ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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希望の破壊者としての困窮者

 <*死ぬ気になれば何でも出来る?*>

否!死ぬ気になって出来るのは死ぬことだけだ。

…いや、ちょっと言い過ぎかな。死のうとして失敗することもあるので。

だからもう少し説明を付け加えると、仮に「死ぬ気になれば何でも出来る」が本当だとしても、その「何でも」は「死ぬ気になれば(その者が本当に死のうとすること)」が前提である以上、“死ぬための行為なら”という限定つきの「何でも」でしかないということ。つまりそれは「死ぬ気になれば崖から飛び降りることが出来る」とか、「死刑を覚悟すれば沢山人を殺すことが出来る」とか、もっと極端なことを言えば「死ぬ気になれば自殺することが出来る」というようなことを言っているに過ぎない。確かにそれらの行為は普通の人間には到底真似出来ない物凄さを持っている。しかしその凄さは、それ以外のことでは発揮できない凄さなのだ。

そしてもし“死ぬための行為なら”という限定無しで「なんでも出来る」と思えるのなら、その者は少なくともその時点では死ぬ気どころか生きる気満々だろう。何故なら、その者はその「出来る」を向けるための、死というもの以上に大きな目的と情熱を獲得しているからだ(仮にその者が死を覚悟していたとしても、自身が真に望む目的のために死ぬのは生きることに相違ない)。

しかし本当に問題なのは、そういった生の意義が――意識だけでなく感覚的にも――失われ、今一度それを獲得することが出来るという認識すら抱くことが出来なくなっているような状況の方だろう※1。つまりこの言葉は、死ぬ気の無い(或いは生きるために死ぬ)人間には希望になり得ても、本気で死のうと思う人間(または生に意義を見出せなくなった人間)には何の救いにもならない。そもそもこの考えは、上記のような理由で後者の者達は原理的に抱きようがない。

 <*「みんな」の希望を破壊する困窮者*>

「死ぬ気になれば何でも出来る」という慣用句は、懲罰性を伴って用いられる場合が多い。例えば、「死に物狂いになれば何でも出来るはずなのに、それが出来ないのはお前が甘えているからだ。だからその根性を叩き直してやる」とか、「死ぬ気になって頑張れば苦難を脱出するチャンスなんて幾らでもあるはず。それを成しえないのは自ら本気で努力することを拒否してきた証拠。だからそういう人間は幾ら痛い目に遭っても当然の報い。こうやって俺が人生の失敗者であるお前を踏みつけるのも、お前が自分の意思で選択したジコセキニン」といった具合に。

では何故この慣用句は懲罰性を伴い易いのか。何故この出鱈目な慣用句がもっともらしく唱え続けられるのか。

それは多くの死ぬ気が無い者達にとって、「死ぬ気がある」というのは即ち「その者自身が持つ忍耐や努力、工夫、気づきの力――要するに精神力――を最大限に発揮すること」を意味しているからではないか。そしてまた同時に、「其々に与えられた意思の力を最大限に発揮すれば誰でも殆どの困難はどうにかして乗り越えることが出来る」という考え方が、希望や精神安定剤となってその者たちを支えている。

そう考えた時、この慣用句を用いる人間達が困窮者に激怒し、懲罰を下そうとするのはある意味当たり前のこととも言える。何故なら、「死ぬ気がある(≒意思の力を最大限に発揮している)」のにも拘わらず困難を脱出することが出来ない人間がいるとすれば、「意思の力を最大限に発揮すれば…」という希望が否定されることになるからだ。そんな人間は存在してはいけない。

つまりその者が「希望を捨てない」ことを前提とした時、困窮者達は嘘を付いていなくてはならないことになる。本気を出しもせず、余裕があるあるのにも拘わらず、そうでないフリをしていると。或いは、あいつらは死ぬ気もなく、甘ったれたまま死んでいくのだ、と。そんな中で「死ぬ気に(本気に)なっても大したことは出来ない」と主張するような輩がいれば、それはその者達の希望を踏みにじり、コケにする大悪党ということになるだろう。だから精神論的思想が文化やシステムの土台となっている日本では、(「今はこうでも私に与えられた意思の力を存分に発揮さえしていればいつかは…」というような精神論的希望と競合しないポジティブな思考、或いは振る舞いを持つ者達以外の)困窮者達に様々な形で懲罰が与えられる運びになる、と。

 ***

しかしまあそういったこと以前に、死という巨大な恐怖や苦痛――曰く、自殺すると地獄に落ちるらしい――を受け入れることが出来るのなら、それよりは幾分ましであろう地獄の社会生活が持つ恐怖や苦痛くらい受け入れることが出来るはずだ、という考え方が嫌だ。何故でどちらに転んでも先ず地獄ありきの前提を死守しようとするのか、という。…まあメシウマ・スパイラルに陥っているからなんだろうけど。



※1 喉元過ぎれば何とやらで、こういった状況に陥った者も、一度そこを抜け出すとまたぞろ「自分が生きる意義を失ったのは自分の意思の働かせ方が悪かったからであり、そして再びそれを獲得することが出来るようになったのはそれが改善されたからだ」というような認識を抱き始めたりするのだが。そして(意思の力によって自身の境遇をコントロールすることが出来るという幻想を抱くことが出来る程度の)中途半端な絶望を見た脱困窮者達程、その絶望による苦労と精神論的思想のコンビによってやっと獲得することが出来た貴重な誇りと希望、そしてそれを支える物語としての文脈を守ることに必死になり、より激しく現役の困窮者を叩き始めたりするから厄介だ。

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ひきこもりという役割を引き受け
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