ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

中の人は普通の市民

なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか[改題:プロレタリア型右翼]

いい加減こういう「B層」的な安易な分類やレッテル張りは止めた方がいいと思うんだけど。

以下はリンクした記事への直接的な批判ではないが、この手の分類化でそもそも疑問に思うのは、日本で人気がある政治家や芸能人の殆どは右翼的な思想の持ち主である(つまり特殊ではない)ことは明白なのに、何故右翼的な思想を持つことを取り分け特殊なものとして分類しようとするのかということ。いや実際、正直何を以って右翼というのか自分にはいまいちよく分からなかったりするが、右か左かと言えばそこで中心となっているのは間違いなく右側の人達だろう。それ以前に、日本の常識自体が既に右翼的じゃないか。本格的な左派政権が誕生したことなんて一度もないし。つまりそれが常識である以上、その思想傾向が一部の特殊な人達の力だけで形成され、維持されているとは到底考えられない。
---------------------

最も一般的なメディアであるテレビで近年多くの時間を割いて放映されている、情報バラエティーと言われるタイプの番組がある。主に昼から夕方にかけて放送されている民放のこういった時事ネタ雑談系番組のラインナップ(ここでは関西地方のもの)もまたご多分に漏れず右翼的だ。4月の番組改編で終了したテレビ朝日の『ムーブ!』なんかは2chまとめブログとやってることは殆ど変わらなかったし、今現在放映中の関西テレビの『アンカー』や読売テレビの『あさパラ』なんかもそれに近い。たかじんのアレは言うに及ばず。唯一毎日放送の『ちちんぷいぷい』が左派的な面を持ってはいるが、其々の話題に於いて最終的には「素朴な(保守的)感覚」で締めくくられることが多いように思う。『ミヤネ屋』や『ムーブ!』の後釜の番組は余り見たことがないのでよく分からないが、多分似たようなものだろう。では何故そういった番組作りが為されるのかと言えば、別にイデオロギー的なものを重んじた結果ではなく、そういった内容がより多くの人々にウケると作り手側が見ているからだろう。勿論、それは一部の特殊な人向けに作られているのではない。極一般的な、普通の人々がそれを見ることを想定して作られている。

言うまでも無く、別にマスコミに就職した高学歴・高収入の人達が普通の人々に右翼的な思想を植え付けようとしているわけではない。マスコミの仕事で最も重要なのは大衆やスポンサーへのご機嫌伺い(或いは、営業を続けるのに必要となる情報入手先やノウハウの確保と維持)。それが上手く行かなくなれば、廃業するしかなくなるわけだから。ましてや、スポンサー収入が激減しているテレビ業界がイデオロギーの植え付けなんかやっている余裕はない(勿論、元々特定のイデオロギーを持っている者達に向けて情報を発しているニッチなメディアも存在するだろうが)。そもそも、マスコミは大衆に影響を与えることは出来るが、その動きを意のままにコントロールすることまでは出来ない。主導権、最終決定権はあくまで普通の市民という群集の側にある。

――所謂ネットウヨク的な活動を積極的に行っている人達はともかく――ネット上で右翼的な主張をしている人達の多くもまた、普通の人々だろう。一部の特殊な人達がそれをしていると思いたい気持は分かるが、残念ながら、ネットで巻き起こる右翼的主張は特殊なものでも何でもなく、それは極めて一般的で素朴な感覚から導き出された「普通のもの」であり、尚且つその主張を行っている者達は、普段ネットの外では極一般的な「普通の市民」として暮らしていることだろう。

重要なのは、そこで生み出される主張が幾ら右翼的な装いをしていたとしても、それが極一般的な「素朴な感覚」から導き出されたものである以上、右翼/左翼といった括りでそれを捉えることは出来ないということ。何故なら、そこには始めからそれらが本来兼ね備えているはずの確固たる理念なんて存在しないのだから。そしてそうやって生み出される主張は、それが「普通」であり「素朴」であるが故に大きな力を持つ。民主主義から「最低ラインを死守する」という根幹部分(理念)を取り払った純粋な多数決を絶対視するような価値観が強く根付いているような社会では特に。

つまり、現在の日本社会を特徴づけるのは右傾化でも特殊な人間の出現でもなく、それは理念の不在であり、今まで余り表には顔を出さなかった普通の人々が持つ「素朴な感覚」の噴出であり、そしてその感覚が導き出す主張が「普通」を後ろ盾として何時の間にか正当化されてしまうという、そういう状況だろう。注目すべきは「特殊」ではなく「普通」の方なのだ。例えば「アカデミズムという知的権威」にしても、大衆からそっぽ向かれてしまえばそんなものは権威でもなんでもなくなる。そもそも、現代社会に於いて何が権威としての力を持つかということを決定するのは普通の人々の普通の感覚なのだから。

