ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「キッパリ割り切る」という生存戦略、「選択」という精神安定剤

無抵抗のガザ市民殺害 イスラエル兵証言次々、軍調査へ(asahi.com)

イスラエル軍が昨年12月から約3週間にわたってパレスチナ自治区ガザを攻撃した際に、無抵抗の市民を殺害したとする兵士の証言が相次ぎ、国内で波紋が広がっている。軍は19日、軍警察に「作戦上や道徳上の問題」について調べるよう命じたと発表した。

 地元紙によると、ガザから帰還した複数の兵士が2月、同僚らによる民間人殺害の実態を、入隊前に通っていた教育施設で証言。事態を重く見た施設の責任者が、軍上層部に「告発」したという。民間人殺害については、これまでもメディアや人権団体が住民の声として伝えてきたが、イスラエル兵の証言で明らかになるのは極めてまれだ。

 19日付ハアレツ紙は、ガザ攻撃に加わった歩兵分隊長の証言を掲載。小隊がパレスチナ人家族を家の外に出す際、「右側へ進め」と指示したが母子3人は理解せず左側に進んだため、狙撃兵に射殺された。小隊は、この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていたという。 (中略)

 ガザの「パレスチナ人権センター」が19日に発表した調査結果では、イスラエル軍によるガザ攻撃で1417人が死亡。そのうち18歳未満の子ども313人を含む926人が一般住民だった。国連関連施設や避難所になっていた学校も攻撃を受け、国連は独自の調査委員会を設置すると発表している。

敵か見方か、善か悪か、正か誤か、必要か不必要か、社会的か非社会的かをキッパリと割り切ることが出来れば楽なんだろうけど。それが出来れば、思考と感覚を整理し、効率よくそのリソースを使用することができる。

もっと言えば、何らかの方法でそれらをキッパリと割り切ることが出来るものであるかのような錯誤状態を作り出すことが出来るからこそ、その者は己の生き残りの可能性を高めることが出来るという面があるのではないか。分り易い例で言えば、「戦場」で逡巡を抱えていればその者はそれだけ命を失うことになる可能性が高くなることだろう。「敵だから殺しても仕方が無いんだ」「こいつらは世界にとって不必要な存在なんだ」「社会の為、人々の為に正義を断行しているだけだ」「俺は軍規(法律)に従うだけだ」と割り切ることが出来るからこそ、その者は己の生存率を高めることが出来る。
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しかし生存競争は所謂「戦場」だけで行われているわけではない。平穏な日常にもまたそれは存在している。パレスチナでは昨年末からのイスラエルの攻撃で千四百人以上もの人間が殺害されたようだが、「戦場」ではないはずのこの国でも、毎年何万人もの人間が社会にとって「不必要な者」として生存という枠組みから追い落とされている。やはりアメリカでも、イラクやアフガニスタンで命を落とした者よりも自殺という形で命を落としていく者の方が圧倒的に多い。

まあそれはただ現実の一部を幾つか抜き出してきて並べてみただけで、それを以ってして「だから「戦場」よりも平穏な日常の方が危険だ」などと言う事は出来ないが、そもそも地球上では常に何処かが「戦場」と化しているのが常である以上、「戦場」が存在することも含めて「この世界の日常」と言う事は出来るだろう(世界中から「戦場」が消え去ることの方が非日常的)。そして先天的・後天的に恵まれた環境を獲得出来た者は、「戦地」に身を置く必要がない。つまり「戦地」に身を置く者の多くは、まず「この世界の日常」に於ける先天的・後天的競争に敗れ、それによって生活の為、或いは他に行く当てがない為、「日常の一部」としてそこに身を置いている(中には己の誇りや生き甲斐を見つける為に態々そこへと向かう者もいるかもしれないが)。そしてせっかくそこから生き延びて帰ってきても、他に行く当てを見つけることが出来たとしても、または日常の「戦場」化から解放されても、その社会で上手くやっていくことが出来なければ、どのみちその者には生存枠から脱落せざるを得ない運命が待ち受けている。結局、生存競争という戦いから逃れることが出来る場所なんてどこにもないわけだ。

だからこそ「キッパリ割り切る」ことは非常に重要な手段となる。「戦場」という場所だけでなく、平穏な日常という場に於いても。自分の存在は社会にとって必要だから、生き延びようとすることは善い事だから、「善良な市民」の安全を確保しなければならないから、ルールや風習に従うのは正しいこととされているから、など様々な理由で以ってモラルやルールや文化が抱える矛盾を乗り越え、そうやって罪悪感や逡巡を取り払うことが出来るからこそ、有効にリソースを用いることが出来るからこそ、その者はその社会に於ける恵まれた環境を入手し易くなる。必要なものとそうでないものをハッキリと区別することが出来るからこそ、「不必要なもの」を平気で切り捨てることが出来る。それが上手く出来ない者は己の安全を保つことが難しくなり、平穏な日常に身を置きながらにして命を落とす確率が高まってしまう。或いは実際に「戦場」へと身を置かなければならないような状況へと追い込まれてしまう。

