「ともだちランド」化する大阪
これ、テレビのニュースで見たけど、「勉強ができない子に合わせ過ぎている」という意見を述べたこの児童が、この前の「私学助成削減をめぐる意見交換」で橋下知事の主張に異を唱えて公共の面前で面罵され涙を流していた女子高生とは対照的に、ニコニコしながら知事の望むような意見を提供し、彼をアシストしていたのが印象的だった。大阪府の橋下徹知事が、府内の公立小学校に通う児童や保護者らと教育問題について意見を交わすイベントが8日、大阪市中央区の府公館で開かれた。保護者から「学力面で公立学校に期待はしていない」など学校側への不満や批判が相次いだ。
公募で集まった小学5、6年生の児童や保護者、教員の計22人が参加。冒頭、橋下知事は「大阪の教育は、学力を伸ばすことに真正面から向き合ってこなかった。全国学力テストの結果公表をめぐり、僕が府教育委員会事務局ともめた理由もそこにある」と問題提起し、参加者の意見を求めた。
ある母親は「学校の通知表を見ても、わが子がどの程度のレベルなのか分からない。もっと競争心をあおったほうがいい」と不満を口にし、父親の一人は「公立学校に学習のことは期待していない」と痛烈に批判した。
教員からは現場の人手不足を訴える意見が相次いだほか、「(成績上位層への指導よりも)学力面で厳しい子供をすくい上げることに力を入れてしまう」と明かす小学校教諭もいた。
一方、児童からは「学校の授業は勉強ができない子に合わせ過ぎている」といった意見が出た。
橋下知事は自分の落ち度を問われたり自身の意向に反対する意見が出ても、それに対して論理による「まっとう勝負」を挑むことはまずない。文句があるならあなたが政治家になって変えればいい。貴方達がそういう私を知事に選んだ。こういう人がいるから駄目なんです。嫌なら自己責任の国である日本を出て行くしかない。世間が私を支持している。こういった屁理屈でまくし立て、何となく自分が議論に於いて優位に立ち、反対意見を述べている者が悪であるかのような雰囲気を作り出す。そしてその雰囲気に呑まれた者達は、橋下知事に反対してイメージ的に劣位に置かれた者を悪として叩き出す。彼は実質的に、バッシング対象提供マシーンのような役割を果たしている。そしてその対象に選ばれた者が酷い目に遭っているのを目の当たりするにつれ、各々は自身がその対象に選ばれることを恐れ、彼に面と向かって反対意見を述べる者は減っていく。
今回の意見交換会は、リンクした記事で用いられた満面の笑みを浮かべる橋下知事の写真が物語るように、そこで出された意見の多くが彼の意向に沿ったものであったらしく、そのためこれまでとは違った和やかな雰囲気で滞りなく進行したようだ。そりゃそうだ。今までの流れからして、あそこで彼を真っ向から批判するようなことをすれば、すぐさまその場が「糾弾委員会」へと変容することは明らかなのだから、彼に対する反対意見を持っていても、せいぜい多様な意見が出たというアリバイ程度くらいにしかそれを述べることは出来まい。そして彼は、この場所で自身の意向が受け入れられたということを、己の主張の正しさを示す根拠として今後用いていくのだろう。そうやって自分にとって心地のよい環境を形作っていくのが彼のやり方。
彼は「子供が笑う大阪」というキャッチフレーズを唱えて府知事選に立候補し、そして当選した。しかし、彼の言う「子供が笑う大阪」とは、大阪を『20世紀少年』における「ともだちランド」の様な、子供が彼の出した方針に対して異を唱えることを一切許さず、ただひたすらニコニコしてその方針に従い続けなければ生きてはいけない様な場所にするということだったのだろうと本気で思う。
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コメント
いわゆる能力別クラスというものはあるが
教育の形骸化と負のスパイラル
さらに言えば、学力テストの平均点を上げること自体が目的化してしまっていることにも大きな疑問があります。あくまで数字はその内容を測るための一つの目安でしかなく、その領分を越えてそちらの方だけが一人歩きすれば、かならず内容の形骸化につながります。社会保険庁で保険料の収納率の高さを競わせた結果どうなったか、内容にそぐわない数字が一人歩きしたサブプライムローンがどうなったかを想像してみれば分り易いでしょう。