 ***

そしてそういった(普通の人々から支持を得られるような特殊な技能・才能でも持っていない限り)普通でなければ生きていくのが難しいような環境が作り出されているが故の独特の息苦しさを持つのが昨今の日本社会。人々は皆、群集の中で皆と同じ様に「普通の市民」というプレデター・スーツを着用し、其々が其々を普通という規格からはみ出ていないかどうかを監視し合う。そこでもし剥き出しの個人としての姿を晒そうものなら、周りから一斉に蔑まされたり糾弾されたりする。その中で上手くやっていくため、其々はそのスーツから逸脱しないように自分自身の感覚を監視し続け、それを普通に適合するように絶えず矯正し、最新の普通の感覚をそこに植えつけて行かなければならない。そしてその理性のコントロール下で、ちょっとだけそこから逸脱してみせたりすることで個性を演出したりする。

だが完全にそこから逸脱したり、そのスーツを失ってしまったらそこでその者の普通の市民としての人生はジ・エンドだ。一度そうなった者がもう一度それを獲得し、着用するのは極めて難しい(稀にそこから復帰する者もいるが、それはあくまでレアケースであり、それがレアであるが故にその物語性は魅力を湛え、そしてその魅力は精神論的プロパガンダに利用される)。だからその者はそれ以後、システム的・文化的疎外と普通の市民という群集が放つ眼差しの暴力に耐え続けなければならない。問題なのは、普通の市民からの脱落者は、他人(外部)からだけでなく、今現在の自分の土台となっている過去の自分や、普通であらなければならないように矯正し続けてきた己の感覚からも蔑まれ、内部からも蝕まれてしまうということだ。だから日本ではやたらと自殺が多くなる。

一方、普通を維持し続けることが出来ている人達はその脱落者を蔑み、嘲笑いながら、自分がそうならないように気を引き締める。自分もまたああなるのではないか、という恐怖感を抱くと同時に、最大限の努力と危機感を堅持している自分はああなるはずはない、という精神論で精神的安定を保つ。そして「普通の市民であり続けているという事実」で以って己の精神的強靭さや正しさを確認し、それによって自分を愛しむ。これが普通の市民の普通の生き方。右翼的な装いをした主張もまた、こういった構造から生み出されているものの一つなのだから、特殊な何かを観察することでその原因を探ろうとしたところで、それは的外れなものにしかならないだろう。

というか、あらゆる問題に於ける一方の当事者でありコインの片面であるところの普通の市民の普通の営みの在り方に全く疑問を呈することなく、問題の責任だけでなくその原因や解決までもを「一部の特殊な人間の精神性」に求めようとするのは左翼も右翼も同じなわけで、そうである以上、自分からすれば左翼とか右翼とかという分類自体もまた本当にどうでもいいようなものにしか思えないのだが。

 ***

この話題で思い出したのは、4、5年前に見かけた幾つかの2ch批判サイトだ。それらのサイトによると、なんでも2chのあの猥雑さは、2chを盛り上げる為の一部の工作員とニート・ひきこもりや、精神疾患を持った者達によって支えられているのだそうな。だからそいつらを一掃すれば日本はまた以前の美しい状態を取り戻せる、と。今もまだこういった主張を信じ続けている人はいるのだろうか。もしいたとしたら、それは相当勘の鈍い人だろう。だが、多くの者がそういった主張が事実とは異なることを内心で知っていながら、敢えてそれを常識として受け入れている。

勿論、有り余る時間とエネルギーを存分に費やして2chで暴れ回っている頑張り屋さんの無職や精神疾患持ちもいるだろう。だがそれだけじゃ今の猥雑さを維持するのに物理的に到底間に合わないのは明白であり、つまるところ、2chで見られるえげつない書き込みの多くは、普通の学生や普通のサラリーマン、そして普通の主婦達の手によって為されている。というか、ネットの外、例えば学校なんかでは「キモい」とか「死ね」とか「殺す」とか言う言葉が普通に飛び交っているし、職場でも酷い罵倒を投げつけたり投げつけられたりすることは別に珍しいことではないはずだ。勿論、誹謗中傷で盛り上がったり、誰かの人格批判をしたりすることも。床屋では当たり前のように差別的発言が行き交い、井戸端会議では陰謀論が熱を増す。面接では「君、A型でしょう」などという血液型性格分類が持ち出され、そしてブック・オフに行くと、店員(どの店も基本ずっと私語をしている)や客が平気でビッチだのなんだの言っている。或いは、酒の席で語られる猥談や武勇伝をそのままmixiなんかで書こうものなら、停学や停職の一つや二つは覚悟しなければならないだろう。つまり、我々は普段何気なしにそれだけのことを言っているということだ。そしてこれこそが日本に於ける普通の日常であり、それが文字として書き付けられ、誰もが目にすることが出来るようになると2chのアレになる。要するに、日本人は清く正しく美しいという認識自体が誤りだったのだ。そしてその幻想がネットの登場によって崩壊すると、「(幻想であるところの)日本の伝統的美意識を破壊する犯人はだれだ!」という「魔女狩り」が行われるようになる。

