ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「日本人」という「部外者」~「生きさせろ」の滑稽さについて

「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」 - Freezing Point

「なんらかの形で組織暴力を味方につけなければ、この日本社会では生き延びられないのではないか」と疑い始めている。


これは別に日本に限ったことではないだろう。

ただここでも書いたように、西洋的文化ではまず共通の社会理念を設定し、その理念によって個人の権利が保証され、それを参照することで社会の形が決定されていくのに対し、日本的文化ではまず個々人の感覚があって、その感覚の趨勢によって(理念の合意という段階を踏まず)その都度その社会がどうあるべきかが決定/更新されていく。つまり、西洋的文化では集団主義から個人主義が生じているのに対し、日本では(感覚的)個人主義から副次的に集団主義が生じている。

そしてこの両者でどのような違いが出てくるかと言えば、個人が自身の生活環境を整えようとする時、前者の文化では其々は“社会という組織の一員”であることを前提とし、その中でいかに上手く組織暴力を利用するかという能力が必要となるのに対し、後者の文化では先ず何らかの既存の組織や集団に取り入ったり、或いは新たなそれを結成したりするというところから始めなければならない。そしてそうやって自身を「(日本的な意味で)社会化」するという一つ目の課題をクリアすることによって、ようやく「次の段階」――(一般的意味での)働く/働かないはこの段階に於ける問題――へと辿りつくことが出来る。逆に言えば、その一つ目の課題をクリアすることが出来ない人間はどうやっても次の段階には辿り着けないようになっている。

つまり、日本に於ける個人とは基本的に「社会の部外者」という位置づけなのだ。だから(本当は「社会の部外者」なんてものは存在しないのに)「社会人」などという奇妙な肩書き/ステータス性が生まれてくることにもなる。そして「部外者」同士の集まりの中で自身の生活環境を整えようとすれば、結果として「組織暴力を味方につけなければ、この日本社会では生き延びられない」ということになる。例えば行政に何かを訴えるにしても、個人でそれを行えば(それが例えシステム的に正当な主張であっても)門前払いされてしまうことも少なくない。よってその為にはまず何らかの組織を形成して行政の末端部分に組織的な圧力を掛けるか、もしくは「世論」という集団の援護を受ける必要が出てくる。「組織には組織を」というわけだ。

  ***

しかし、一度「社会化」という課題をクリアしたからといって安心は出来ない。幾ら「社会人」という肩書きを手に入れることが出来ても、其々は本来的にはやはり「社会の部外者」なので、「非社会人」へと逆戻りする可能性は常につきまとう。その上、一度「非社会化」すると再び「社会化」するのはより一層困難になるようなシステムや文化が根付いている。日本に於いて、何らかの集団の一員であることや、或いはその集団と結んでいる関係性に大きな問題があることを認識していながら、頑なにそれを維持し続けようとする人が多いのにはこういった事情があるからだ。特に一つ目の課題をクリアする(つまり、自身を他者に売り込むなどして集団に取り入る)のが苦手な者は、最後の最後まで追い詰められでもしないと中々一度獲得した社会的関係性を手放すことは出来ないだろう。何故なら、一度そこから抜け出せばもう二度と「(日本的意味での)社会」へと戻ってこれない可能性があるからだ(自分が学校にしがみ続けたのもこれが理由)。そして結局そこから離れられず、取り返しのつかないような状況を招いてしまう者もいる。

困窮者が憲法という理念を持ち出してきて「生きさせろ」と訴えることがどこか虚しく、場合によってはそれが滑稽にすら見えてしまうのもまたこういったことが関係している。というのも、日本に於ける憲法はまだ実際には共通の理念としての合意にすら至っていないものだからだ。それどころか、そもそもその共通の理念を設置するための集団すら生まれていない。日本の文化では、同じ国籍を持っているとか同じ国に住んでいるというだけでは同胞としての条件は満たされない。これは「同じ社会人同士」にも当て嵌まる。其々は何らかの組織/集団とある一定の関係を結ぶことによってようやく「社会の部外者」というレッテルを取り払うことができ、それによって“副次的に”「社会人」という同胞もどきの肩書きを手にしているに過ぎない。

重要なのは、それが“副次的”なものであるというところだ。「社会人」というの肩書きは、あくまで一時的に「部外者」同士が寄り合いを作ったり、或いはそれらと(少なくとも表面上は)良好な関係性を築いているということを表しているだけであって、その者が他者と「同じ社会の一員」であるということを保証しているわけではない。

