ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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宗教的無自覚が生み出すアンタッチャブルな現実

日本では「労働」が「労道」になっている。 ニートの海外就職日記

海外ニートさんのエントリを読んでいて思ったのですが、日本では労働が「労道」になっちゃってますよね。

労働は本来は単なる生活手段なのに、精神性や自己実現といった価値観が過剰になり、「労道」という一種の修行と化してます。

完全に宗教でしょ日本人の労働信仰って。最終的に見捨てられるのが信者(弱者)なところも一緒。トップはそもそもその信仰なんかしてすらいないし。

宗教的道路族みたいなものか。
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まあ、その者が自分の好きで道としての労働を信仰し、そこにその身を捧げ続けるのは全く構わないのだが。問題は、人々の命や生活を支える基盤となっている社会・文化システムがその宗教を前提として成り立っていることだろう。これは要するに、実質的には信教の自由が認められていないということを意味する。

しかも「労道」は自らの宗教性に恐ろしく無自覚なので、信教の自由という観点からそれを批判しても全くなしのつぶて。また、正当性を担保するための明確な根拠を持たずとも成立するという宗教の性質上、幾ら理屈でそれを批判しても、決してそれは向こう側には届かないという。故にこの硬直化した現状が、いつまでもアンタッチャブルなものとして幅を利かせ続ける、と。

 ***


宗教というのは結局のところ、「条理の生成」のこと。故に、無宗教な人間なんてこの世に誰一人として存在しない(条理が無ければ不条理すら生まれない)。にもかかわらず、この国では自らのそれに全く無自覚でいながら、他人の宗教性“それそのもの”を悪であるかのように扱うことを良しとしてきた。その結果として、このようなアンタッチャブルな現状が生み出されている、ということもあるのではないか。

つまりこの国は、まず其々が自らが持つ宗教性を自覚し、信教の自由の重要さを認める、というところから始めなければならないのではないか。まあこういった認識は近代国家であるならば本来言うまでも無いほど当たり前過ぎることなんだけど、どうも、「古代」から「近代」を経ず、いきなり「現代」がやって来た、みたいな感じなんだよなあ、日本って。それが状況を益々ややこしくしている。

 ***

因みに自分が持っている宗教性というのは、個人の意志による状況コントロール不可能性(人生は攻略不能なギャンブル――その上で人間は足掻き続ける)とか、誕生の暴力(生まれて来なかったこと以外にこの不幸を回避することは出来なかった)とか、そんな感じ。もちろん最初からそうだったわけではなく、紆余曲折あった末に今のこの考え方に辿り着いたわけだけど。少なくとも自分の人生にはチャンスなんて一度も無かった。

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