ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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平等は「個人」の敵であり、「平等」は慢心の表れである、という話

オバマ大統領が就任する直前の記事。

オバマ米次期大統領:ワシントン入り 結束訴え「移動式典」220キロ(毎日jp)

 ◇5万人、期待口々に

 【ウィルミントン(米東部デラウェア州)大治朋子、ボルティモア(同メリーランド州)及川正也】オバマ次期米大統領は17日夜、米独立ゆかりの地、東部ペンシルベニア州フィラデルフィアを起点とする約220キロの「列車の旅」を終え、ワシントンに到着した。途中下車して開催した二つのイベントには、地元や近隣州から計5万人近くが駆けつけた。20日に就任するオバマ氏は「これから毎日、ワシントンであなたたちのために働く」と約束した。(中略)
 会場にいた白人の女子大生、ホルーセックさん(18)は、オバマ氏が米国初の黒人大統領に就任することで「アメリカではどんな人にも平等にチャンスがあることを、世界に示すことができる」と誇らしげに話した。

この「平等にチャンスがある」という発言には、どうも釈然としないものを感じる。というのも、これは日本でよく見受けられる、外面的に分り易いハンデを背負った者が大きな社会的成功を収めた例を後ろ盾にして行われる、「こんな例だってあるんだから、日本では努力さえ怠らなければ誰もがある程度の社会的成功を収めることが出来るはずだ」というような主張と根本の部分で繋がっているような気がするので。つまりそれは、個人の意思が因果に介入し、その結果(未来)をコントロールすることが可能(な環境が成立している)であり、尚且つその意思の力の使い方さえ上手く行えば、誰もが最低限の社会的成功くらいは収めるチャンスはあるはずだという思想。

しかしこの考え方の行き着く先は、「社会的成功を収めることが出来なかった人間は平等に与えられたチャンスを自ら不意にした愚か者だから、どんな窮地に陥っても全てその者のジコセキニン。そして自らの意思でその失敗を選らんだのだから、その失敗者を成功者の俺が踏みつけるのもまた、踏みつけられる者が自らの意思で選択したジコセキン」というものであり、成功者の際限ない自己肯定を生み出すだけだ。実際は、自分では最高の選択肢を見つけ出したつもりで、それに最大限の努力を注ぎ込んできたことが、むしろ最悪の事態を招く大きな原因となってしまったりするのが現実なのだが。
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しかし、何故この「平等」という言葉はこんなにも人々を魅了するのだろう。現実には「平等なチャンス」など存在し得るはずもないが、仮にもし本当に平等なスタートライン――つまり、其々に与えられる環境は勿論、容姿や声や性別、体重など、外見的な「個」の識別を完全に不能にし、生まれ持った資質による能力差を何らかの手段を使って標準化し、精神的な「頑張り」や「工夫」や「判断」だけでその者の人生のあり方が決定されるような状況――を人工的に作り上げることが出来たとしても、それは全ての成り行きが運によって決定されてしまうという現実が惨いまでにまざまざと自己主張を始め、現在人々が精神安定剤として服用している「個人の意思の力が因果に介入し、未来の結果をコントロールすることが(少なくとも少しは)可能である」という甘やかな幻想を完全にぶち壊すことになるだけなのに。人々はきっとその惨い現実と向き合うことで生じるストレスに耐えることは出来ないはずだ。

そして平等が成立した時、少なくとも外面的には「個」の認識は失われる(そうでなければ平等の条件を満たせない)。勿論、全ての人間には「世界に一つだけの花」的な意味での特別性(固有の感覚)が予め備わっているので、自身を「個」(というより異者)として認識することは可能かもしれない。だが、他者からは決して「個」として認識されることはない。勿論、其々の他者を其々の「個」として識別することも出来ない。誰がどのポジションに付こうが、誰が生き残ろうが死のうが全て同じ。全てが交換可能。ただ、誰かがどこかに収まり、誰かが生き残って誰かが死ぬという結果の繰り返しだけがそこにはある。そして「個人」としての存在意義はゼロとなり、其々は完全に全体の一部位としての存在となる。新陳代謝によって幾ら細胞が死滅していこうが、我々はそれらを「細胞」としてしか認識しないように。つまり、平等は「個人」という存在にとっての最大の敵なのだ。

だが、そういう世界で人間が幸せに暮らせるとはとても思えないし、またそういう世界を望む者も(完全にゼロではないかもしれないが)先ずいないだろう。つまりこれはどういうことかと言えば、人々は「平等」という言葉に平等以外の何かを見出しているということだ。恐らくそこには「公正なルール」といった抽象的なものが想定されているのだろうが、「公正なルール」は余りにも具体を想起させ過ぎる。要するに、幻想を生み出す力が弱すぎる。だからこそ、「平等」は魅了する。

「公正なルールが成立していれば、自分はきっと成功するはずだ。そして成功して存在し続けるべきだ」という何の根拠もない「個」の自己慢心。その自己の存在に対する(意思というよりも感覚的に否定し難い)無邪気な思い込みが、「平等」という言葉を媒介して表れる。しかし、その「無邪気な思い込み」を持ち続けることこそが、「個」が存続し続けるための重要な条件でもある。そして其々がそれを持つが故に、「平等」という言葉は他者の「慢心(個の性質)」に働きかけて魅了することが可能であり、やがてそれは「個」の集合体を作り出し、ウネリとなって大きな力を持ち始める。しかし皮肉なことに、その力は「個」が持つ感覚を否定し、そのウネリの一部として統合されることをひたすら迫り始める。そしてそのウネリの流れにしがみ付いていた幾人かの「個」は、消耗、或いは人間の資質が持つ「予め獲得されていた多様性」という遠心力によって振り落とされていく。

そしてそこに統合されることがなかった「個」や、そこから振り落とされた「個」達は、それによって見事「いらない個」としての転生を果たすこととなるのだ。

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