>保護者から「学力面で公立学校に期待はしていない」など学校側への不満や批判が相次いだ。
実際、何故保護者からこういった批判が出るのかといえば、公立だけでは我が子がテストで良い点を取る能力を養うことは難しく、そうなればより良い学校に入ってより良い肩書きを手に入れることが難しくなり、それによって子供の将来が不安になるという思いがあるからでしょう。もはやこれは既にガクリョク競争であり、学問ではなくなっているわけです(勿論ガクリョクが学問に対して完全に排他的というわけではないですが)。
<大阪・橋下知事、私学助成金削減めぐり高校生と意見交換会 「日本は自己責任が原則」(FNNニュース)>
---------------引用---------------
橋下知事は高校生たちに「皆さんが完全に保護されるのは義務教育まで。
高校になったらもう、そこから壁が始まってくる。大学になったらもう定員。
社会人になっても定員。先生だって、定員をくぐり抜けてきているんですよ。
それが世の中の仕組み」と社会の厳しさについて語った。
この発言に、高校生から「世の中の仕組みがおかしいんじゃないですか?」と
意見が出ると、橋下知事は「僕はおかしいとは思わない。やっぱり16(歳)からは
壁にぶつかって、ぶつかって」と反論、「そこで倒れた子には?」との質問には、
「最後のところを救うのが今の世の中。生活保護制度がちゃんとある」、「今の
世の中は、自己責任がまず原則ですよ。誰も救ってくれない」と語った。
さらに、高校生から「それはおかしいです!」と意見が出ると、橋下知事は
「それはじゃあ、国を変えるか、この自己責任を求められる日本から出る
しかない」と反論した。
---------------引用---------------
しかしこのガクリョク競争はあくまでそういったことを根本の動機とするものですから、結局競争といっても橋下知事が言うようにただ「限られた定員」の枠を奪い合う、足の引っ張り合いや潰し合いにしかならない(そういった視点から見れば、私学助成を必要としない人達の多くが知事側に付いたのはある意味正解)。しかも結果は早い段階で予め予測されてしまうため、競争原理は働かないどころか、むしろそれを抑制する方向へと動く。
彼のやり方を支持する府民は、全国学力テストの平均点が上がれば社会がより良くなり、そしてそれが自身に何らかの恩恵をもたらすことになるだろうという、何か漠然とした期待を抱いてそれを支持しているのでしょう。しかしそこには、「獲得した枠組みよって無条件に肯定される厳しい上下関係、身分の固定化による競争原理(モチベーション)縮小→倒れた者は生活保護→出費がかさむので生活保護の受理を抑制→殺るか殺られるか、淘汰するかされるかの関係性が成立」という負のスパイラルしか待っていないわけです。
というか、こういった負のスパイラルに陥って抜け出せなくなった結果として現在の大阪があるわけですが、それに対して異を唱えた子供達は大人達から一斉に罵声を浴びせられ、さらにそれを加速させようとした知事には喝采が送られるという…。まあそういう土地柄だからこそこうなっているわけですが。
結局、本当の意味での学力を上げるには、如何に子供達が自然に学問に対して興味を持ち、自ずとそれを好きになるような方向へと持っていくことが出来るかということに掛かっているのでしょう。しかしそれが難しいからこそ、数字という分り易い指標にすがった方針しか打ち出せないんでしょうね。そしてその結果、その多くが学校を卒業するころには勉強が大嫌いになって卒業していくという。何のための学校なのかと。
まあそもそも、そういった状況を学校や行政の力だけで改善することが出来るのかどうかと言えば、それもまた大きな疑問なのですが。実際、自分なんかは家庭や学校での人間関係が上手くいっていなかったために、勉強どころじゃなかったですしね。ただ一刻一刻の苦痛をどう我慢するかという時間しか過ごせなかった。大阪にはそういう子供が大勢いると思いますし、おそらくそれが数値にも表れているのだと思います。つまり、この風土自体を変えない限りはどうにもならないと(勿論、かといって、直接的な教育行政を疎かにしてしまえばそれは最悪の選択ということになりますが)。
