いても「平和」なんてものは、ある一定の社会的地位を獲得することが出来た者達だけに支給される幻想に過ぎないというわけだ。だがその幻想の外ではちゃんと殺し合いは続いている。より洗練された婉曲的な形で。

人間がその生存を維持するためには、それに必要なだけの外的(物理的)環境と内的(精神的)環境の二つが整っていなければならない。この二つのどちらが欠けてもその者は己のその生存は維持することが出来ない。だが、全ての物理的資源は既にその社会を覆い尽くすより大きな暴力システムの下に統括された其々の集団(暴力団の様な非合法組織であっても、そのシステムの作る秩序の恩恵は受けている)の手の内にある。そして生存の維持に必要な外的環境や内的環境は、社会という集団との関係性の中でしかそれを獲得することが出来ない。つまり、その者が其々の集団に上手く取り入る(馴染む)ことが出来ず、そこからはぶられてしまえば、そうやって集団によって生み出される風土やシステムを上手く利用することが出来なければ、それは即ち死を意味する。そのため其々の個人は、(その自覚があるか否かはともかくとして)常に命を懸けたポジション争いを行っている。当然個人差はあるものの、基本的には不利なポジションしか獲得出来なかった者ほど、集団(の力を上手く利用することが出来た他者達)と一方的に不利な関係を結ばされることとなり、精神的にも肉体的にも激しい消耗を強いられ、その生存を維持することが難しくなっていく。事実、多くの者達がその生存という枠組みから脱落することを余儀なくされている。そういった間接的な形で殺し合いが行われるのが、現代的な社会に於ける生存競争の在り方。

しかも社会はより画一化されたシステムや様式を求めるベクトルへと向かう一方、人間が始めから兼ね備えている多様性の方は変わらないから、その分だけその社会にとって邪魔になるはみ出ざるを得ない人間は増えていくことになるという。こういった人間の持つ多様性の一側面を受け持たされて生まれてきた者が、己の意思で以って幾らその画一化された社会の風土やシステムに馴染もうとしても、それによってその資質を変更出来るはずもなく、その為の努力は全て徒労に帰す。つまりその者は、その社会にとって邪魔な存在として、それと対立した関係でしか生きて行くことは出来ないということ。

こういった戦いを指してそれを「戦争に満たない甘いもの」と言うのなら、それはその者を取り囲む状況が甘いものであるという告白でしかない。現に、所謂戦争よりもこういった日常に於ける生存競争に敗れて死んでいく者の方が圧倒的に多いのだから。「平和」が支給されるような「普通」の人達は、そのポジション争いの能力に長けすぎているが故に気づきもしないのかもしれないが、その「平和」の幻想の外では、常にこういった命を懸けた戦いが行われている。そこには生存という枠組みの崖っぷちで、一方的な関係を強いられながらもぎりぎり踏みとどまっている者や、社会にとって不必要と判断されながらもそれに抗って生きている者が厳然として存在する。

つまり、事件を起こした彼がどんな人間であり、どのような思想や感覚を持っていたかは分からないが、彼が「社会」と謂われる既存のシステムや風土を上手く利用することが出来る集団一般とずっと戦争状態にあったのは状況から見て明白であり、彼からすればそれらは全て「敵」という存在でしかなかったわけで、戦争なら人を殺しても良い、もしくは戦争で人を殺すのは仕方が無い、というのが社会的な常識であり、それが良識ある「普通の人達」の普段の一般的主張なり認識である以上、そういった「普通の人達」はこういう事件が起こっても、その行為に対して筋の通った批判をすることなんて出来ないということ。勿論、己の主張の一貫性を放棄したなりふり構わぬ駄々こねや、「敵」に対する不平不満という形でそれを非難することは出来るが。

