ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

残虐機関は魅了する

オアシスのノエル「もっと不況が悪化すればいいのに」(BARKS)

オアシスのノエル・ギャラガーが、現在、世界中で問題となっている金融危機はもう少し悪化してもいいと話した。不況のときこそ、いい音楽が生まれると考えているからだ。

ノエルは『That's Shanghai』のインタヴューでこう話したという。「金融不安がもうちょっと悪化すればいいのにと思っている。少なくとも、俺ら、もう何枚かいいアルバムを作れるだろ」

オアシスが結成した1991年も英国は不況の真っ只中だった。そして『Definitely Maybe』という傑作が誕生した。「俺らがスタートした90年代初め、まだ保守党が政権を握ってて厳しいときだった。危機が訪れてるときっていうのはたいてい、音楽やファッション、それに政治なんかで最高のものが生まれるんだ」

オアシスに限って言えば、バンドを結成した当時といまでは彼らの経済状況も社会的地位も違うため、いくら世間が不況に陥りようが当時のハングリーさが戻ってくるとは思えないが、彼の説には一理ある。ノエルの言っていることとは少しニュアンスが違うが、ザ・キラーズも同時多発テロ事件の余波で仕事が見つからず、バンド活動に専念することができたと話していたことがある。

Ako Suzuki, London

不幸が足りない。「最高のもの」を生み出す為には、もっと人々の不安が、苦痛が必要なんだ!

不況は現代のドラッグなのかもしれないな、芸術家とやらにとっては。でも、いちいち不況が悪化するのを待つまでもなく、どうせならいっその事、今すぐにでも世の芸術家を名乗る者達を全て収容所にでも送って、様々な手段で以ってその人達に直接もっと大きな不安や苦痛を体験してもらった方が手っ取り早いんじゃないかなあ。そうしたら、きっとすっげえ良い作品が生み出されることになるんじゃないの。んで、それでも良いものを生み出せなかったら、その人は再び収容所送りにして、さらに念入りに不幸の根付けを行ってもらう。それでも尚良い作品を生み出せないような者は、…価値が無いから要らないや。日本的システムで追い込んで、出来るだけ誰にも迷惑掛けないような方法で自殺でもしてもらえばいいんじゃないの。良い作品を生み出すことが出来ない芸術家なんて邪魔なだけだもんね。

え?それは残酷過ぎるって?でも、「最高のもの」を生み出すために芸術家は存在しているのだから、仮にも芸術家を名乗るのであれば、それくらいのコストを払う覚悟くらいはしてもらわなくちゃね。ね?あなた達もそう思うでしょ?ギャラガーさん、Suzukiさん。
-------------------------------

経済人が「不況はチャンス」と言うように、精神論者が「抑圧が強い人間を育てる」と言うように、芸術家もまた「不幸が良い作品を生み出すのだ」と主張する。そして、「ほら、こんな不況にも拘らず大躍進を遂げた企業があるじゃないか」とか、「彼は人よりもずっと辛い目に遭い、それに耐え続けたからこそ、あれ程大きな成功を収めることが出来たのだ」とか、「彼の不幸な生い立ちと、不安定な社会情勢があったからこそ、これ程の名作が生み出されることとなったのだ」などと言い、それが恰も全ての者にとって普遍的な価値を持っているかのように述べ、人々に希望をもたらす。しかし、そうやって生み出された価値は、実際には特定個人にのみ有益なものでしかない。その特定個人に含まれない者にとっては、そんなものは何の価値も無い。むしろ迷惑で有害なものだったりすることすら珍しくない。

不幸には、不幸に打ち勝つことが出来る様な大きな価値(希望)の創造が必要だ。
↓             ↑
大きな価値を生み出す為にはさらなる不幸が必要だ。

不幸が生み出す大躍進がそうであるように、芸術もまた、こういった残虐機関の一部として機能している面がある。しかしながら、芸術には社会批判の可能性が秘められていると主張する人達もいる。そしてそれらは体制に屈しない力を持っていると。まあ確かに、それらの持つ価値が個人的なものとして留まっている間は、それが体制批判として機能し得る場合もある。しかし、それが集団にとって価値あるものとなった時、それは既に体制側に取り込まれてしまっている。芸術はいとも容易く体制側に寝返るのだ。果たしてそんなものに社会批判の可能性があると言えるのか。自分はそうは思わない。だから、芸術が社会に対する批判的可能性を持っているなんて希望は、自分は一切信じない※1。所詮芸術なんて、人間秩序の荒波の中で個々人が持つ資質が滲み出ることによって出来た吹き出物みたいなものでしかないのだ。そしてそれに価値を見出すことが出来るか否かは、其々の個人の問題。

少なくとも自分にとっては、『Definitely Maybe』とやらよりも、何百億もする絵画(の持つ芸術的価値)よりも、不幸によって生み出された唯一無二のそれらよりも、幾ら質素でありふれたものであっても、屋根や布団やコタツや風呂や食事の方が、そして平穏な日常の方が、余程大きな価値がありますよ、と。

---------------------
(追記) ※1 芸術に社会に対する批判的可能性が全く無いかの様な表現を用いたのはちょっと行き過ぎだったかもしれない。つまるところここでは、芸術の持つそういった機能が、時に実質的にそれが持っているものの内実とは余りにもかけ離れたものとして取り扱われてしまうことや、そのささやかな部分ばかりがクローズアップされ過ぎてしまうことのバランスの悪さに対する違和感を述べたかったということ。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/260-cb20b09e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。