ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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批判されるべきは無責任さや強欲さではなく、道徳の方だろう

大手製造業、株主重視で人員削減 内部留保、空前の33兆円(47news)

 大量の人員削減を進めるトヨタ自動車やキヤノンなど日本を代表する大手製造業16社で、利益から配当金などを引いた2008年9月末の内部留保合計額が、景気回復前の02年3月期末から倍増し空前の約33兆6000億円に達したことが23日、共同通信社の集計で明らかになった。

 過去の好景気による利益が、人件費に回らず巨額余資として企業内部に積み上がった格好。08年4月以降に判明した各社の人員削減合計数は約4万人に上るが世界的な景気後退に直面する企業は財務基盤の強化を優先、人員削減を中心とするリストラは今後も加速する見通し。

 08年度の純利益減少は必至の情勢だが配当水準を維持、増やす方針の企業が目立ち株主重視の姿勢も鮮明だ。

 派遣社員などで組織する労働組合は「労働者への還元が不十分なまま利益をため込んだ上、業績が不透明になった途端、安易に人減らしに頼っている」と批判している。

記事には「株主重視」とあるが、「利益から配当金などを引いた」ものが内部留保なのであり、それを配当金に回そうともしないのだから、別に株主重視というわけでもないだろう。

多くの利益を蓄えていながら、好況時はそれを株主にも労働者にも還元せず、いざ不況になれば、散々自社への忠誠心を要求し、その足場を築く為に利用してきた者達をいとも容易く切り捨てていく、この大手製造業経営陣の底知れぬ強欲さと図々しさ。こういった態度や事態に対する批判としては、以下のようなものが一般的と言えるだろう。

社説:非正規切り 企業の責任はどこへ行った(毎日新聞)

 「企業理念は共生」「人を大切にします」「人々の生活を豊かに」……。大手企業が競うようにホームページに掲げる「企業理念」が、今ほど色あせ、むなしく映ることはない。(中略)

 世界不況が日本に及び始めた秋以降明らかになったのは、雇用の悪化を招くことを顧みず、大量の「非正規切り」でコスト削減を図ろうとする企業の姿勢だ。NPO法人や労働団体が失業者の支援に動き、各地の自治体が臨時採用や住居提供に名乗りを上げ、政府も緊急の雇用対策に踏み出した中で、さらに切り続けて何もしようとしない企業の無責任ぶりが際立つのだ。

 中には、期間従業員の中途解約を撤回した企業もあるが、同じ職場で働いていた派遣社員は切ったままだ。体力のある大手企業の間でも非正規の雇用を守ろうという動きが出てこないのは理解しがたい。

 不況直前までの大手企業の好業績を支えたのが、低賃金で働く非正規の人たちだった。この間、大手企業は多額の収益を従業員に回さずに内部留保としてため込み、不安定な働き方を強いられる非正規を放置してきた。今こそ、その収益を非正規の雇用維持のために向けるのが筋ではないか。

 こうした理不尽がなぜ許されるのか。非正規が法的に十分に守られる仕組みになっていないからだ。

この批判は、企業側の無責任さを指摘し、それによって道徳的圧力を掛けることで状況を改善しようとするものだろう。しかし、実はこういった道徳の力に頼り切った批判の在り方が一般化してしまっていることこそが、今回のケースを始め、様々な人工的惨禍を生み出す原因になってしまっているように自分には思える。
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というのも、道徳というのはある者が幾らそれを遵守するよう試み、それによって他の誰かに配慮による恩恵をもたらしてきたからといって、その者が他の者からも同じ様にその恩恵を受け取ることが出来るとは限らない。逆に散々それを踏みにじってきた者であっても、充分にその恩恵を受け取ることは可能であり、それどころか他者にその規律を要求することさえ可能だ。例えば、この大手製造業の経営陣や、その者達に上手く媚へつらうことでその地位を維持してきた者達のように。

権利や義務、或いは当該記事で用いられている責任という概念にしてもそうだが、何かしらの規範やその裏づけとして持ち出されるこれらの概念、それらが唱えるその法則性は、元々存在していたものを後から人間が発見したわけでもなんでもない。それらは全て、他者を制御すること、そして人間社会に拠り所となる何らかの法則性をもたらすことを目的として人間が人工的に作り出した政治的道具に過ぎない。だから、ただ単にその法則性が成立していることを信じ、それに殉じながら他者からの配慮を期待するだけではどうにもならない。それを道具として上手く利用しない限り、その法則性による大きな恩恵を受け取ることは難しく、マイナス収支になってしまう可能性が高い。