そもそも、ある個人をただその現状を打開したいというだけで、その先に何の希望も勝ち目も無いのに、それを分かっていながら、「社会」という実体の無い概念上の存在に命を懸けた戦いを挑むまでに追い詰めてしまった時点で、「社会の一部」として「平和」を謳歌してきた者達は、その個人からどのような仕打ちを受けようと、なんら説得力のある批判をすることは出来ないだろう。何故なら、「社会」という体制側に身を置いた多くの者達は、社会的に劣位な位置に居る者達に対して、己の生存維持には不必要な蔑みを行うことで無駄にその者達の尊厳を踏みにじってきたし、それらを「出来るだけ生かさず殺さず利用して、それが出来なくなれば誰にも迷惑を掛けずにひっそりと死ぬべき存在」として扱ってきた。その関係性を改めようともしなかった。他者に対してそういった一方的関係を強いてきた者、或いはそういう眼差しを向けてきた者が、その他者からどんな反撃を受けたところで、一体何を驚くことがあるのかという。

或いは、こういった事件は画一化のための抑圧を掛けてきた社会的ベクトルへの反動として、人間の持つ多様性がそれに反旗を翻した結果と考えることも出来るが、その場合に於いてその役割を受け持たされることとなったその者に突きつけられる、何故自身という社会に不必要とされる存在が生まれて来なければならなかったのか、何故その不必要なはずの自身の存在無しに世界は存在し得なかったのか、という矛盾した問いに対する答えには、その社会の要求に応じてただ慎ましく消え去ることによってその矛盾を解消するか、もしくはそれに対して結論を出すことを保留し続け、その矛盾を抱え続けたまま生き続けるか、それともそれと真っ向から戦いを挑んで「せめて一太刀」を入れることによって己のその存在に価値を見出すか、という三つの選択肢しか用意されていない。そしてフィンランドに於ける「常識」がどのようなものかは知らないが、日本に於いては「逃げる」ことは非常に恥かしいこととされ、さらに決断を下さずに態度を保留し続けることは「モラトリアム」などという名前が付けられ、それ以上に恥かしく愚かなこととして非難される一方、「戦う」ことは賢明な判断として賞賛、称揚されるのが一般的だ(そのため、実際には「社会」という体制側におもねっているだけで全然戦ってもいないのに、「戦っている」ことを自称する者が続出するる始末)。少なくともこういった日本的な「常識」に照らし合わせてみれば、三つの選択肢から「戦う」ことを選んだ彼の行為は極めて「常識的」なものだったと言えるわけだ。

社会に於ける常識的様式にはどうしても馴染むことが出来なかった者が、判断に関しては極めて常識的な結論を下したという皮肉な結果。というか、人間が一つの様式に染まりきることなんて出来るわけもないのに、何故人は一つの様式へと収束させることばかりに拘るかねえ。全ての者が収まり切る様な様式を作ることは不可能であっても、より多くの者が収束出来るように出来るだけ様式を多様化するという方向性だってあるだろうに。

 ***

それはともかくとして、日本には私設暴力団や国立暴力団以外には余り銃が普及していなくて良かったね。というのも、もし日本にもアメリカやフィンランドほど銃が広く一般に普及していれば、きっと出口のない一方的関係性や、そこから抜け出せないように幼い頃から「社会」によって植えつけられた己の道徳的呪縛を清算するために、アメリカやフィンランド以上にあちこちでこういった玉砕覚悟の「せめて一太刀事件」が起こっていただろうから。まあそれ以上に、銃を使った自殺という形での淘汰が今以上に進んでいたことだろうとも思うけど。

コメント

ちょーイナカー

「モラトリアム」って,昔は少しも悪い意味ではなかったんだけどね.ちなみに,欧州の国によっては思いっきりモラトリアムする人たちが大勢いて,やはり日本との文化差を感じられます.なんか,日本人の労働感を見るようで面白いです.

それにしても,熊対策で銃が使われるようなフィンランドのド田舎で乱射事件ですか!あんな国でも世の中戦争なんですかね.

そこが戦場であるか否かは、個人単位で異なる

>やはり日本との文化差を感じられます.

「モラトリアム」という言葉が指し示すところの意味や、その理解のされ方がヨーロッパと日本では大きく異なっているんでしょうかねえ。それとも、それ自体には大きな違いはないが、それ以外の部分が異なっているが故にその差が出てくるのか。興味深いところです。

>「モラトリアム」って,昔は少しも悪い意味ではなかったんだけどね.

