ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「使えねーカード」としての自分を肯定できるか?

麻生首相「対北、安保理決議が必要」=敵基地攻撃は自衛の範囲-参院予算委(時事ドットコム)

 麻生太郎首相は28日午前の参院予算委員会で、北朝鮮の核実験への対応について「国連安全保障理事会における決議として極めてきついものが迅速に出されることが一番大きな圧力になり得る」と述べ、追加制裁を含む新たな決議の採択が必要との考えを強調した。民主党の犬塚直史氏への答弁。
 首相はまた、敵基地攻撃能力の保有に関し「他に手段がないと認められるとき、敵の誘導弾の基地をたたくのは法理的には自衛の範囲に含まれ可能だ」との見解を重ねて示し、「武力攻撃に着手していない時点での先制攻撃とは違う」と述べた。


日本全土が報復圏内と北朝鮮警告 敵基地攻撃能力論に反発(47news)

 【北京29日共同】北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は29日、自民党内で敵基地攻撃能力保有論が取り上げられ、麻生太郎首相が法的な可能性に言及していることなどを「再侵略の野心の表れ」と非難、「日本が再侵略戦争を起こすなら、全土が報復打撃の圏内となる」と警告する論評を掲載した。朝鮮中央通信が伝えた。

 論評はまた、「日本の主要都市である東京、大阪、横浜、名古屋と京都には、日本の人口の3分の1以上が住み、工業の基幹部分が集中している」とした上で、「強力な反撃が行われれば、日本は修羅場になるだろう」と強調した。


日本の国民も北朝鮮の国民も、他国との戦争によって人生をぶち壊されるよりも、同国人に社会的に圧殺される可能性の方が圧倒的に高いことだけは確かなんだけど、それは置いておくとして…。

<主張1>他に手段がない※1と認められるとき→敵の誘導弾の基地をたたく
<主張2>侵略戦争を起こすなら→敵国の全土を報復打撃の対象とする

これはどちらがよりマトモな主張なのか、どちらもマトモなものなのか。それとも、どちらも駄目なものなのか。

この二つの主張の応酬をそれ単独で見せられたら、多くの者は「どちらも大して変わらんな」と思うのだろうが、ここに“日本(自国)”とか“北朝鮮(敵国)”がくっつくとそれを評価する目もまた変容することになる。つまり、同じ様な主張でもそれを誰が言ったか、そしてそれを何者として受け取るのか、ということで全くその主張に対する評価や印象が異なってくるという。いや実際、北朝鮮の核武装を非難した同じ口で日本も北朝鮮を真似て核武装すべきだと主張する頓珍漢な人達が結構いるように、多くの場合、内容よりもむしろそちらの方が重視されているんじゃないか。
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例えば、物理的暴力によって人々を教育、矯正し、それによってより良い社会を作っていこう、ということを保守派が言えばそれは「体罰」になるし、革新派が言えばそれは「暴力革命・暴力による社会批判(テロ)」になる。勿論、其々が理想とする社会は違うだろうが、この場合体罰を良しとする保守派と暴力による社会批判を良しとする革新派は、目的を達成するための方法論に於いてその意見が一致している。ところが、体罰を良しとする保守派は、暴力革命的な方法論自体を「けしからん」と言って批判する。一方、暴力を手段として用いた社会批判を行った者が過去に体罰を受けていた時、その者はそれに対してどのような意見を持つだろうか。「体罰という方法自体は正しかったが、それが目指す方向性が間違っていた」とは恐らく言わないように思う。

つまりこれは、――実際には全く暴力的でない社会なんてものは存在しない、ということはあるにしても、そのベクトルとして――その方法論が何とくっつくかによって、その方法論自体の評価までもが180度変わってしまう可能性があることを意味する。そしてこういった、理念や主張の一貫性・整合性を疎外した物事の捉え方が一般化しているのが現代社会なんじゃないか。

いつだったか『学校へ行こう』という番組で、駄目な女子高生を更正させるという様な企画があった。そこでその駄目な女子高生達が勉強を教えてもらうという場面があったのだが、その時、出題された問題に対して「聖徳太子(だったかどうかはよく覚えていないが、確か歴史上の有名な人物の名)」と答えた女子高生が、それが間違いだったことに対し、「聖徳太子、使えねー」というリアクションを取ったのが非常に印象に残っている。それを見た時は、「何てナンセンスなコメントをするんだ」と思ったが、今考えてみるとあのリアクションというのは、現代人が持つ根源的な感覚を実に的確に表していたように思う。

つまり、あらゆる事物をその時自分がそれを手段として、有効なカードとして「使えるか使えないか(利用できるかできないか)――実際には“という感覚”――」によってその評価を下すという、超短期的実利主義というか、全てが「使えるか使えないか」で判断される社会というか…。結局、物事の内容や存在の必然性なんて案外どうでもいいんじゃないかと。よく「柔軟性が必要」などと言われるが、そこで言われる柔軟性というのは、実は理念や主張の一貫性、整合性にこだわらない、という内実を持っているのではないか。実際、それらにこだわり過ぎることは社会的に大きな足かせになる。

ただし、一方でそのような考え方(感じ方)を持つということは、一端実利面で失敗してしまうともはやその者には何の拠り所も無くなり、完全な根無し草になってしまうという危険性を抱えていかなければならないことも意味する。つまり、自分で自分をただの「使えねーカード」として評価せざるを得なくなる可能性が出てくる。その時、自分が散々その価値を否定してきた「使えねーカード」としての自分を肯定出来るかと言えば…それは極めて難しいように思う。



※1 恐らく、敵国が自国にミサイルを撃ち込むことを目的として動き出し、武力以外でそれを止めることが出来なくなった場合ということだろう。

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ひきこもりという役割を引き受け
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