だが問題は、その道具を上手く利用することが出来る者とそうでない者がいるということだ。それらの政治的道具は、それによって集団を動かし制御することが出来て初めてその真価を発揮するわけだが、それが可能なのは、元々ある程度の政治能力を身に付けている者だけだ。それどころか、政治能力が欠如している者にとってそれらは、むしろ自らの身動きを奪い、罪悪感という毒を体内に盛り続けるためのものでしかない。そしてさらにその者達の人生の前には、同じ様にその毒にあてられ、自らが獲得した抑圧や苦痛を他者にもなすりつけようとする道徳ゾンビ達の群れによって形成された風土やシステムが障害物として立ちはだかることになるだろう。

社会的弱者が己の権利を、他者の義務や責任を、そして道徳を唱えることによって自らの足場を形成しようとすることの虚しさの理由はここにある。何故なら、社会的弱者は政治能力が劣っていたが故に、それらの政治的道具を上手く利用することが出来なかったが故に社会的弱者となったのであって、その政治能力の欠如した者達が再びそれらを用いて足場を築こうとしたところでその効果が期待出来るはずもなく、それはただその者の強欲さを露にする結果にしかならないからだ。そう、そもそも何らかの規範によって他者を制御しようとすることそのものが強欲な行いそのものなのだ。そしていまだ現実のものとして成立したこともなければ、自らが遵守しているわけでもない(道徳を遵守することを重視すれば社会的順応は不可能)道徳を他者に押し付けることは、その者の図々しさの表れであり、詐欺的行為でもある。

 ***

つまるところ、道徳は弱者の味方でもなければ道徳的な人間の味方でもない。それは政治的道具であるが故に、常に政治的勝者の味方なのだ。非道徳的な人間もまた、非道徳的な行為を行うから非道徳的な人間と見做されるわけではない。政治的敗北をするからこそ、その者は非道徳的な人間と見做されている。だから、道徳によって政治的勝者を律することは出来ない。そして道徳によって道徳ゾンビが生み出されるからこそ、使い捨て奴隷のような片務的関係性が形作られ、奴隷側の自らの配慮によってそれが維持されることになる。その結果がこの事態を生み出している。道徳が行き渡っていなかったことがこの事態を生み出したのではない。道徳が行き渡っていたからこそこの事態は生み出されたのだ。

ではどうすれば良いのか。答えは簡単だ。この国に住む全ての人間が、大手製造業経営陣と同じくらい強欲で図々しくなれば良いのだ。別に無茶なことを言っているわけではない。そもそも、道徳によって他者を律しようとすること自体が図々しく強欲な行為であり、尚且つそれは詐欺的行為でもあるのだから、基本的に今までとさほど変わりはしない。ただ、集団の利益を大儀とした他者抑圧の正当化や、それによって個人の利益を追求するという詐欺を行うことが困難になり、今まで一部の者達に囚われていた強欲さや図々しさが全ての人間に解放されるというだけの話だ。

そうなれば、企業が「企業理念は共生」「人を大切にします」「人々の生活を豊かに」といった嘘を付く必要もなくなればそれに騙される人もいなくなる。「多額の収益を従業員に回さずに内部留保としてため込み、不安定な働き方を強い」ることも難しくなるだろう。何故なら、今まで集団の利益と言われてきたものは、すべて特定個人の感情的・金銭的利益、或いはその拠り所となっている世界観(法則性)の維持を目的としていたものであるということが全国民の前にさらけ出され、誰もそれに騙されなくなるからだ。誰かに媚びへつらうことで見返りが期待出来るという信頼関係の形成も難しくなり、道徳によって生み出される道徳ゾンビやその群れに脅されることによってなされる望まぬ配慮をする必要もなくなる。「企業も大変なんだから配慮しろ」「社会のために犠牲が必要だ」などと言い、自らの立場を優位に保とうとする者がいても、「ならお前が犠牲になれ」「詐欺師乙」で済む。其々はひたすら自身の利益だけを追求すればよい。そして自身の利益の為に何らかの配慮が必要だと思えば、他者からの要求ではなく、純粋な自身の判断によってそれを行えばよい。現在に於いて、道徳を政治的道具として上手く用いている者達のように。

