ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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世界の中心で、お前の感覚は異常と叫ぶ~それはセカイ系の症状です

サマーウォーズ見たら死にたくなった<わざわざ見なきゃいいのに。予告編からしてそういうオーラが出まくってるんだから。多分、オタクの教養的義務感から見たんだろうけど。

青春モノのアニメにこういう反応が出てくるのはもはや定番となった感がある。そして同じように、この手の話題が巻き起こると、そういう反応を示す者を異常者扱いする人間が必ず出てきたりするのもまた定番。「虚構と現実の区別が付かなくなっている」などとして。多分そういう人達は、自分の感覚こそが世界の普遍の中心だと信じきっているのだろう。で、その感覚から外れるのは認知の「歪み」、或いは「病」故であると。

「正常な感覚」という枠組み内からその外にいる者に対して「お前らは異常者」と叫ぶ。この「叫び」のどこがおかしいのか。それは、その者がセカイ系の主人公としての立場で他人や物事を見てしまっていることだ。
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人間は一見同じ一つの世界に住んでいるようで、実は皆其々異なった感覚と(そこから生み出される)世界観が支配する別々の世界に住んでいる。勿論似通った部分はあるにしても、それらはあくまで別々のものであり、其々の感覚や世界観が直接交わりあったり共有されたりすることは決してない(故に、共有可能な現実というものは存在しないという言い方も出来る。固有の現実=セカイ)。それらはお互いに外部から刺激し合うのみの関係性しか結べない。

だから誰かが死ぬということは、その唯一無二の感覚や世界観を持った一つの世界が消滅することを意味する。そしてその消滅する世界の住人からすれば、自分の世界と同時にその他全ての世界が消滅することにもなる(勿論「広大な宇宙」も。故に「広大な宇宙に比べれば人間の悩みなんてちっぽけなもの」というのは錯覚を利用した精神安定剤)。これがいわゆるセカイ系物語で自分の身近な状況がそのまま世界の滅亡や救済へと繋がってしまう所以だ。だが一方で、どこかの誰かが死ぬことは、その当人からすれば「世界の終わり」であるが、周りから見れば数多ある世界の内の一つが消滅しただけに過ぎない。それは所詮「世界に一つだけの花」が散った程度のものでしかないのだ。

ところが人間は、自分の感覚を通してしか他人の世界を覗くことは出来ない。他の世界へと踏み込んでその内容を知ることは出来ない。だから自分の世界が持つ感覚や世界観を、この世に存在する唯一絶対の真理であるかのように錯覚してしまい勝ちだ。そしてその本来限定的であるはずの真理を他人(他の世界の住人)の背後に敷き詰め、自分の感覚や世界観でそのあらましを解釈し、規定してしまう。だからこそ「本来あるべき正しい感覚」と「そうでない異常な感覚」という傲慢――これはつまり感覚否定であり、それは他の世界の存在自体を否定することにもなる――な分類をすることが可能になり、他人に向かって「お前の感覚は異常」と叫ぶことが出来る。

しかしながら、本来数多ある内の一つでしかない「自分の世界」が持つ限定真理を絶対的な基準とし、それで他の世界を勝手に解釈・規定してしまうということは、元々別々の世界に住んでいるはずの他人を「自分の世界」の登場人物として取り込んでしまうということでもある。つまりその「叫び」を行う時、その者は完全にセカイ系の主人公になりきってしまっているのだ。逆に言えば、その時その主体に捉えられた他人は、「二次元美少女」などと同じレイヤーにしか存在していない。だがそれをその主体は他の世界の住人と同一の存在であるかのように混同してしまっている。

実際、この区別を絶えず意識し続けるというのは中々難しい問題だ。要するに、セカイ系は(一般的意味としての)創作物の中だけに留まる現象ではなく、リアルでも多くの人間に発症し勝ちなごく一般的な症状なのだ。というか、自然体でいれば基本的に人間はセカイ系の症状を発症し続けることだろう。それ故、セカイ系を発症した者が限定真理を根拠にして創作物上のセカイ系を批判するという倒錯を目にすることも珍しくない。セカイ系というのはそれだけ誰にでも身近で根深い問題なのだ。

 *<セカイは拡張される>*

上では創作物の前に「一般的意味としての」と付けた。これは個々人が持つ条理性自体もまたある種の創作物とも取れるからだ。そしてその創作物、つまり条理(限定真理)の生成こそが宗教の根本だと自分は思っている。ただこれは一般的意味としての創作物とは決定的に異なっている部分がある。それは自分の思いだけで自由にその内容を決定することが出来ないということだ。

