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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

自作自演の副産物としての「生」×義務教育人生×私が常識を憎む訳

▼(1)人間の社会活動は基本的に自作自演

メジャーのワールドシリーズや日本シリーズを見ていてふと思った。結局のところ、ありとあらゆるイベント(祭り、社会活動)とそれに付随する盛り上がりは、全て自作自演によるものだよなあ、と。つまり、自ら動機を生む舞台装置を作り出し、自らそれで盛り上がっている。しかし自作自演であることを意識してしまえばそれはわざとらしさとなり、盛り上がりは一気に失われてしまうだろう。だから盛り上がりを得るためには、いかに上手くその自演性を意識下に隠匿した形で自演出来るか、ということが鍵となる。
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人間は常に動機に飢えている。当たり前だ。その者が全く何の動機も獲得できないとしたら、その者が持つ「生」は苦痛や恐怖、恥といったネガティブな感情や感覚を生み出すだけのただの拷問機でしかなくなってしまう。だから人々は動機(希望)を下支えするための物語や宗教、精神論、或いは憧れの肩書きや生活スタイルなどを生み出し、盛り上がりを得るための舞台装置を整える。管理した上で偶発性を際立たせようとする。或いは無理矢理にでも祭りを起こし、心を揺り動かそうとする。そしてその流れに上手く乗ることによって初めて己の「生」を価値あるものとして実感することが出来る。要するに自作自演だ(一応念のために言っておくと、それによって具体的な社会情勢自体が思惑通りに制御されているとかそういうことを言っているのではありません)。

何一つ動機を獲得することが出来なかった人間でも、「死にたくない」という動機くらいは獲得できるかもしれない。が、やはりそれだけではその者の「生」は無価値なものにならざるを得ないだろう。初めから生まれてこなければその拷問機に掛けられる必要も、そこから逃げる必要もないのだから。それは「生まれてこなければよかった」という「生」の否定にしか辿り着かない。

そういった「生」を獲得した者は、こう思うだろう。好きで生まれてきたわけでもなければ、好きで生きているわけでもない、と。この場合、その者の人生は「他作自演」の人生と言える。その人生は所詮、他者の自作自演(ここで言う自作自演とは自由意志によるものではなく、自分の意志で子供を生み、自分の意志で希望を獲得し、自分の意志による努力で何かを獲得することが出来たのだ、と“認識することが出来ている”状態を指す)を彩るための人生でしかないのだ。もっと言えば、それは自作自演の人生が生まれてくるための副産物として生み出された「生」でしかない。物語でいえば、主役達を際立たせるために副次的に生み出される雑魚キャラや悪役のような存在。

 ▼(2)義務教育としての子育て

勝間和代の『誰でも出来る』日本支配計画

そういう意味からしても、こういうタイプの自作(舞台装置の製造)はちょっと許せないなあ。ヤンキーが無計画にごろごろ子供を生むことを肯定できたとしても、これは無理。

というのもヤンキーの子供の場合、幼少期に道徳という毒花の種を植え付けられ、それに雁字搦めにされて養分を吸い取られる(つまり存在の主体が他人が生み出した道徳に乗っ取られる)ようこともないだろうし、それによって獲得した状態を自己責任という道徳で叩かれるという道徳の矛盾(そもそも道徳は基本的に生存と競合する)に苦しむ必要もないだろう。つまりそこでは「生」は副産物化し難い。

道徳なんて意に介さない人間だけが生まれてくればいい。そういう者達だけがこの世に生まれて来て、そういう者達同士だけで勝手に争い合い、盛り上がっていればいい。

だが勝間氏の主張はそれ自体が道徳的だ。よってそれに流されて子供を生んだ人間は、またその子供に道徳という毒花の種を植えつけることになるだろう。そして尚且つ、その出産と子育ては義務感を出自としているが故に、義務教育を受ける生徒のような立場で行われることになるのは避けられない(もちろん、後に義務から抜け出す者もいるだろうが)。

(↓ここからは自分語りが入ります)  ***

そもそも、勝間氏の主張していることは単なる昔帰りに過ぎないのではないか。昔はこういった考えが理屈を通り越した常識的感覚、文化として多くの人々に浸透していた。そして人々は常識だから結婚し、常識だから子供を生んだ。うちの両親なんて今の時代に生まれていたら、二人ともまず結婚なんてしていなかっただろう。子供なんて生むこともなかったはずだ。しかしあの時代だったからこそ二人は(家同士が用意したお見合い)結婚し、子供を生んだ。常識の波に流されるまま。