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結局道徳なんてものは、己自身の内側から生まれ出たものを、他者からの見返りを一切期待せず、己自身の望みで以って、己自身のみを律していればそれでよい。他者(人工的環境)から様々な形態で以って植えつけられ強要される道徳は、「詐欺師」とそれに騙される「愚か者」、そしてその道徳の裏切りに対する「復讐者」しか生み出さないのだから。

コメント

良い機会

海外へ生産拠点を移動する傾向がずっと続いていたのだから,この不景気がちょうどよい機会に見えた人は結構いるのかもしれません.ようするに,バブルによってその時期が遅れ,バブル崩壊によってその時期が予想より早くやってきたと・・・.非正規雇用が低技能労働者を助けた(特に,派遣・非日雇い労働者の増加に対して)という言い方を好む経済人は多いのですが,今となっては「どうも,ありがとう」とでも言えば良いのでしょうかね.

社会全体が上向きのときは,たとえ騙されていても(または騙されたフリをしても)詐欺のおこぼれがもらえる傾向があります.高度成長期の日本のように騙されていたにもかかわらず,不満はそれほど無かったわけです.ところが,いったん悪化をはじめると怖いです.

ギリシャ人の友人がいまして,今後日本人の行動は「世界標準」に近づくのではないかと言っていましたが,私も同じ意見です.ただ,一口に世界標準とは言っても,その結果って文化的に違うんですよね.イタリアのように働かない国もあれば,ギリシャのように暴動おこす国もあるわけですが.

大晦日,寝正月の準備は

大量にホワイトシチューを保温なべで作り,風呂も沸かし,あとは食って寝るだけです.このまま,寝巻き起巻きですごします.ぐうたら正月の準備は完璧です.

めでたくなくとも年は明ける

ここ二日ほど調子が悪くて、少し早めの寝正月に突入していました。といっても、自分にとっては基本的に一年中平日なのですが。

お返事を書こうと思っていたのですが、そういうわけでまだ書けていません。その内容は、おそらく日本は、暴動や詐欺(労働)への積極的加担の拒否という方向に行く前に、(かつて存在していたと思われている)失われたユートピアを奪還するためのディストピアという夢をもう一度見て、その夢から醒めた後にようやくそこにたどり着くのではないか、というようなものだったのですが、もしかしたら後からそれを投稿するかもしれません。

夢から醒めたらそこは地獄、ユートピア奪還の為のディストピア作戦

先刻予告していた<良い機会>へのお返事です。

>非正規雇用が低技能労働者を助けた(特に,派遣・非日雇い労働者の増加に対して)という言い方を好む経済人は多い

そういう構図が無かったとは言えないかもしれませんが、真摯に現実を観察しようとするには、他にも色んなピースが欠けているようにも。土台となるそのフレーム自体もまた人工的なものですし。なんだかミスディレクション的な意図を感じますね。経済人として上手くやっていくには、そういったトリックを無意識のうちに使うことが出来る高い詐術技能が必要とされるということなのかもしれません。自意識を罪悪感から保護するためにも。

>たとえ騙されていても(または騙されたフリをしても)詐欺のおこぼれがもらえる傾向があります.

これまでは実に殆どの日本人が、「常識的枠組み」にしがみ付いてさえいればそのおこぼれがもらえ、慎ましくとも「普通の生活」くらいは送り続けることが出来るもの(尚且つ、努力すればその枠組みにしがみ付き続けることが可能)だという幻想を信じていたわけです(そしてその幻想が事実であると触れ回ることで詐欺となる)。実質的に奴隷の様な状態に置かれている者達までもが。

つまりこれは望み控えめなユートピア幻想であり、宗教でもありました。環境神とでも言えばよいのでしょうか。これまで多くの日本人は外国での惨事を目にする度、判で押したかのように「日本は恵まれている」「日本はまだまし」という台詞を口にしてきました(「自分はまだまし」と言うのなら分かるのですが)。毎年三万人以上の人間が自殺し、実質的な奴隷が沢山いるこの国に身を置きながら。これはどういうことかと言えば、この“ニッポン”というエリアには、予め(前述したような)ユートピア的環境が成立していて、そこに住む者達全員がその恩恵を受け取っているという前提を殆どの者が共有していたからでしょう。そしてそのユートピア(即ち“ニッポン”という環境神)は、この国で生まれ育った“みんな”の協調性と“労働(といっても、実際は純粋行為としてのそれではなく、社会的関係性としてのそれ。ホームレスが労働をしていないかの様に思われ、低賃金労働者が蔑まれるのが良い例)”によって支えられてきたという認識もまた持っている。

