ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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中央集権化する地方

反復学習やらせない市町村長、落選させて…橋下知事(読売新聞)

 大阪府の橋下徹知事は23日、府の教育改革の一環として府内の公立小中学校に実施を働きかけている漢字の読み書きや計算などの反復学習を巡り、「きちんとやっている学校が少ない。(反復学習を)やった市町村とやらないところをオープンにする。やらないところの市町村長は次の選挙で落としてほしい。これが政治、地方分権だ」などと記者団に述べた。

これが噂の地方分権?そんな馬鹿な。其々の市町村や学校、個人に決定権を移譲し、それによって現場の自主性・独自性を高めようとすることこそが、地方分権の根本にある理念に合致する手法のはずだ。都道府県の首長に絶対的な権限を与え、その意向に異を唱える者達を要職から排除していくというのは完全にその理念に逆行するものであり、それこそ中央集権型の恐怖政治と言えるだろう。
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ここでは「地方分権」という単語が地方内部の中央集権化を推し進めるための大儀として用いられるという、何とも奇妙な逆転現象が生じている。そしてまるで魂(理念)を失ったゾンビの如く、裏返った「地方分権」が日本中を徘徊し、着々と地方の中央集権化を実現させるための仲間を増やし続けているのが現在の状況。この逆転現象(ゾンビ化)に歯止めをかけるための目立った動きや指摘はいまだ見られない。

とはいえ少し視点を広げてみれば、この現象は必ずしも「奇妙なこと」であるとも言い切れない要素を持っているようにも思う。

例えば「ヤバい」というのは良い意味だろうか、悪い意味だろうか?答えはそれが使われる状況による。「格好良い」という表現もまた、場合によっては本来の意味に反し、相手の容姿や振る舞いをからかうためのものとして用いられることがある。こきおろしの王様である「馬鹿」という単語でさえ、一種の褒め言葉として用いられることも珍しくない。かつて良いイメージで用いられていた「ゆとり」という単語は、今や完全に誹謗語だ。そして六本木は「ギロッポン」に、ジャズは「ズージャ」になる。いや、これは違うか。まあそれはともかく、このように言葉の意味はどんどん表と裏が入れ替わっていくものなのだ。同じ様に、昨今は「中央集権」の意味で「地方分権」という単語を用いるのがトレンディというわけだ。全く、言葉(大儀)の持つ意味(理念)はかくも簡単に変容してしまうものなのだな、と再確認した次第。

コメント

自治組織

おそらく,知事は「国家行政vs地方行政」の視点なので,国家集権か地方首長集権かという構図で捉えているのでしょう.まあそれはそれで間違いとは言い切れない(市町村も独自に「これが地方分権だ」と反論できるから)ですが,地方分権というものを法律上の規定で議論せずに(法律家なのに・・・)人目を引く言動で注意をそらすあたりがむしろ気になります.いっそのこと,権限と責任(検証・結果責任含む)をハッキリさせればよいのになぁ.私は教育であろうと権限を集中すべきだと思うけど,その責任をすべて負うくらいの考えが欲しいですね.「予算を削ったので結果が出ませんでした」とはいえなくなるわけで.どうも組織のあり方に関して議論する事に,日本の意識は及び腰になる傾向があります.まあね,権限は欲しいけど責任は取りたくないし,金は払いたくないのが人間のサガか.

アメリカなどの地方自治首長って絶大な権限もっていまして,例えばニューヨーク市長なんかを見てもらえれば分かりますが,自治警察から教育から指摘財産の没収にいたるまで予算・政策全般にそれこそ日本人には信じがたいほどの絶大な権限をもっています.教育も警察も自前で予算を用意するわけで,当然問題が起きれば市長のクビが飛ぶ可能性が合って,良くも悪くもア☆メーリカンな考え方です.ニューヨーク前市長なんかの評価をみるとこのあたりのドライな考え方がわかります.

「地方分権=地方の中央集権化」ではない/教育の弊害

>おそらく,知事は「国家行政vs地方行政」の視点なので

始めから地方首長集権という表現を使ってくれれば分り易いんですけどね。「これが政治、地方首長集権だ」と。でないと「地方分権」は「中央集権」の対義語なので、中央集権体制へのカウンターとしてのイメージが付加され、非常に紛らわしい。彼の主張だと国家行政へのカウンターには成り得ても、中央集権体制へのカウンターには成り得ないわけですから。まあ、中央集権体制と中央集権(=国家集権)は違う、ということなのかもしれませんが。