いいですね。その響き
なんか「社会のクズ」というどっかの大統領の言葉を思い出しました。現在でも、社会のクズの吹き溜まりのような学校は存在しまして、偏り方というのは無視できない状況になっています。埼玉では、退学率を下げるために、一部の学生の入学が拒否されていたところもありますからね。私は貧乏人ばかり集まる場所ができる仕組みはよく知らないのですが、ほっとくといずれ問題が大きくなりそうな気がします。
まあ、社会のクズに多額の税金を投入する国もあれば、そうでない国もあるわけで。
退路を断たないことの重要性
確かに、サルコジ大統領と橋下知事には色々と共通点がありそうです。
>「社会のクズ」
厄介な人間を「社会のクズ」としてかたずけるのは容易いし、感情的にそう規定したくなるのは分かりますが、それならばその者達が「俺たちは悪なんだから、悪が悪としての振る舞いをするのは当然だろ」と言って開き直ることを覚悟しなければならないし、クズであることから抜け出せないような隔離政策を行ってその退路を断てば、それが背水の陣となり、その者達がクズとして尋常ならぬ力を発揮してその生や死を貫徹することになるのもまた覚悟しなければならないでしょう。そしてもしそれを「元々そういう生き物である」と規定するならば、それは人工的なものでなく「自然」として取り扱うべき事項となります。
つまり、クズであると断定し、そこから抜け出すのが難しいような風土やシステムを放置しておきながら、その者達が規範的でないことを批判したり、或いはそもそも「自然」であるはずのクズを批判したりすることは、ただの我儘や駄々こねでしかないわけです。
***
さらに言えば、本来えげつなさを伴うはずの「生」の持続や、それ以上の贅沢な生活を送っていながら多くの人間が「綺麗」なままでいられるのは、汚い仕事や人から嫌がられるような役割を社会システムに代行してもらっているからに他なりません。多くの子供達は、そのシステムや風土を上手く利用することが出来ている親類の大人達からその恩恵を受けることで綺麗な身のままその生活を送ることが出来ますが、大人になればそうはいきません。今度は自らがそのシステムや風土を上手く利用しなければなりません。そしてそれを上手く利用することが出来ない人間は、直接自らの手を汚さねば生活を維持することが出来なくなり、それによってクズとなります。或いは社会的な肩書きを手に入れられなかったことでもクズと見做されることでしょう。
つまり、社会の生み出す風土やシステムの力を上手く出来ない人間はクズになるしかない。そしてそれを上手く利用するためには、それなりの技能や知識、肩書き、政治能力などを身に着けていなければなかなか難しい。だからこそ、教育が必要となるわけです。それがなければ(上手くいかなければ)多くの者がクズであることから退く道が閉ざされ、それが固定化することになるのは避けられないでしょう。
まあ教育による投資効果は必ずしも分り易い数字として現れるわけではないし、また確実にその効果が現れるとも限らないので、そこに掛けるお金を減らしたくなる気持は分からなくはないですが、しかし、そこに掛ける手間や金を減らしておきながら、尚且つ「クズも減らす」などという甘い囁きをする人間がいたとしたら、その人間はまず十中八九インチキ野郎であると思っていた方が無難でしょうね。
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まあ、確かに、全員に全く同じ課題を与えて全員が全く同じ結果を出せるなんてのは現実からかけ離れたものであることは事実です。どっちにしても金と手間はかかるので、成績上位層への指導が充実できるくらいなら、実はたぶん落ちこぼれを完璧につぶす事も達成しやすい状況になっているとも言えるでしょう。ただし、何もしないで(金は出さない、手間はかけない)で、こういうことばかり言っていると、教育環境の悪化には都合の良い言い訳になるので、そこんところはよく考えたほうが良いです。