ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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努力のブレーキ機能、「努力」に逃げない考察・解説

時事ドットコム:野村克也氏が放送席で観戦=大相撲

NHKの『サンデースポーツ』で、この話題が取り上げられていた。

ここでは触れられていないが、そこで放映されたVTRの中で野村氏は、日本人力士の不甲斐ない成績の原因について訊かれたところ、ハングリー精神の無さや、努力の足りなさという理由でそれを説明していた。曰く、努力には即効性がないのに直ぐに効果が出ると思っているから、効果が出ないと直ぐに努力を止めてしまうのだと。そしてそのVTRあけに、ナントカ親方が一言。「その通り!」

一体この手のやり取りを何万回見せられてきたことか。しかし、実は「努力」という便利な概念に状況の説明を頼り切りにし、誰かの努力の足りなさを解消することだけで問題の解決を図ろうとしてきた、その思考の硬直化とルーチン・ワークこそが、様々な場所に於ける状況打開の機会を奪って来た、という面もあるのではないか※1
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・その者が本来どれ程の可能性を持っていて、努力によってそれをどれ程引き出すことが出来るのか、ということは実のところ誰にも分からない。

・世の中には様々な制限がある。心身共に無限のエネルギーと修復性が備わっているわけではないし、機会費用・比較優位の問題もある。つまり、誤った方向で努力をしてしまえば、努力故に身を滅ぼす結果にもなり得る。身を滅ぼすとまでは行かなくとも、実際にそういった失敗を繰り返して来た経験を持つ者も多いんじゃないか?要するに、どのような方向で努力をすればその者にとって良い結果になるのか、ということ自体が分からない。だからこそ人々は努力することを躊躇してしまう。

・逆に言えば、それらが分からないからこそ、何でも「努力」が原因であるかのように言うことが出来てしまう。それ故、物事を説明する際に安易にその概念に頼ってしまう人達が大勢出てくる。まあそれはその者が最大限の力を尽くした結果としての思考能力の限界なのかもしれないが、もしそうでないとすれば、そういった安易な「努力」概念の利用自体が思考の怠惰と言えるだろう。

・何らかの努力を続ける人間の多くは、その努力が功を奏しているという実感を持っている。それがモチベーションとなり、その継続を可能としている。そこには必然的な理由がある。

・だから、直ぐに効果が出ないが故に努力の継続を止めてしまうという現象は確かにあるだろう。しかし逆に、直ぐに効果が出始める者もいる。ということは、それはむしろ努力の持つブレーキ機能と考えた方がいいのではないか。つまり、効果が中々出ないということは、その方向での努力は限られた資源の無駄遣いになる可能性が高い、ということを示しているとも考えられるのではないか?

・大抵の事柄には競争相手がいる。そして結果はその相手との関係性によって形成される。仮に後から効果が出て来るとしても、直ぐに効果が表れる者とそうでない者の間には、大きな差が生じる可能性が高い。そしてその差が成果の大きさとして反映される。――もちろん、後の急成長という可能性も無くは無いが――効果の出なさ具合は、もっと他に努力の方向を向けた方が良いよ、という危険信号なのかもしれない。

・野球選手になれなかった者が、四十過ぎても「いつか俺もメジャーへ行ってイチローを超えてやる」と言って一日中バットを振り続けていれば、それはただの愚か者だろう。しかし、結果も出ないのに様々なものを犠牲にしてそれだけのことを続けていたのだとすれば、それは恐ろしいまでの努力継続能力だ。単純に外見上から見れば、その者の努力度合いの高さはそこいらのプロ野球選手を遥かに上回っていると言えるかもしれない。でもやっぱりその努力は愚行だとしか言いようがない。

・もしある者が誰かの吹聴による努力の継続で、人生に於ける貴重な資源を無駄遣いしてしまったとしたら、それが取り返しのつかない結果を生んでしまったとしたら、それを吹聴をした人間は、一体どうやってその責任を取るつもりなのだろう?

・逆に、相手のある方向での努力がお互いにとって必ず良い結果になるという確信があり、それ故にそれをさせたいと思うのならば、単にそれを無理矢理押し付けようとするのではなく(「やらされた努力」の効果は半減するだろうし、失敗した時に怨嗟を生む)、どういう状況を作ればその者がその方向で動いてくれるのか、ということを考えて実践することこそが、努力をするということなのではないか?つまり「あいつが努力をしないから悪いんだ」と言い続けるのは、それ自体が努力とは逆のベクトルなのではないか。

・例えば、実際には努力の効果が出ているのに、当人はそれに気づかないということもある。楽器練習などにおいてメトロノームを用いるのは、ちゃんと効果が出ていることを認識させ、モチベーションを持続させるため、という意味もあるだろう。努力を要求する側は、「相手が努力をしないという問題」に、そういった具体的な方法(提案)で臨む必要がある。

・あらゆる状況は常に、人と人、個人と環境といった、互いの相互的な関係性の連続の上に成り立っている。よって、もしある状況を変化させようとすれば、お互いが変化しなければならない。だが、誰だって自分を変えるのは苦しいし難しい。しかし、もし一方的に相手の努力の足りなさだけに問題の原因があるのだとすれば、その状況の打開において、「自分は変わらなくいい」ということになる。

・だからこそ、人はついつい「努力」という概念に頼ろうとしてしまうのではないか。つまり、「努力しろ」「お前の努力不足が原因だ」という言は、実は「俺は変わる努力をしないぞ」「俺には問題の原因は無いぞ」という言でもあるのではないかと。

 ***

もし小論文で「~が何故そうなったのか、その理由を考えなさい」という問題があったとして、「それは誰それの努力が足りなかったから」なんて答えを書いたとしたら、それはもうどうしようもなく駄目な回答だろう。

自分は壊滅的なまでに小論文とかが書けない人間なので、入試とか全くどうにもならない。だから試験開始と同時にバキバキ論文を書き始めることが出来る人達が羨ましくて仕方がないわけだけど、そういう試験に何度も通ってきたであろう優秀な人達が、こと実技となると、何故「努力云々」というそんな判で押したような陳腐な回答ばかりを出してくるのか不思議でならない。上で書いたように、その方が立場的に有利だから?



※1 大相撲の場合、外国人力士が沢山入ってきた時点で、日本人力士がこれまで通りの戦績を残すことが出来るような余地はもう余り残されてはいないだろうけど。そもそも、身体にも健康にも悪い上、閉鎖的でリンチが蔓延り、若い者に人気もない。無理矢理つれてこられた人達が嫌々練習をし、そして度々部屋を逃げ出す。成績を出さなければお前の努力が足りないからだと一方的に責め立てられ、成績を出しても態度が悪いといって嫌がらせを受ける。そんなスポーツに有望な人材が集まってくるはずもない。まずはそこら辺をどうにかしないと、益々尻すぼみになるだけだろう。

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ひきこもりという役割を引き受け
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