――経済的にも厳しい結婚だった。壁が薄く、ボロ狭い文化住宅の二階。冷房も暖房も完備されていない。もちろん風呂などない。祖母に一度も反抗したことがないという自営業、のち非正規社員の父。周りにはいかにも大阪の低所得者層らしい気性の荒い者達。コの字型で、ドアを開けると他の住人と顔を合わせ易い状況にあるその文化では、今のように何処に誰が住んでいるか分からないマンションとは違い、完全な派閥が出来上がっていた。

そこに上手く馴染めない母はそのストレスを全部自分にぶつけた。元々癇癪持ちだったこともあって、その剣幕は苛烈を極めた。今でこそかなり丸くなったが、昔は一度火がつくと一週間くらいずっと怒りっぱなしだったくらいだ。よくもまあそんなに怒り続けられるものだなあ、と。中でも問題だったのは、母は常に不機嫌で、自分が何か悪さや失敗をしたわけでもないのに、何かアクションを起こす度に、或いは何もせずとも、突然脈絡もなくどやし付けてきたことだ。だから自分は常に母の方を気にし続けなければならなかった。そして動きを取ること自体にも恐怖感や不快感を感じるようになり、どんどんそれが億劫になっていった(ここには詳しく書かないが、この時のとある自粛行為が回復不能な身体的問題へと発展することになる)。

しかし何もしていないのにどやし付けられることに不満を覚えた自分は、それに対する抗議を反抗的な態度を取るという方法で行うようになった。まあそんなことすれば余計に癇癪を起こすだけなんだけど、その時はそういう抗議の仕方しか出来なかった。そのお陰で母とはよく取っ組み合いの喧嘩をしたものだ。

そして母はそれを父へと訴える。父は子供のことに関して、とにかく「放っておけばいい」としか言わなかったという。それがまた母のストレスの出自となっていたようだ。そもそも父は、父方の祖母が母を前にして兄嫁である叔母と母を比べ、「叔母は良く出来ているなあ」というようなことを言って母の方に目をやった時、父もそれに同調して母の方を軽蔑するような目で見ていたという、そういう男だ。父は母に対しては亭主関白というわけではないが、祖母の前では祖母の言いなりなのだ。そして兄にも。兄家族が自分の子を遊び連れて行った時、留守になった祖母宅をうちの家族に番させるようなことを平気で受け入れてしまうような人間だった。まあ人の親にはなってはいかん人間だわな。それが親になってしまうんだよ、常識の力で。

で、その父が自分に教えたのが、「我慢すること」だ。とにかく「我慢しろ」「しまらなあかん(節約しろ)」ばっかり言っていた。そして、例えば自分が漫画を買って「これ分厚いからお得だよね」みたいなことを言うと、それを見た父は「無駄遣いをするな」といって咎め、或いは自分が映画を見ていたら「現実は映画のようには上手くはいかない」などと言い、如何にこの現実が下らないものかということを暗に示してくるのだ。実際自分は父のなんともつまらなさそうな人生を見て、「ああ、人生はなんて下らないものなんだ」と思った。そりゃそうだ、この家族生活は元々義務教育に於ける「学校の授業」みたいなものなのだから。下らなくて当然。所詮それは、自分達が常識人であることを証明するための活動でしかないのだ。

しかし、そもそも“何のために”我慢するんだ?何故苦しい思いをして生きていかなければならないんだ?結局自分は、その動機を今の今まで見つけ出すことは出来なかった。ひたすら我慢すること(即ち道徳)、それ自体が目的化していたからだ。我慢しないと何か「悪いこと」が起こる、だから我慢しなければならない、ただそれしか頭になかった。

そしてその「悪いこと(恐怖)」を教えたのもまた父だ。父は母が自分のことについて何か言うと、その内容如何に拘わらず、自分をシバキに来るのだ。それはもう完全に自動化していた。(これは文化から引越した後のことだが)別に自分と母の間で何かあったわけでもなく、ただ一人で勝手に母が不機嫌だっただけなのに、その様子をみた父が母の機嫌を取るために自分を百叩きしに来たこともあったくらいだ。要するに、父にとって「教育」という言葉から連想することが出来たのはただシバくこと(体罰)くらいだったのだろう。実際、三十年くらい前は「教育≒体罰」が社会常識だった。父はその常識に従っただけなのだ。だからそういことをしても全く悪気がない(←これが腹立たしい)。だって常識だから。一旦常識化された活動には理屈なんて通じない。そして母はその自動化を見越し、常にこう言って自分に脅しを掛け続けた――「お父さんに言うぞ」と。自分は常に父の暴力に怯え続けなければならなかった。