しかし、残念ながら一部の特殊な人間だけでその猥雑さが作り出されているわけではない。多くの人々は既にそれを知っているだろう。だが、それでも尚「魔女」の存在は実しやかに囁かれ続け、普通の人々は敢えてその伝説を常識として受け入れる。何故そういうことになるのか。それは、それが常識とされている限り、普通の人々が2chで幾らえげつない書き込みを行っても、その責任は全て「普通でない属性を持った人達」が背負ってくれることになるからだ。それによって普通の人々は心置きなく2chで書き散らすことが出来る。ネットの外で課せられる、普通であらねばならぬことの息苦しさから思う存分逸脱出来る。そしてネットの外ではこう言うのだ。「いやあ酷いですね、2chの書き込みは。え、私?私がそんな酷い書き込みをするはずがないじゃないですか。だってほら、こうやって普通に働いていますから。普通に働いている人間がそんなことするわけがないでしょう」と。こういった機能を持つが故に、2chは重宝される――勿論、重宝される理由はそれだけではないだろうが。

一方で、本気で幻想にしがみ続ける人達もいる。「一部の特殊な人間を矯正・排除すれば多くの問題は解決するはずだ…」そういう幻想を信じることで、この硬直化した息苦しい社会の中で、変革の希望を抱く。偏見は希望、というやつだ。この両者が其々の思惑抱えたまま水面化で手を結ぶことで、「魔女」の噂はいつまでも木霊し続けることになる。そしてニート・ひきこもりだけでこの社会の動きを作っているとする説に無理があるとなってくれば、今度は、例えば低学歴・低所得という新しい「魔女」伝説が作り出されたりすると…。まあ今回のアレは不発に終わるとは思うが。

コメント

迷いと名前

> 日本で人気がある政治家や芸能人の殆どは右翼的な思想の持ち主である(つまり特殊ではない)ことは明白なのに

芸能人の数がゴマンとあることを考えると、「右翼的=>人気がある」というのは因果の説明として正しくないように思えた。むしろ、過激な主張をする人が目立つだけで、全体として観れば総数はあまりかわらんのではないか?

昔から、この名前(漢字)が増えたのはこの有名人の影響だという論理があるけれども、よく観てみれば、人気がある人であっても名前に反映されない人もいる。それに人気のある名前なのか人気のある「音」なのかの区別もあまり着けていないことが多い。つまり、これも条件に合致する目立つものがあると、人間はことごとく反例を無視してしまう傾向なのかもしれないのだ。

おもうに、一部の人間に(特にマイノリティーに)その特性を押し付けてしまうような論調というのは、そういう人間のヒューリスティックな解釈の問題点が見えているように思える。つまり、今に始まったわけじゃなさそうだ。

思想の芸能化

>過激な主張をする人が目立つだけで、全体として観れば総数はあまりかわらんのではないか?

純粋に数だけみれば、そうかもしれません(或いはどの地域に住んでいるかということでその印象が変わってくるということもあるでしょう。例えば大阪のローカル番組では、基本的にどのチャンネルをひねっても吉本芸人が出演していますが、特に吉本芸人、或いは落語家なんかはそういった過激な主張をする傾向が強いように思います)。とりわけ表立ってハッキリと明確にそれを主張する数は。とはいえ、結果として本来はそうではないようにも見える人達までもが、そういう主張にずるずると引きずられていくような傾向がありませんか?

例えばいじめなんかでは、その中心となっているのはせいぜい5,6人だったりします。しかし、最終的にはクラス全体がその5,6人に牽引されたり、その者達が作りだす状況を受け入れることで、そういう状況に対するクラス全体の実質的な合意が取り付けられることになります。この時、そういった状況は「少数の目立つ者達だけによって作られた」、或いは「そういった主張は本当に少数の者達だけのものだった」と言いきれるのか、という疑問があるわけです――勿論こういった考え方は、その中心人物達の責任を相対化して薄める為に用いられてしまうこともある(実際、「いじめを止めなかった者もいじめた者と同罪」と自ら言い切るいじめっ子もいた)ので、その点、責任とその状況を作り出した(多くの者が過激な主張をせずとも、それを受け入れた)背景との区別はハッキリとさせておく必要がありますが。