しかし、だとしても引用した記事での対立構図はあくまで「市町村vs府知事」なんですよね。対立する相手が文科省だったならば「国家行政vs地方行政」の構図も成立しますが。つまり、ここでは国家行政に対して権限をよこせ(地方分権化)と言っているわけではなく、市町村に従えと言っている(中央集権化)わけであり、その文脈で態々地方分権という言葉を持ち出すのはやはり「間違い」なんじゃないかと。

>市町村も独自に「これが地方分権だ」と反論できるから

この反論にしてみても、まず前提として中央集権体制があり、その権限を誰が握るかという争いでしかないのなら、そこで地方分権という概念を“大儀的に”用いるべきではないでしょう。単に、自分こそがこの地域に於ける中央集権的最高権を握るに相応しい人間だと主張すればいいのであって。そういう考えもあって、本文では「其々の市町村や学校、個人に」としたわけです。

>法律上の規定で議論せずに

例の懲戒請求扇動騒動裁判でのやり取りなんかを見てみても、小泉元首相の「自民党をぶっ壊す」じゃないですが、「法律(ルール)をぶっ壊す」みたいな主張をしていましたからねえ。ただ注意しておかなければならないのは、単に具体的な法規定を最高位の判断基準とするのなら、例えば今の北朝鮮の状況なんかもなんら問題の無いものとして認めなければならないということです。北朝鮮ではああいった状況が合法的に作り出されているわけですから。だから憲法で基本権という縛りを設け、法律の横暴に対する歯止めを掛ける必要が出てくるわけです。勿論それも含めて法律なのですが、今の日本で法規定をめぐる議論が活発になったとしても、どうもこういった基本的なことが忘れ去られた上での議論になりそうで怖いです。

>教育であろうと権限を集中すべきだと思う

まあ地方(地域・コミュニティ)が中央集権化すれば、いじめやリンチが横行するような密室的空間があちこちに生み出され、そして孤立した個人は益々激しく抑圧されることになるでしょうから、それよりは今の方がまだましでしょうね。

>権限と責任(検証・結果責任含む)をハッキリさせればよいのに

とはいえこれはこれで中々難しいわけです。そもそも、何を以って成果が出たとするのかという設定や、過去の教育行政が現在の社会状況にどのような因果関係をもたらしたのかという見方自体にも様々な争いが出てくることでしょう。なにしろ、教育行政(及びそれと社会・文化システムとの兼ね合い)というものは個々人の人生の在り方そのものに深く関わってくるものです。単純に新しい教育方針を導入した直後のペーパーテストでの平均点が上がるか下がるかだけを以ってして教育成果というのなら、それは単なる教育行政の塾化であり、矮小化でしかないでしょう。よって、その方針がどのような成果と弊害を生み出す/出したのかということもまた、より長期的・広範的――それがより明確な形で表れてくるのは、知事の任期が切れるよりももっとずっと先の話になるかもしれません――な視点からそれを判断しなければなりません。尚且つ、その弊害に対してどう対処するのかという対策も予め考えておく必要があるでしょう(枠組みから外れた者の多くは消滅せず、依然として現実に居残り続け、枠組みの外で生き残るための活動を続けるだろう)。権限を持つ者はそういったことを見越した上で、方針を立てなければならないのです。

そして余り責任を取らせることにばかりこだわり過ぎると、権限を与えられた者は短期間に無理にでも目に見える分り易い成果を出そうとして躍起になることでしょう。つまり安易な人気取りに頼らざるを得なくなる。しかもそれが失敗して責任を取らせるとなっても、せいぜい権限を剥奪することくらいしか出来ません。仮にその責任を無際限に広げたところで、教育行政の失敗で人生を狂わされた者達がどうなるわけでもありません。せいぜいスカッとした、くらいにしかならないでしょう。まあ教育というのはそれくらい難しい問題だということです。皆それを知っているからこそ、橋下知事のような勢いのある発言が出来ないわけです。

>人間のサガ

こんな言い方をすれば元も子もないですが、結局教育というのは道徳と同じで、他者を如何に自分に都合よく作り変えることが出来るか、ということでもありますからね。それは決して奇麗事だけでなく、そういう生存戦略の一環として行われている面があるわけです。ただ、出来るだけそれがお互いにとってより良いものになればいいなあと、その程度のものですから。しかしこの「程度」こそが重要なのです。何故なら、片務的に相手を自分に都合よく作り変えようとするような教育の下で台頭してくるのは、やはり他者を片務的に都合よく作り変えようとする人間ばかりでしょうから。それは新たなる脅威の誕生でもあるわけです。しかしここら辺の弊害に関して注意を払おうとする人は余りいませんね。日頃から危機感、危機感と連呼する人が多い割には。

教育者嫌い

> しかもそれが失敗して責任を取らせるとなっても、せいぜい権限を剥奪することくらいしか出来ません。

ぞれは実際のアメリカの姿でもありますね.まさに仰るように短期間での成果を求めて,うまくいっていなければクビを挿げ替えればよいというのがアメリカの発想です.