或いはこんなこともあった。父の仕事上、うちでは晩御飯が九時くらいになり、生活のリズムは普通よりもかなりズレていた。ある日、そんな生活リズムもあり、夜遅くまで起きていた自分が騒いでいたらしい(そこはあんまり覚えてない)。そこに近所のおっさんが煩いと言って怒鳴り込んできた。そしてそのおっさんは、「その子供(自分)をこっちによこせ」みたいなことを言ったわけよ。ドラマなんかではこういう時親は子供を守ろうとするじゃない?でもうちの両親は自分を守ろうともせず、あっさりと引き渡したね。おっさんもさぞかし拍子抜けしたことだろう。いや、単なる売り言葉なのに、本当に渡されても、と。

まあ仕方ないだろう。所詮この家族は、常識だから結婚し、常識だから子供を生み、義務だから子育てする、そんな義務教育家族みたいなものなのだから。そんな「学校の授業」を受ける生徒に自主性を求めること自体に無理がある。所詮義務は義務。動機がそうである以上、それ以上のことは望むべくもない。この時両親が自分を守ろうとしなかったのも、「夜遅くに騒いでいる方が悪い」という常識的判断があったからだろう。しかし一体何のための常識なのかね?

――その後、四歳頃にその文化住宅から引越し、生活自体は少しマシになった。(相変わらず非正規だったが)父の新しい働き先には、残業が沢山あったようなので。根本的な問題が解決したわけでもなかったが、それ以降自分の主な苦役場は、家庭から学校へと移り変わる。

そして自分もまた、両親と同じように「我慢しないと何か悪いことが起こる、だから我慢しなければならない」という何の目的もなくただ耐え忍ぶだけの自主性のない義務教育人生をちゃっかりと受け継いだ。もはやそんなものだけで生きていけるような時代ではなくなりつつあったのに。初めかから常識人として生きていけるような資質など持ち合わせていなかったのに(だから常識的でいるためにはひたすら自己否定するしかなかった。それでもやはり常識人にはなれなかったけど)。

今から思えば、勉強して一流大学を出て、学歴や何らかの技能を武器にこの生活を抜け出すんだ…なんて可能性も思いつくが、その時は学校や家庭の問題で精神的余裕も無かったし、そもそも自分にはただ我慢することしか頭になかった。自分にそんな能力があると信じることも出来なかった。というかそういう概念すらなかったわ。だからそういった文化や風土、経済状況の改善もなしに、「学校のシステム改革で学力アップ!」とかいう主張を聞くと、寝言を言っているようにしか思えない。

 ▼(3)脅迫としての常識

まあもちろんこれはあくまで数多あるうちの一つのセカイの話でしかない。しかし、それは勝間氏の主張にしても同じことだ。その一つのセカイの感覚から導き出された条理性を常識として他の全てのセカイ(即ち世界)に当て嵌めるのには無理がある。しかし一つ言えることは、常識が生み出した義務感を動機とする行為は、それを動機としている以上、所詮義務教育で嫌々受けさせられる学校の授業のような内容のものにしかならないだろうということだ。

常識は抑圧として機能する。勝間氏の主張もまた脅迫に近い。彼女が主張しているのは、(自分の感覚や経験を根拠として)結婚しない者は人間として未熟で、子供を持たない者は生産性が低く労働力として信頼性が低いということだ。要するにそういう人間は信用できないと。これは同時に、周りからそういう人間として見られたくなければサッサと結婚しろ、未婚で許される猶予期間は三十五歳までだ、という脅しにもなっている。彼女の言う結婚・出産のメリットとは、実は自らが設定した(結婚・出産をしないことによって周りから蔑んで見られるという)デメリットを回避できるよ、ということ――或いは一方に蔑みの目線を送ることによるもう一方への自尊心付与というメリット――でしかない。

だがよく考えて見ると分かる通り、こういった常識は過去に既に確固たるものとして存在していたはずのものだ。だからこそ自分は生まれてきた。そういった常識的抑圧の下で。しかしやがてその常識による問題が露呈し始め、それが疲弊した結果として今現在の少子化、晩婚化がある。つまりそれはその常識に対する反動とも言える。その失敗による反省も踏まえず、再び脅迫的に復古主義を唱えて何になるというのか。義務教育人生はそんなに素敵なものだろうか?