一般的意味としての創作物では、いかなる荒唐無稽な設定やストーリーでも自分の思う通りに形成することが出来る(勿論、その者の能力に応じてだが)。ところが、条理の生成(認識)は自分の思う通りに…とはいかない。幾らこうであって欲しいという世界観を思い浮かべ、それを信じきろうとしたところで、それはその者が獲得した感覚や経験、環境との関わり合いによって自ずと内容が決定されてしまう。

はじき出された世界観と自分の感覚が希求する世界観が一致しないことによって生み出される苛立ち、苦痛。かといって、自分の持つ個人的因子と環境的因子という制限を超えて自分で自分の認識を自由にコントロールすることも出来ない。例えば周りが燃えていれば、心頭滅却して認識をコントロールしようとしても熱いものはやはり熱いし、それを我慢し続ければ焼け死ぬだけだろう。内面で出来る苦痛の解消法は限られている。では人間がそのような齟齬に直面した時、どのようにしてそれ解消しようとするのか。答えは簡単。周りの火を消そうとする、つまり、先ずその主体の外部へと世界観を拡張し、外的因子を変化させることによってその齟齬を解消しようとするわけだ。

例えばこの記事がここに書き付けられているように、はたまた精神論者が世界の因果を努力で解釈すべきであると主張したりするように、或いはリンチや体罰のように、もっと具体的な暴力を伴った形でその拡張が行われる場合もあるだろう。このような拡張行為は、ある種の布教活動とも言える。人間は自分の認識を自分自身では変えられないからこそ布教するのだ(ただし、人は必ずしもその布教が功を奏するから拡張行為をしているとは限らない。例えば自分は単純に嘔吐によるカタルシスを得るためにこのブログをやっている)。そしてそうやってなされる其々の世界観の拡張が個人の外部へと蓄積されていくことで、文化やシステム、形式的(つまり一般的に言われるところの)宗教が形作られていく。

これは人間の歴史そのものにも言えることだろう。人間はこの齟齬を内面だけで解消することには我慢出来なかった。そして人一人に出来ることは限られている。だから人間は道具を作り、自然に手を加え、道徳や常識、システムを作って他人をコントロールすることで、元々内面にしか存在しなかった世界観を実現させていった。勿論、人間と自然という条件が持つ範囲内でだが。だがこれは逆に、そうやって積み重ねられた拡張としての環境的因子に個人の世界観が規定されてしまうということでもある。

 ***

話を再び冒頭の話題に戻すと、フィクションを見て自己嫌悪に陥る人間が虚構と現実の区別が付かなくなった異常者だとすれば、フィクションを見て爽快感や充足感を得た人間もまた虚構と現実の区別が付かなくなった異常者ということになるはずだろう。ところが何故か後者の方は異常であるとは言われない。では何故こういった破綻した理屈が世間にすんなりと受け入れられるのかと言えば、それはその拡張行為によって蓄積された文化がそれをあたかも筋の通った理屈であるかのように思わせる手助けをしているからだ。そしてそれにより、前者もまた「はいはい、私は異常者ですよ」といったようにその破綻した理屈を受け入れてしまうようになる。

だが感覚の在り方に正誤などあるはずもない。勿論何らかの状況に対し、拡張によって形成された人工的システムによってそのシステム上での正誤の判断を下すことは出来る。しかし、其々が持つ感覚はどれ一つとして同じものは存在せず、それらは決して均一化されるものではないというのは人間という存在自体が元々兼ね備えている前提条件であり、その在り方の部分にまでその人工的システムが正誤の判断を下すことは出来ないはずだ。いや出来ることは出来るが、それをするためには前述したようにその者がセカイ系の主人公になりきらなければならない。

――例えば発達障害などといわれる人達がいるが、その人達も異なった文化を持つ他の場所に行けばそうは判定されないかもしれない。或いはそう判定されるような一定の傾向を持つような者達の群れの中に一般的傾向を持つ者が一人放り込まれれば、そこでは逆にその者の方が異常者扱いされ、何か特別な呼び名で呼ばれるようになるかもしれない。だが、今の環境で一般的傾向を持つとされる者は、そのような扱いに納得しないのではないか。

つまり、どのような社会でもある事柄に対して其々がどのような反応を示すかということにはある程度の傾向や偏りが出てくる。だがその多寡は決してその在り方自体の正誤を表しているものではないということだ。しかし人々の持つセカイ系的欲求が、その拡張としてのセカイ系文化がそれを見誤らせる。そして実際、それに抗うのはとても難しいことだったりする。だからこそセカイ系の猛威が吹き荒れ、今も全く治まりそうにもないという、そういうお話でした。

まあこれはセカイ系といっても序の口で、この後ろには、平等に与えられた精神の力を其々が如何に上手く引き出せたか、引き出せなかったかで個々人の人生や世界のあらましが決定されているというもっと“らしい”思想が控えているのだが。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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