だからこそ、“みんな”は偶像として力を獲得し、その“みんな”の期待に応えることが出来ない協調性のない者や、社会と“労働”という関係性を上手く築くことが出来なかった者は、「ユートピアの恩恵を受け取っていながらそれを支えようとしない者」として蔑まれ糾弾されることになる。社会批判が冷たい目で見られるのもまたこういった理由からでしょう。或いは、ネット上で国籍法改正が騒ぎになったのも、“ニッポン”を支える“みんな”の構成員に異教徒達が増えることで、環境神がその性質を変えてしまうのではないか、という恐れがその背景にあったからこそでしょう(単なるナショナリズムではないが故に厄介)。

詐欺に騙されていたのか騙されていたフリをしていただけなのか、というのはどちらとも言えるのでしょうが、しかし重要なのは、少なくとも多くの者にとって、その詐欺に気づこうとする、或いはそれが詐欺であるということを認めようとする動機が生まれ難い風土をこの国は持っていたということです。多くの者達が今まで、精神的に「常識的枠組み」の側に身を寄せ、それによってユートピア的環境を支えてきたということに自身の誇りや存在意義を見出し、逆にその枠組みから零れ落ちた者達を散々蔑んできたわけです。そして長年培ってきたこういった感覚は直ぐに消えるものではありません。つまり、その枠組みから精神的に離脱するということは、その誇りと存在意義を手放し、他者を蔑んできた自らの悪意を自身に還元しなければならないことを意味します。しかも精神的にそこから離脱したとしても、やはり現実問題として生活の為に表面上はその関係性は維持しなければならない場合が殆どでしょうから、そういうった意思の気づきはとことん生活の維持にとって邪魔なものになります。だから結果としてそのことに気づく動機は生まれず、それに気づく人間の多くは、状況的にもはやそれを否定せざるを得ないまでに追い詰められて、地獄の真っ只中でその夢から目覚めることになるわけです。

自分にはこういった構造がそう簡単に変わるとは思えません(まあ西成では既に暴動が起こってますけどね)。現に上の世代からも下の世代からも、道徳の失敗を更なる強固な道徳で律しようとするなど、一度失敗したものを再び繰り返そうとする復古主義的な主張ばかり聞こえてきますから。ガクリョク競争なんかもそのうちの一つでしょう。そしてこれから暫くは、かつては存在していたとされる日本的ユートピアの復活を目指して、これまで婉曲的に行われてきた人間のシステムへの最適化が、より具体的な強制力を持ったものとして構築されていくことになるのではないでしょうか。

ニート・引きこもり支援新法制定へ 通常国会で政府提出へ(産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081229/plc0812290136000-n1.htm
================引用=================
ニートや自宅に引きこもっている若者の存在が社会問題化している中、こうした若者の自立や社会参加、就労を官民連携で支援するために、政府が「若者支援新法」(仮称)を来年の通常国会に提出する方針を決めたことが、28日分かった。急速な景気の悪化で非正規労働者らが解雇されるケースが相次いでいることを受けて、今後のニートや引きこもりの増加に備えるねらいもある。(中略)
地域協議会は、各機関の情報を集約して、ニートや引きこもりになっている若者がどこにいるかを把握し、専門相談員「ユースアドバイザー」や医師、保護司らが自宅を訪問する。こうした活動を繰り返す中で、引きこもりの原因を探って、社会参加への計画を策定。
================引用=================

これなんかが分り易い例ですね。何時だったか、無職でいるところを三回おまわりに見つかったら逮捕されるような時代がやって来る日もそう遠くはない、という様なこと言いましたが、そういった中世ヨーロッパ的なものが復活し得るような土壌を持っているのがこの日本という国なのです。そして恐らく、この期に及んでもまだそれが存在するということを信じる人も多いユートピア幻想から完全に分断され窮鼠となった者たちの行動が、そのユートピアを再び復活させるためのディストピア化の後押しをするような結果になりそうな気がしてなりません。つまり日本は、一度ユートピアの夢から目覚めた後、もう一度ユートピアを奪還する為のディストピアという夢を見るのではないかと。日本が「世界標準」に近づくのは、そのディストピアの夢から醒めた後からなんじゃないでしょうか。

まあそれが「世界標準」の文化的差異の結果だと言われればそれまでですが。

純粋に経済的(功利的)な問題なのか?