 ***

しかしこの生存戦略にも弱点はある。というのも、割り切りをつける為に参照とすべき基準は幾つも存在していて、それらは常に競合しているからだ。また、同じ基準でも其々がそれを全く違った解釈をしてしまうという問題もあれば、その基準に表の意味と裏の意味が存在する場合だってある。

例えば冒頭に引用した記事の例で言えば、状況からみて狙撃兵は「支持に従わなかった者は即座に射殺せよ」と上から支持されていたのだろう。そして「この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていた」以上、狙撃兵がその命令に従わなければ、その行為はそこでは「作戦上や道徳上」問題のある行為として取り扱われる可能性があったはずだ。そしてもしその支持に従わなかったことで味方の安全を脅かすような結果を招いてしまえば、その者はその責任を厳しく問われることとなっただろう。ところが命令に忠実なその行為は、別の基準では「作戦上や道徳上の問題」として捉えられるものでもあった。「幾らなんでもそれはやり過ぎだろ。それくらい“常識”で考えれば分かるはずだ」と。だが、その“常識”という基準もまた時と場所でまちまちであり、その解釈の仕方も個々人によって全くといってよいほど変わってくるものなのだ。

まあ実際にこの行為を行った狙撃兵やそれを告発した兵士が今後それによってどういう人生を歩んでいくことになるのかは分からないが、キッパリと割り切った行動を取るにしても、その割り切りの基準とする規範の選び間違い、読み間違い、或いは其々の規範の齟齬によって、その行為が他の規範で以って糾弾されることになり、それによって人生を棒に振ってしまうような者が出てくる可能性があることは容易に想像がつくだろう。リンチ事件や企業・行政の不正行為なんかにしても、コミュニティーの内と外で規範に齟齬があり、内側の規範に忠実であり過ぎたため生じているわけだし。或いは、割り切って「告発」を行ったがために棘の道を歩いて行かなければならなくなった者だっていることだろう。

つまりこの戦術を取る場合、割り切って規範の矛盾を乗り越える前に、先ずはそのためにどの規範を参照すべきなのかという逡巡を乗り越え、その時々において適切な基準を見つけ出してそれを「選択」していかなければならないのだが、しかし問題なのは、どの基準を「選択」すれば本当に良い結果になるのかということは、予想することは出来ても、誰も知り得ることは出来ないということだ。また、良いと思った方向で割り切ることが出来る感覚を持ち合わせていない場合もあれば、「競合の罠」に引っかかって割り切りが糾弾されてしまうこともある。選んだ基準が無難なものであっても、それを読み違えてしまうという問題もある。そもそもその者にとって「最善の選択」なんて存在していないかもしれない。

とすれば結局のところ、どの基準によって割り切り、割り切らないでいるかということは、それが上手く行けば「良い選択をした」と認識し、悪い結果になれば「悪い選択をした」と認識しているだけの話なんじゃないのか。だが現実は個人の意思による「選択」なんかではコントロール出来ないからこそ恐ろしいのであり、未来は知り得ないからこそ不安なのだ。だから後から事の顛末に説明をつけることで、恰も「選択」で未来をコントロールすることが可能であるかのように錯覚しようとする。あの時(アイツ)はああして失敗したけど、次(自分)は違う「選択」をするからから大丈夫だ、と。そう認識することで現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安から逃れ、それ以外の感覚や思考にリソースを割くことが出来る。そういう機能が人間には備わっている。そしてその機能は「キッパリと割り切る」ベクトルへと導く。

しかし中にはキッパリと割り切った結果失敗した者や、感覚的に割り切ることが出来ないが故に泥沼に嵌っていく者もいる。そしてそういった者達の存在は、「選択」と「キッパリと割り切る」という決断で以って少なくとも最低限のまっとうな人生を勝ち取ることが出来ると信じている者達からすれば、現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安そのものとなる。だからこそ割り切りが持つ現実への制御性や「選択」の魔法を信じている者達は、「その結果は自分の意思で選択したジコセキンだろ!」「決断の意思を放棄したからだ」と言って割り切りの失敗者や不能者が“そういう存在”であることを否定し、単なる「選択」の失敗者、「決断」の意思を持たない者と認定することで不安を振り払おうとする。さながら悪霊(不可知・不制御性)を追い払うためのお経でも唱えるかのように。或いは「幽霊(「選択」と「割り切り」でまっとうな人生を獲得出来ない者)なんて本当はいないんだ!」と虚勢を張って恐怖を紛らわそうとする者のように。

 ***

いずれにせよ、「戦場」とはそもそも「生存競争という日常」の一部であり、その(捉えられ方の)一形態に過ぎない。そして戦場は「戦場」にだけ存在しているわけでもない。我々は何処にいようとも、現実が持つ不可知・不制御性を介した戦いから逃れることは出来ない。勿論、便宜上「戦場」と戦場を分類することは可能だが、実際にはそれらの間に予めハッキリとした境界線が存在しているわけではない。もしこの二つの間にハッキリとした境界線を引くことが可能であり、其々を全く別個のものであると「キッパリと割り切る」ことが出来るとするならば、それはつまり…そういうことなのだ。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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