 ***

常識で人を殺すのがアイヒマンなら、常識で人を生むのもまたアイヒマンだろう。自分はナチュラルボーンキラーは許せても、アイヒマンは許せない。何故なら自分はアイヒマンの子だからだ。アイヒマン達がいなければ、そもそも自分は生まれて来ずにすんだのだ ――ずっとそう思っていた。

しかし後に考えを改めるようになる。というのも、自分が自分の周りの状況はおろか、自分自身さえも上手くコントロールすることが出来なかったように、アイヒマン達もまた――当人達の認識はともかく――自分をコントロールすることなんて出来なかったのではないか、と思うに至ったからだ。だからそれ以後自分は、彼らに影響を与え、制御している常識の方を憎むようになった。そういう経緯もあって、勝間氏が行ったようなこの手の主張を目にすると、どうにも腹立たしさを覚えてしまうわけです。また安直な計算と抑圧で副産物としての「生」を増産しようとするのか、と。

―― もちろん、その義務から生じた「生」がその者にとって善きものとなる可能性だってある。というか、大多数はそうなのだろう。しかしながら、それが生まれ来た者にとっての拷問機になる可能性だって十分にある。勝間氏はデメリットを見るなと言うが、子供を生む人間はそれくらいのことはちゃんと自覚しておくべきだろう(というか、既にその自覚を持っているような人間が沢山いるからこそ少子化が進んでいるのかもしれないが)。そしてこれは逆に言えば、子供を生まないということは、実は自分達が盛り上がりを得るための副産物としての「生」を生み出すことを阻止しているかもしれない…ということだ。

現代社会で人が生きていくためには、自尊心というものを獲得し、守っていかなければならない。だが、日本の常識と社会風土にどっぷりと漬かり切っている以上、誰かを貶め蔑みでもしないと中々己の自尊心を保つことは難しい。よってお互いの自尊心のつぶし合いが至る所で火花を散らす。そしてそのような争いで傷ついた自尊心や精神的苦痛をジコセキニン祭りやメシウマで癒す…というのが日本の日常的風景。

つまり「子供を生まない」とは、そういった地獄を今生きている人間だけで引き受ける決心をし、もうこれ以上その道連れを作ろうとはしないことである――と、そういう考え方も出来るわけです。

コメント

規範から実践へ

保守的な規範は社会ピラミッドの上部では結構強いものですから、「生産性が低く労働力として信頼性が低い」というのは、それなりに現実を言い当てているわけです。まさに「社会のクズども(どっかの大統領風に)」なわけですな。これは日本の問題というより人間の醜い本性なのでしょうか。

実際のところ少子化はそんな崇高な理念ではなく、個々人の合理的な経済行動のようにも思えます。日本の規範はそれほど強くない(少なくとも韓国よりは)もしくは合理的な判断をしているからこそ、保守派が猛反発しているのでしょう。世界的な方向に目を向けると、支配している女性の数が社会ステータスとかミモフタモナイ世界だったりしますが、婚姻の社会通念というのにはこうした話がつき物です。しかし、これらの規範が社会規範以上のものとして制度化されると事態は一変します。

歴史的な方向に目を向けると、過去に欧州や中国などで子供の数を法律で規定するという事が行われていたのはご存知だと思いますが(え、今でもやっているじゃないかって?)、東欧で規制がゆるくなったのは歴史的には結構最近なんですよね。宗教的理由から避妊や妊娠の間違った知識が意図的に作られたり、教えられなかったりして、これが欧州での慢性的な問題を生み出していました。(反カトリックのちょっとアブない人たちがあっちにはいるのですが、まあ歴史的な理由もあるのでしょうね)

近年のものとしては社会主義体制下の東欧での避妊の禁止が上げられるでしょう。生産性が低下する一方で子供の数が激増し、貧困が拡大し、ストリートチルドレンが町に溢れ、収容所では凄惨な光景を生み出しました。考えてみるとこういう社会規範というのは、実践されると実は困るという構造的矛盾があるわけです。問題を力任せに解こうとした時には本気で止めにかかるのが我々常識人の義m・・・おっと!

>実際のところ少子化はそんな崇高な理念ではなく、個々人の合理的な経済行動のようにも思えます。

とすれば、景気が良くなればまた昔のように「子供は二人がいいなあ。一人は男の子で一人は女の子」みたいな時代がやってくるんでしょうかねえ。

>日本の規範はそれほど強くない(少なくとも韓国よりは)

まあ韓国の方から漏れ聞こえてくる情報を目にすると正直ゾッとしますね。実はあれが日本の未来なんじゃないか、みたいな気もして…。ひきこもりに関しても、それが顕著に表れているのは日本と韓国くらいみたいだし。

>社会規範というのは、実践されると実は困るという構造的矛盾があるわけです。

みんなが規範を遵守するようになれば今よりも良い社会に、と妄想しているうちが花というわけですね。細かいルールやマナーをいちいち罰則化していけば結局自分の首を絞めることになるのと同じで。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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