いくつかの側面を考えてみました.

> これなんかが分り易い例ですね。

代表的なものとしてはこれでしょうか
引きこもり狩り―アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876722129/nifty05-nif109525-22/ref=nosim

ただ,経済的な問題ではあきらかに本人たちは不利益をこうむる事は間違いないです.それと,こないだ少人数教育とかの話をした時と同じような問題がでてくる可能性もあります.その理念が結構うまくいっているかどうかです.つまり社会参加の果実を受け取れるようにするためにジャンジャン税金を使う国もあれば,個人の努力を促そうねというだけの国もあれば,最悪の場合社会的排除を行う国もあるわけで.残念ながら運用次第かもしれません.

もちろん.アマゾンの評者のひとりが言うように「引出す」とか「引出し方」というだけでは,問題の解決にはほど遠いのが現実です.それは片側の立場でのみ語られている事は事実ですね.また,こういう雇用環境が悪い時期に自立を促しても,なかなかうまくいかないでしょう.働こうとしても働き口は無い給料はたかがしれてるでは,どうしようもないです.しかし何かはしなければなりません.結局放っておいても長期的に見て良い事はアマリ無いと思っています.

実を言うと,この手の法案には,事実上何の役にも立っていない一部の行政組織に行動を起こさせる・・・っていうか仕事をさせる・・・っていうか仕事をあげる・・・わかったよ,正直に書くよ.利権という側面があります.その記事にも中略部分に書いてあったと思いますが,ひきこもりが役所までやってくるわけではないわけですから,外郭団体は何の役にも立っていなかったわけです.しかし,一方でまた注意しなければなりません.まだマシというのはどういう事かと言うと,「稼ごうとしないやつに税金を使うな」とかもっと悪くなると「稼げないヤツに税金を使うな」という意見になるわけです.いるんだって,こういうの.私の父がそう.そう,これはもっと悪いです.さっき言ったように雇用環境が悪い時期では,こういうところに予算を回さずに,直接対策として当面の問題を解決しろという話になります.もっとも,予算を減らす事は本来関係ないのですし,長期的な視野が欠けている事も指摘しておきます.

> 環境神とでも言えばよいのでしょうか。これまで多くの日本人は外国での惨事を目にする度、判で押したかのように「日本は恵まれている」「日本はまだまし」という台詞を口にしてきました

ニャハハ・・・

それでも,イラクやパキスタンやミャンマーや中国には住みたくないな.とはいえ,文化差というのは,うまく使えれば良いものでもありますし,うまくいかなければつらいものである事は事実ですね.身近に自己主張できずに逃げてきたアメリカ人(最近,日本人ガ変ワッテキテ良クナイデース)とか,その真逆のドイツ人とか,日本で注意欠陥と言われたのにイタリアでは「おとなしすぎる」と心配された(注意欠陥の基準って国際的にホントまとまりがないんですよ)ヤツとかいまして,社会的不適応には間違いなく文化があるわけです.「イタリア」や「ギリシャ」みたいな×××な国でもそれなりの社会不適応があるわけです.

> ホームレスが労働をしていないかの様に思われ

もっとも,これは効率とか無駄とかの「社会的」な意味次第かもしれません.日本人の高齢者に見られる復古的な社会のための労働観か,ケインズ的な政策上の効率の極大化なのかによってもかわってきます.

なんか日本人の価値観には,「ユートピアの恩恵を受け取っていながらそれを支えようとしない者」=(一言で言うと怠け者)というよりは,「社会のための」というのが結構大きいように感じます.「共励切磋」と「Give and Take」と「もちつもたれつ」は本質的に同じモノであるはずですが,文化的意味も使われ方も違うわけです.これが税金とかであれば,社会サービスに対して支払いが無ければ,水道を止められるのではなく,捕まるだけです.私はこれが純粋に功利的なものだけではないと思っています.いつのまにか,文化的な道徳観が一人歩きしている気はしますね.

「関係性」や文化の形成過程こそが注目されるべき

お返事が遅くなりましたが。核心部分に触れる話題で、軽く流すわけにも行かなかったのでじっくり書きました。

>純粋に経済的(功利的)な問題なのか?

