ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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物事が“ノリ”で決定されていくことの危険性

▼議論を傍から見る時の問題点

・まだその主張をちゃんと理解もしていない(読んでもいない)のに、その前にその主張に向けられた数々の(肯定的/否定的、補足的、展開的)反応を目にすることが出来てしまう。

・そしてそれを見て、自分がどのような立ち位置に立ち、どのような主張をした方が(他者との関係だけでなく、内面的・自意識的にも)有利であるかを意識的、無意識的に計算してしまう。
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社会(の流れ)というものの力を上手く利用することが出来た時の頼もしさ。それを敵にまわした時の恐ろしさ。それは誰もが己自身の体験を通してよく知っていることだろう。それ故、その場から醸し出される印象や雰囲気から自分がどのような立ち位置を取るのが相応しいかを無意識のうちに計算し、そこから逆算して己の主張や価値判断を決定するような傾向が自ずと生まれてくることになる。そしてそれが繰り返されるうちに、あたかもそれが自身の独立した意思による決定であるかのように思い込んでしまう(勿論、完全に独立した意思決定なんてものは存在しないにしても)。

それは即ち自らの意思決定をそこで形成された“ノリ”に移譲してしまうことでもある。そしてその“ノリ”に意思決定を移譲する者が増えれば増える程、その社会(コミュニティ)に於ける歯止めの機能は弱体化していき、場は硬直化していく。思考による審査を通さず、ただただ“ノリ”による決定だけが自動的に行われるようになる。それが進めば、最終的に誰も“ノリ”の暴走を止めることが出来なくなってしまう。しかもそうなってしまった時、そこではそれがごく普通で当たり前のことになってしまっているので、自分達が暴走しているということに気づくことすら出来ないかもしれない。いじめやリンチが行われるような場所では、大抵このような状況が形成されている。そんな場所で自由な意見のやり取りや冷静な判断が出来るはずもない。

 ***

自分はお笑い芸人が事件事故や社会問題などのシリアスな議論に頭を突っ込んだり、政治家に転身したりすることに余り良い印象を抱いていない。…と、これだけしか書かないと単なる職業差別に聞こえるかもしれない。いや実際そうだろう。文面通り“これだけ”ならば。だから何故それに問題を感じるのかをもう少し詳しく説明すると、要するにお笑い芸人というのは、前段で言及したような“ノリ”を作り出すプロであり、その“ノリ”を回し続ける達人達だからだ。そしてそれ故に、何でもかんでもその“ノリ”に頼ってしまい勝ちだ※1

――“ノリ”という背景を作らずに笑いを取り続けるのは、先ずもって不可能だろう。今時はそんな場面を目にすることも余りないかもしれないが、ごく稀に、照れながら、或いはオドオドしながらボケをかます芸人がいる。そういう芸を見せられると、客は一気に引いてしまう(周りのフォローでもあれば話はまた別だが)。また別の例を出してみれば、一部の熱狂的なファンだけ大爆笑とか、一部の年齢層だけに馬鹿ウケとか、ファミレスでえらく盛り上がっている一行の話に聞き耳を立ててみたら、全くもって何が面白いのかさっぱり分からなかったとか、そういう場面に出くわしたことが誰でも一度くらいはあるのではないか。何故そのような状況が生じるのかというと、それはその笑いや盛り上がりの背景にある“ノリ”がごく一部の限定された者達だけにしか共有されていなかったが故だろう。

ビートたけしなんて、ここ十年くらい大して面白いことを言っていないのではないか(いや、勿論笑いのセンスは人其々だけど)。しかし番組内では、彼は全くもってスベり知らず――皆が笑う前に彼が自発的に笑い始めるのがその合図になっている――なのだ。これは一種の権威化でもあるかもしれないが、それもまた“ノリ”によるお約束の一つではあるだろう。或いは明石家さんまを例にとってみると、もしただの素人が、以前に大ウケした彼のネタをそのまま彼と相性が良い客層に披露してみたところで、大してウケはしないだろう。何故なら、彼は“ノリ”を作り出す天才であり、発言内容よりもむしろ“ノリ”を重んじるタイプの芸人だからだ。発言内容をそっくりそのままコピーしただけでは、芸として不十分なのである。つまり、『すべらない話』が実質的には『すべらせない話』であるように、笑いを取る(そしてそれを安定化させる)ためには、コメントのクオリティーと同時に“ノリ”というバックグラウンドを作り出すことが必要不可欠なのだ。

だからこそ、自分はお笑い芸人達に本当にシリアスな議論には頭を突っ込んでもらいたくない。政治家になんかになって欲しくない。何故なら、きっと彼らはどのような問題も“ノリ”で解決し、どのような場面も“ノリ”で乗り切ろうとする(或いはそれを他者に要求する)だろうから。そしてその“ノリ”に巻き込まれた場所では、前段で書いたような「ただただ“ノリ”による決定だけが自動的に行われる」ような状況が作り出されてしまう。勿論、どのような“ノリ”が力を持つかということは時代や場所によっても変わってくるので、芸能界での“ノリ”がそのままその外でも通じるとは限らない。にしても、なんでもかんでも“ノリ”で乗り切ってしまおうとするそういった姿勢には、大きな問題や危険性が潜んでいるように思うのだ。

当然、彼らが“ノリ”を捨てて、そして「お笑い」と切っても切り離せない関係にある(尚且つ必ず生贄が必要となる)貶め芸や恫喝芸を捨ててシリアスな議論に参加したり、政治家に転身したりするのは全くもって何の問題もない。逆にお笑い芸人でなくとも、“ノリ”や貶め芸・恫喝芸によって物事の流れを形作っていこうとする者がいたとしたならば、自分はそのような姿勢※2でそれらに関わろうとする者に対して好意的な目を向けることは出来ないだろう。小泉劇場にしてみても、彼が一流の芸人としての力を発揮し、より多くの者が共有する広範な“ノリ”のテリトリーを作り出すことが出来たからこそ、そして彼が提供した貶め芸や恫喝芸が上手く機能したからこそ、成立したものでもあったことだろうし。

とはいえ、実際にはそれらを完全に排除することは不可能だろう。こんなことを言っている自分自身、多分それは出来ない。しかしながら、“ノリ”を無理矢理強要することは下劣なことであり(むしろ今は“ノリ”に乗らない方が軽蔑される)、そして何でもかんでも“ノリ”によって物事を判断/遂行していくことにはそれ相応の危険性が付きまとう、ということくらいはもっと広く周知されてもいいのではないか、と思うわけで。そもそも、“ノリ”が合わない人にとってその“ノリ”を強要されるのは拷問みたいなものだし。



※1 勿論、“ノリ”を重んじているのはお笑い芸人だけではない。どこに行ってもそれは存在するし、例えば企業なんかは“ノリ”(決して言及されることのない独自ルール/形式化)に従順である可能性が高いことを期待して体育会系の人間をより積極的に採用していたりする(順法精神の薄い日本企業にとって、会社の独自ルールよりも法律を重んじるような人間が入ってきたら大変なことになる)。

※2
 ニュースや社会問題を扱うテレビ番組などの背景でやたらと扇情的な音楽が流されていたりすることがあるが、あれもこういった姿勢から生み出されているものの一つだろう。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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