そう言えば、昔は良いイメージで捉えられていた「ゆとり」という言葉も、今ではすっかり誹謗語として定着してしまった感があります。言葉自体は変わらなくとも、それによって引き出される人間の感覚や情報や思考はどんどん変わっていくという。

>あんな国でも世の中戦争なんですかね.

フィンランドって、わりと上手く行っている社会モデルの代表として紹介されることが多かったように思いますけどね。ただ、例えそれがどんなに「良い社会」であっても、そこに上手く馴染むことが出来ない者からすれば、結局その場所もまた戦場でしかなくなってしまうということなんでしょう。そこが戦場であるか否かは、個人単位で異なってくるという。

画一化の圧力

画一化への社会的圧力は確かに大きく、不快なものです。

昔から、精神的自主独立を保とうとする者はある意味で孤独を生きていたように思えます。
孔子の「君子は和して同ぜず、小人は同して和せず」というのもそれではないかと考えます。画一化の圧力は「同ずる」方ですね。釈迦も「犀の角の如く歩め」と、仲間を求めず一人で進む必要を明示的に説いています。近代では「めだかは群れをなして泳ぐ」と文壇を批判した作家もいました。

「ある意味で」孤独、と言いました。通常言う「孤独」は同ずる者の感情だろうと思います。精神的自主独立が本当にできる者は、機に応じて「和する」のみ。機が去ればまた一人になるがそこに通常言う孤独はない。孤独の恐怖が無いから「同ずる」必要がない。 そこに他の人の自主独立も尊重する、押し付けのない「和」が現ずるのではないか。

という風に考えました。

それは生き残るための知恵であり、本能である可能性

>ガシャドクロさん

人間とは脆弱なもので、幾ら己のその独立性を保とうとしたところで、その生存を維持する物理的要件を満たすには、どうしても何らかの群れに所属したり、群れの運営するシステムに依存したりしなければなりません。それだけでなく、人は、精神的にも常に何らかの思想や理念、法則、或いは特定の他者の存在などといった精神的依存対象によりすがり続けなければ、己の精神を正常なものとして保つことが出来ません。そしてそのために必要となる依存対象にしても、自身の外部に予め存在しているものや、誰かから提供されたものをそのままその対象としている方が、態々自身の内側に一から独自に作り出した思想なり理念なりにその役割をまかすよりも遥かに効率的だと言えます。それを行動原理や判断基準とした方が、他者からの理解や賛同も得られ易いですし。つまり、生存競争という観点からすれば、己の独立性を保とうとするよりも、群れを成し付和雷同している方が遥かに有利だということです。孤独に恐怖感を感じる一つの理由としては、それが群れから離れたり群れの中で孤立することは生命の危険をもたらすものである、ということを警告するための危険信号としての役割を果たしているからということもあるのではないかと。

>機に応じて「和する」のみ。機が去ればまた一人になるがそこに通常言う孤独はない。

「機に応じて「和する」のみ。」というのは確かに一つの理想でしょう。しかし、和する意思があっても、実際にその者が和を形成する能力があるか否かはまた別の話だということも忘れてはいけないでしょう。もしその者が「通常言う孤独」がないとしたら、それは己が「和しよう」とした時に何時でも「和する」ことが出来る能力を持っているからではないでしょうか。ですが、実際のところ多くの者にとっては、一端群れや群れが規定したレールの上から外れてしまうと、機が到来したとしてもなかなか「和する」ことが出来ないどころか、「和」からはじき出され、それを乱す者として扱われてしまいかねないような状況が成立しているのが常です。そういった状況が、多くの者が常に群れを成し続けている理由の一つとして挙げられるでしょう。

そのように考えてみると、「群れをなして泳ぐ」ことは生存競争に於ける重要な知恵であり、本能であるとみることもでき、群れからの離脱が生命の危機にも繋がりかねないような状況が成立している限りは、群れの在り方に対する批判はできても、単に付和雷同して群れをなしていること自体を批判することは難しいように思うのです。何しろそこには命が掛かっているのですから。正直言えば、私もまた「群れをなして泳ぐ」ことが可能であれば、きっとそうしていたことでしょう。ただ私はその能力に著しく欠けていたからこうしているだけであって…。ですから、群れの形成から生まれる力の集約、それを使った画一化、そしてそこから更に生まれるやるかやられるかの敵対関係を緩和するためには、個々人の意思の持ち方でどうにかなるものでもなく、先ず特別な人間だけでなく、誰もが「機に応じて「和する」」ことが可能なような状況を成立させでもしなければ、どうにもならないのではないかと。