例えば、「~は社会に揉まれていないから」などと言う決まり文句がある。面白いことに、こういった言葉は所謂「社会人」に対しても向けられる。「社会人」でありながら、「社会」の中に身を置きながら(そもそも、社会ではない場所なんて無い筈なのだが、それはともかく…)「社会に揉まれていない」状態が存在するのだと。下手をすれば、同じ会社で働く同僚に対してさえ、こういった台詞が投げつけられることもあるだろう。

では何故この様なことが起きるのかと言えば、其々は同じ「社会人」でありながら、或いは同じ場所に身を置きながらも、他者とは別の「社会」に身を置いているという認識があるからだろう。日本人が一般的に用いる「社会」という言葉は、実際に存在する具体的な環境や秩序というよりは、むしろ宗教的概念に近い。そしてそれはあくまで個人のものなのだ。よって同じ「社会人」であっても、其々は個々人が感覚的に思い描く「別の社会」に身を置いているに過ぎず、当然それだけでは同胞という条件は満たされない。「日本人」などという同胞はもとより存在しないのだ。日本社会がいつも行き当たりばったりで大局観が全く無く、先を見据えた長期に渡った計画を立てることが出来ないのは、所詮「部外者」同士の集まりでしかないからだろう。日本に於いてよく見られる、何の意味や理屈があるのかもよく分からない全体主義的儀式や風潮も、元々「部外者」同士の集まりであるからこそ抱く空中分解の不安を払拭し、誤魔化そうとするためのものなのではないか。

だから「同じ社会の一員」ですらないその「部外者」達が、自身が合意したつもりもない理念を掲げて「生きさせろ」と言ったところで、周りの者は「はぁ?何言ってるの?」としかならない。この集合体は、所詮組織暴力を上手く味方につけなければ生きていくことが出来ないただの「部外者」同士の集まりでしかないわけだから、むしろそういう者達は、周りから見れば自身とトレードオフ関係にある敵対者であると認識してしまう可能性の方が高いことだろう。同胞であるならば危機に瀕しているその者達を見捨てるのは非道ということになるが、元々「部外者」、いやむしろ敵かもしれないという者であれば、見捨てても当然ということになる。もしくは敵とまでは認識せずとも、困窮者を「あの人達は努力や工夫、危機感が足りなかったからああなったんだ」と徹底的に他者化した方が希望が持てる。というのも、困窮者を同胞化するということは、個人が力を出し尽くしてもどうにもならない状況があるという現実を自身のものとして取り入れ、それと対峙することでもあるからだ。勿論、他者のそういった状況を自身の主義主張に取り入れ、それによって変化の希望を抱くという関わり方もあるが、多くの者にとってにはその取り入れ/対峙は、恐怖と絶望しかもたらさないことだろう。

要するに「生きさせろ」の滑稽さは、その敵、或いは徹底した断絶関係にある他者が、まるでお互いがさも同胞でもあるかの様に振舞うことから生まれる滑稽さなのだ。そして、「どのような事情や理屈があろうとも、この国で組織暴力を味方につけることが出来なくなったらそれで終わりだよね」という個人が本来的に備え持っている「社会の部外者」としての認識が、その訴えに何とも言えない虚しさを運んでくるのである。

 ***

で、こういった日本特有の個人主義は、そのまま日本人の宗教的特色にも当て嵌まるものである、という所まで書きたかったのだが、気力が尽きたのでやめ。でも少しだけ書いておくと、例えばキリスト教やイスラム教では解釈は異なっても一応聖書やコーランのような共通の参照物(システム的に言えばこれが理念に当たる)があるが、日本ではそれが一人一人の感覚の中にあるので、「何々教」といった形で宗教が顕在化し難く、そしてその感覚の趨勢が「社会」「普通」「世間」「常識」などという原典の存在しない曖昧な参照物を形成し、それによって人々がまとまりを得たり反発したり、或いは布教活動をしたりしているという…。

いやほんと、これほど強い宗教性が根付いていながら全くその自覚がないという文化は、世界中探しても中々無いんじゃないだろうか。それで、自身のそれに全く自覚が無いものだから、「宗教はこれまで数え切れないほど多くの犠牲者を生んできたのだから、そんなものはこの世から消し去るべきだ」とまで言ってしまう人が出てきたりして…。いや、それこそが他者の信仰の自由を認めない最も危険な排他的宗教態度に他ならないのだが…。

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ひきこもりという役割を引き受け
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