> 単純に新しい教育方針を導入した直後のペーパーテストでの平均点が上がるか下がるかだけを以ってして教育成果というのなら、それは単なる教育行政の塾化であり、矮小化でしかないでしょう

ああナルホドといったところです.それは私が教育とかいうものにその程度の事しか要求してないからでしょう.正直,学校とか教師とかそういう類のものも嫌っている部分があります.あんなのに文化とか人生とか社会とかそんなものに関わって貰いたくも無いくらいの発想の持ち主なのでしょうがありません.

全く仰るとおり,それ以外の部分を求めるかどうかで答えは変わってくるでしょうから,その点で話がかみ合わなくなったり,集権化とかそういう考え方も変わってくるのでしょうね.なかなか面白い議論になったとおもいます.

かといって、「あんなの」からは逃れられないので…

締めに入っているところ申し訳ないですが、核心に迫る部分でもあるので、もう少し。

>学校とか教師とかそういう類のものも嫌っている部分があります.

まあ私なんかも、卒業後に包丁を持って学校に殴り込みに行ってもなんらおかしくないような学校生活を送ってきましたから、学校や教師に対しては決して良い印象を抱いていません。ただ、自分は学校という場や教師、クラスメイト個人に対する復讐という方向には余り関心が向かなかった。その一つの理由としては、とにかく学校での出来事を出来るだけ忘れるようにして生きてきたということ(でないと精神的にもたない)があります。そしてもう一つには、そもそも学校システムや教育現場の在り方は、その場にいる個々人の意思だけでそれが決定されているのではなく、その背景にある社会や文化の内容と個々人の関わり方によってそれが決定付けられている、と何となく感じていたからです――だから学校や個人を破壊したからといってそれで何かが変わるわけでもなんでもない。尚且つ、学校の外へと足を踏み出してみても、結局そこには「学校」的な場や「教育」的な抑圧・欺瞞、そして幻滅させられるような「教育者」がいたるところに蔓延っている。さらに、幾ら登校拒否をしようと学校を卒業しようと、教育行政、及びそれと密接な関係にある社会システムの影響からはどうしても逃れることは出来ない。

>あんなのに文化とか人生とか社会とかそんなものに関わって貰いたくも無い

つまり私は、「学校」や「教育」は教育行政の中にだけ存在するのではなく、その外にも存在するもの――即ちそれは社会や文化の一部であり、そうであるが故に決して逃げることは出来ず、ひたすら影響を及ぼしてくるものだ、という風に捉えているのです。そもそも、元々学校というのは一部の限られた者達だけのものでした。しかしそれでは問題があるということで、現在のような形になったわけです。仮に学校や教育行政を無くしたところで、それでは昔に戻るだけで物事が何か好転するということはないでしょう。そして尚且つ、教育行政が出来るもっと以前から、教育的欺瞞は存在していたはずです。だから、どのみち関わりを拒否することが出来ない「あんなの」に関わるなと文句を言うより、「あんなの」の在り方自体に文句を言った方がよいのではないか、という思いがあって、いちいちそれにケチを付けたくなるのです。

理想を言うなら、出来るだけ教育行政の在り方なんかに依存せずに人々が最低限の生活基盤を築くことが出来て、尚且つ其々が何かを学ぼうとすれば、誰でも何時からでもそれが可能となるような社会を作り上げるべきなんでしょうけど、それはまあ難しいでしょうね。

>集権化

あとこれに関しては、私の場合ここから関係性の硬直化(及びそれが瓦解する際の激変)や一方通行化、そして合理性追求に伴う画一化とそれに順応出来ない者に対する容赦のない改造及び切除の容易化を想起してしまうので、過敏に反応しているという部分があります。

社会規範という

> 幻滅させられるような「教育者」がいたるところに蔓延っている

なるほど,それを「社会規範」と呼ぶ事にしますが,単に中央集権か何かという話だけではなく,また,学校という現場に限った話ではなく,知事の考え方にはそうした「社会規範」に従う事を強要する部分があると感じているのですね.ようやく意味が分かりました.

> 人々が最低限の生活基盤を築くことが出来て、尚且つ其々が何かを学ぼうとすれば、誰でも何時からでもそれが可能となるような社会を作り上げるべきなんでしょうけど、それはまあ難しいでしょうね。

理想郷ですねー.現代の要求する社会的水準・知識水準は高いですしね.しかも教える側(この場合教師ではなく社会全員)にも同じ物が要求されているのですが・・・.まあ,難しいですね.

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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