そしてそのように考えた時、やはりこの国の文化は元々偏りを持っていたようにしか思えないのです。なんせ、経済的にも文化的にも、そして常識の製造地としてもその中心となっている首都の首長に、芸能ルートから政治家になった「戸塚ヨットスクールを支援する会会長」を務めるような思想の持ち主を三選もさせてしまう国ですからね。こういった芸能界での知名度を利用しての政界進出や既存政治家のメディア戦略による飛躍(政治家の芸能人化)は、昨今益々加速しているようにも思えますが、そこで過激な主張によって名を上げた人は多いが、穏健な主張によって名を上げた人は余りいないでしょう。となれば、表に見せる体裁部分はともかく、多くの者が内心ではそういった過激な意見にこそ魅力を感じてしまうような感覚を総体として潜在的に持っているということではないでしょうか。少なくとそれは、特殊と言えるようなものではないはずだ、と。

>人気がある人であっても名前に反映されない人もいる。

勿論、そこは分けて考えるということもあるでしょうし、人気のある芸能人の思想傾向だけで全体のそれを測るわけにはいかないでしょう。とはいえ、昨今では事件・事故や社会問題が芸能的に用いられているのがテレビ業界の流行であり、そしてそこで作り出された流れがそのまま政治にも反映されしまうようなところがあるので、そこらへんは実際分けることが難しくなってきているのではないかと。

>ヒューリスティックな解釈の問題点が見えているように思える。つまり、今に始まったわけじゃなさそうだ。

人間は自らの感覚によって捉えた特徴を利用し、物事を分類/ラベリングすることで認識の整理をしていくというところがありますから、そういう意味では元々差別的な生き物といってもいいかもしれません。実際、私自身も過去の反省からこういう意見を書いているというところもありますから。まあこういった問題は、今までも、そしてこれからもずっと付き合っていかなければならないものでしょうね。

なるほど,石原新太郎らしいといえばらしい

> 特に吉本芸人、或いは落語家なんかはそういった過激な主張をする傾向が強いように思います

ここらへんは,大阪在住の人でないとわからない事情ですね.アメリカ人のテレビ司会者とかあの類の人のように,攻撃的な態度を取る事でつかの間の注目を集める事ができますからそういうことかもしれません.このあたり思想の「芸能化」という表題はなかなか面白い点を突いていますね.

「笑い」の賄賂性と恫喝性

「攻撃的な態度」というのも勿論ありますが、基本的には周りの者が盛り上がるようなネタを提供することで求心力を保つといった感じですね。そしてネタとして扱われ受け入れられた社会問題は、何時の間にかその内容がマジなものとしても受け入れられていくことになる。

一番分り易い「虐め」を例にとってその過程を説明してみると、それが行われる時、対象はただ攻撃されるというより、笑い者(ネタ)にされるという方法によって虐められることになります。尚且つそれによる盛り上がりや笑いは周りの者達に提供され、それによってそれを受け取った者と虐めを主導した者と間には共犯関係が成立し、一度でもそれを受け取った者はその状況に異を唱えるのが難しくなる(「お前だって一緒に笑ってたクセに」)。つまり、盛り上がりや笑いの授受はある種の賄賂性を持っているということです。そしてそれは同時に、下手を打てば今度は自分がネタにされるのではないか、という恫喝としても機能する。

其々のコミュニティには必ずある種の“ノリ”というか暗黙のルールのようなものが存在しますが、こういった構図は、その一部として予め潜在的に組み込まれています。そして何らかの芸によって盛り上がりや笑いを取ろうとすれば、当然何らかの対象をネタとして扱うことなしにそれを成し遂げることは難しいから、自ずとそういった構図を浮き上がらせ易くなる。そして一端回り出したその“ノリ”をせき止めようものなら(例えば周りの者をシラケさせるような主張)、その者は社会不適応者というレッテルを張られかねないから、なかなかそれは出来ない。もしそこに自分の居場所を見つけようとすれば、そういった環境に順応していく(若しくは、自分がそのコミュニティで主導権を取るか)しかない。そして始めは体裁上その“ノリ”に順ずるようなフリをしていただけでも、そのうちそれが社会的成功体験と結びつくことによってマジになっていく。

一気飲みゲーム暴走、被害者深酔い…京教大集団準強姦(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090607-OYO1T00334.htm?from=main1

これなんかも、そういった“ノリ”が暴走した結果でしょうね。多分、加害者達は本気で不条理感を感じていると思いますよ。ただ普通のことをしていただけなのに、って。

まあ、芸能というのは何も一部の人達だけに限られた特殊なものでもなんでもなく、それは実のところコミュニケーション技能であり、社会との関わり合いそのものだから、人間が社会という逃げ場所のない監獄に身を置いている以上、むしろそこでの“ノリ”と思想を切り離して考えるということの方が難しいのです。事件・事故・社会問題が積極的にネタとして用いられるような環境では尚更のこと。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/290-4bd8c1f0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。