勿論、純粋に経済的な問題なのか?と問われれば、それはNOでしょう。特にひきこもり云々に関しては、個人が獲得した資質・感覚と集団が作り出した枠組みとの文化的軋轢の結果という側面の方が強いと思います。

しかし一方で、「功利的」ということでいうならば、具体的利益の追求だけでなく、もっと広い視点でそれを捉えなければならないと思っています。つまり、以前のコメントで「感情的利益」という言葉を使って言い表したものや、今回の記事では「拠り所となっている世界観(法則性)の維持」という表現で言い表しているようなものもまた、そこに加えた上でそれを見なければならないのではないか、ということです。というのも、こういった(時として自身の具体的利益を損なうことにもなる)非経済的な功利性(感情的満足、感覚的安心感)の追求もまた文化形成の在り方には大きく関わっていて、そこの部分(隠された意図、無自覚な政治性)が明らかにされない限り、文化はより硬直的・画一的・排他的になり、それの持つ問題点が顧みられる機会が奪われてしまうことになるからです。

例えば、誰かが「社会のため」と言って何らかの主張を押し、そのための行為を是とすることは、「その者が理想とする社会」を実現しようとするエゴの表れとも取れます。実際には「理想とする社会」に真に正しい姿などはありませんから、一口に「社会のため」といっても、「どんな社会にすべきなのか、どのような世界観を共有(標準化)すべきなのか」ということに既に争いがあるわけです。しかし、経済的な功利性だけを見ていると、こういった非経済的な段階での争いが注目されることはありません。ただその争いの結果として力を獲得した考え方が、予め定まっているものとして突然姿を現し、その枠組みが無条件に肯定され、それへの最適化を個人に迫ってくることになるのです。

>注意欠陥の基準って国際的にホントまとまりがないんですよ

AD/HDにせよアスペルガー症候群にせよ、それはあくまで個人と文化との間で生み出される種々の軋轢の傾向をまとめ、そのデータを使って作った人工的な物差しで分類を行っているに過ぎないわけですから、文化が違えばその物差し(問題とされる傾向)が変わってくるのは当然のことと言えるでしょう。「普通」の人間が「普通でない」とされる者達の集団の中に身を置けば、そこではその者が持つ「普通」という因子が問題視され、異質な存在として認識されるのと同じで。

つまり、「個人の問題」として扱われているものの多くは、実際は特定のある個人の持つ因子だけが原因となって生じているわけではなく、その個人と文化(即ち一般に「社会」と呼ばれるものであり、その中身は不特定多数の個人の思想や活動)との「関係性」の上で形成されているものであるということです。ですから、本気でその問題を解決しようとするのならば、この「関係性」こそを観察すべきであり、そこを見直すしかその方法はありません。これは一般的雇用問題に於いても同じことが言えるでしょう。幾ら個人が努力しようと、その個人が某かの企業(個の集まり)と持続可能な「関係性」を構築することが出来る環境が整っていなければ、その問題が解決する筈もないですから。そしてまた、精神は永久機関でもなければ無限に修復可能なものでもなく、ましてや条件的に平等であるわけでもないため、その活動期間や活動手法にも自ずと制限や個人差が出てくることになります。

ところが、実際には雇用問題にせよ自立支援にせよ、「関係性」という現実が精神論的ファンタジー(平等)で覆い隠され、特定個人の「既存の枠組みへの最適化努力と多様性の克服」だけでそれを解決するよう求められるのが一般的です。しかしこの要求は、実は既存のシステムや文化を上手く利用し、現在政治的に優位な立場にいる者達の「我々(という個人)は問題解決のために一切変わる(関係性を見直す)つもりはない。お前らだけが変われ」という一方的宣言でもあるのです。そしてこの宣言は、集合化による匿名性や「社会」という偶像との一体化による「個の超越」認定によって主体はぼやかされ、その政治性は恰も自然であるかのように無条件に肯定される。それ故本当に重要な「関係性」や文化形成過程が観察されるにまで至らない。

これは自殺にしても同じことです。少し前の記事では、「人工的環境との関係性によって形成された自殺は基本的に他殺である」と言いましたが、これは「生き残った者もまた自殺という現象の一部である」と言い換えることも出来るでしょう。しかしながら、実際には始めからこの現象は全て自殺する側の意思によって形成されているという前提から話が始まってしまうが故に、当然その問題の責任や解決もまた、全て当事者の意思に求められることになります。まあいつも言う通り、こういった一個人の意思の在り方が社会との「関係性」をすっ飛ばして結果を決めることが出来る、或いは局面を打開することが出来るという考え方は、セカイ系の考え方そのものなのですが。