それから、またケチをつけるようで申し訳ないですが、そもそも私は「和」という言葉に関しても余り良い印象を抱いていないということもまたここで述べておかなければならないでしょう。というのも、「和」という言葉は、人々に「こうであらなければならない」「そこに収まらなければならない」という印象を強く喚起させます。それ故「和」という概念は、画一化のための道具として権力者に利用されやすい。己の望む世界観を「和」が求めるものであると言い換え、それを大儀として己の欲望の邪魔になる者を抑圧したり排除したりする「神の代弁者」ならぬ「和の代弁者」が必ず現れる。そういった危険性が常に付きまとう以上、私はどうしてもその言葉に警戒感を抱いてしまうのです。

本能というよりやはり知恵に近い

> 「群れをなして泳ぐ」ことは生存競争に於ける重要な知恵であり、本能であるとみることもでき

そういう進化心理学的発想が出てくることはかなり意外.しかし,ちょっと話題がズレているかも.

> そこに他の人の自主独立も尊重する、押し付けのない「和」が現ずるのではないか。

ちなみに,ガシャドクロ氏の主張することは極めて「常識的」なのだけど,「和」「同」の区別を自主性から述べる方法は,ここの管理人にとって殆ど意味をもたないのだ.彼のこれまで書かれた主張(他に書かれた多数記事)を見てみると,「和」すべしという「同」が働いている以上,これは同じ物に他ならない,と主張しそうであることは目に見えているじゃん.

その上,社会的強制に対して怒りをぶつけ,その葛藤で自分を責めてもいるのだから,原論を提示しても解決にならないんだよ.実際に「和を持って尊し」の元の意味はがしゃどくろ氏の主張に近く,現在一般的に使われている意味が管理人の指すものに近い事を考えると,ちっとも笑えない.

実際のところ,「和」であれ「同」であれ,そうした物に実態があるのかどうかは分からず,例えば自主性をもって行動して(あるいはそう思い込んで)いると感じられるだともいえます.一説には,こうしたものは気の持ちようで変わってくると考える人もいるようです.

なんかかなり不安

>そういう進化心理学的発想が出てくることはかなり意外.

進化心理学がどういうものかや、その考え方にどのような問題点があるのかについて何も知らないし、「かなり意外」とか言われるとかなり不安になってしまうんですけど。まあ確かに、それが知恵として有効であることは明らかである一方、それが本能によるものであるのかということに関しては、なんら根拠も確信もあるわけではありません。ただそうではないという確信も無いだけで。自分はただ一人で考えているだけなので、発想も思考結果も全く洗練はされていませんよ。

>しかし,ちょっと話題がズレているかも.

あの部分は、ガシャドクロさんのコメントに於ける

>仲間を求めず一人で進む必要を明示的に説いています。近代では「めだかは群れをなして泳ぐ」と文壇を批判した作家もいました。

の部分に対して、とはいえ、群れていないとキビしい現状がある以上、「お前ら独立性を保て」と幾ら言ってみたところで、その意見が聞き入られることは難しいんじゃないか、ということを言うための前置きであり、あれが新たな争点を生みかねない発言だったとすれば、確かにズレていたと言えるかもしれません。結論だけ書いておいた方が良かったのかも。

>「和」であれ「同」であれ,そうした物に実態があるのかどうかは分からず,例えば自主性をもって行動して(あるいはそう思い込んで)いると感じられるだともいえます.

結局は、それが有るとするのか、無いとするのかということなんでしょうが、私は別にそれを「そんなの有りえな~い」と言って全否定したい訳ではなくて、理念としてはそれは充分理解できるが、とはいえ、それが画一化のために援用される可能性があり、実際そのように利用されているケースが多い以上、それが有るという態度を軽々しく取るわけにはいかないということです。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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