 ***

で、こういった既存の文化やシステムへの最適化こそが善である(社会のためになる)という常識の下で、自身の限界と出会うことのない中途半端に大きな努力や(自身の感覚を犠牲にする)苦痛を伴って枠組みへの最適化を果たした者達の中には、社会的成功や失敗をそのまま精神的勤惰や忍耐の程度と結びつけ、それをヒエラルキーに置き換える者や、そういった世界観に依存することで自身の存在意義を見出そうとする者が現れます。そういった者は他者と相互的な「関係性」を形作ることが出来るはずもなく、先ず何らかの枠組みに対する最適化ありきでしか物事を考えられない。そして枠組みに最適化されない者は努力や我慢が足りないからだ(怠け者)と認識し、そのために際限なく苦役を強いていく。挙句の果てに長田杉浦昌子や戸塚のような事件を起こすことになる。

当然これらは経済的な功利性の追求の結果として起こるものではありません。それよりも、自身が獲得したような苦労や苦痛を獲得ぜずにぬくぬくしている者達がいるという不公平(感)を是正したいという感情や、善なる枠組みに収まろうとしない者達を懲らしめてその枠組みへと引き入れたいという感情、或いはもっと純粋に、状況を利用して暴力欲を満たしたいという感情(長田杉浦らは、塾生を連れてくることを「拉致る」と言っていた)、さらには自身の存在意義の拠り所となっている世界観(法則性)が正しいということを証明したいという思いが勝った結果と言えるでしょう。

まあ流石に一度ああいった事件を起こしてしまえば、彼らの行為に疑問符を付ける者も増えてくるわけですが、しかしながらそれでは事後的、個別的認識にしかなりません。結局ああいう事件が起こって尚、依然として彼らが抱いているのと似たような認識が一般的であり、それが力を持っていることには変わりないわけですから。そしてそれを顧みようとする時も、既存の枠組みに最適化することが正しいのか否かという視点しか生まれてこない。仮に最適化されないことが是であると認定されても、「じゃ、それでいいんじゃないの」で終わってしまう。

だからこそ、文化を既に出来上がっているものとして見るのではなく、それは絶えず再構築されているものとして見なければならない。そしてそのためには、「社会」というものを一端個人単位に解体し、経済的功利性だけでなく、感情的利益や感覚的安心感という非経済的な功利性にも注目した上で、其々の「関係性」観察するところから始めなければならないと思うのです。

 ***

余談になりますが、フリースクールや自立支援活動というのは、それ自体が社会不適応者の雇用的受け皿や、その活動に携わる者達の生き甲斐や(問題解決に取り組んでいるという)アリバイの創出になっているという側面もあります。よって、そこにお金を使っても、実際には旧来型の公共事業としてしか機能を果たしていない場合も多いような気もします。勿論、そういったもの全てを否定するつもりはありませんが(逆に言えば、それは無条件に肯定されるべきではない。最近では丹波のフリースクールが長田杉浦らと同じ様な事件を起こしている――http://positiveallergy.blog50.fc2.com/blog-entry-223.html――が、殺人にまでは至らなくとも、そういった問題はそこらじゅうで起きている可能性がある)。

つまり、問題の根本が人間が兼ね備えている文化形成習性と予め獲得されている多様性という二つの要素の軋轢から生じているものですから、その問題を解決するためにお金を使うにしても、それをどのように使えば有効なのかということがまた難問として立ちはだかることになるわけです。だから、結局システム側では雇用環境の改善や、その枠組みに入る為のハードルを下げさせること(そこに入れないような状況を作っていながらこっちに来いと言い、枠組みに入れなかったことを自分の意思で選択したとする詐術が一般化している)、或いは、異質な者の出入りが「普通」となるような文化形成の後押し、せめてそれを疎外しないような配慮をすることくらいしか出来ないのではないのかと、そんな風にも感じているんですよね。まあ、自分はこういう立場にいながらにして、そっち方面(自立支援)の事情には全く無知なので、これはあくまで素人考えなのですが…。

※(2009/1/28)塾生を拉致って監禁・暴行死させたのは長田百合子ではなく、以前に長田と塾を共同経営していた妹の杉浦 昌子の方でした。お詫びして訂正させていただきます。とはいえ、長田百合子のやり方(屈強な男性を引き連れて迎えに来るという方法を取っていた)が許されるものではないということには変わりありませんが。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
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でも、本当はただの断末魔ブログ。

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