ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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≪自然環境≫としてのハラスメント~「ヤンキー」は「大人」の一形態

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

 しかし今日も、義家さんは延々と、今年の卒業・入学式における日の丸掲揚・君が代斉唱の実施状況を仔細に明らかにせよ。全部の学校で全部の生徒に歌わせろと迫っておりました。これがあの「ヤンキー先生母校に帰る」で有名になった人の末路かと思うと情けなくなりました。かつて義家氏は「ヤンキー先生」と呼ばれた北星余市高校在職中に雑誌「世界」の特集で、「教育現場に『日の丸・君が代』を持ち込めば、道徳教育を徹底すれば、日本人としての自覚や、国際協調の精神が培われると、文部科学省は本気で思っているのか、ということである」と述べていました。

 そして「安心しろ。卒業式には、お前たちを邪魔するものは何もない。卒業式のシンボルはお前たち自身だ。そしてテーマソングはお前たちが最後の学園祭で、大声で歌ったあの歌だ。胸を張ってあの舞台に立て。お前らは俺の夢だ!『なあ、みんな、学校は好きか?』」と呼びかけていたのです。それが今では、正反対の立場を国会の演壇から声高に叫ぶような人間に成り下がってしまったのですね。

まあ、学園祭で形式以上の意味が付加された青春の歌を大声で歌わされるよりも、純粋に形式的なものとしての君が代をボソボソ歌う方がまだましだ、とも思ってしまうが。というのも、前者の場合、その行為に妙な意味が付加されてしまっている以上、本気で歌っている素振りを見せなければその場の和を乱す者として青春野郎に糾弾されかねない。「お前たち(俺達)」のノリに従わなければ趨勢側から敵として認識されかねない。というか、合唱コンクールの時に実際にそういう経験をした。普段ふざけているくせに、ああいう時だけやたら乗り気になって、「真面目にヤレ!もっと口を大きく開けてでかい声を出せ!」と言い出す厄介なヤンキーがいたりするから。というか、先生自体もそういうノリだったりする。そういう熱血野郎のせいで合唱コンクールがただの大声大会になってしまうのが日本の音楽教育レベルの低さをよく物語っているわけだが。そこでの音楽は、「私はみんなと一緒に一生懸命物事に取り組んでいます」というような、社会的順応精神を育成することを目的としたイニシエーションのための宗教的道具に成り代わってしまっている。まあ、西洋音楽の発展の歴史は宗教(キリスト教)の発展の歴史と切っても切れない関係にあるので、ある意味それは千年後れくらいで西洋の歴史を追体験しているだけなのかもしれないが。

その一方、君が代なんかはドリフのオープニングにおけるいかりや長介みたいな調子で歌っていてもあまり文句を言われることはない。だから「まだましだ」になるわけだが、とはいえ、君が代に形式以外の妙な精神的意味を付加してしまう者がその場を支配していれば同じ結果になってしまう。こんな風に↓

asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「思想の自由言ってられない」任命式で

 君が代斉唱は橋下知事の指示で今回の任命式から始められた。知事は「君が代歌えましたか。歌詞わかってますか」と新人職員に問いかけ、「僕が感ずるところ、まだ声が小さい。日本国家の公務員ですから歌うことは義務。しっかりお願いします」と語った。

こんなところにまで大声大会を持ち込んでしまう人間がいる。しかし、単に形式としての行為の有無だけでなく、権力側がその「歌い方」で下の者を査定するようになれば、それはもはや権力側が扱いやすい人間とそうでない人間を振り分けるための踏み絵として君が代を利用しているということにしかないだろう。態度の良し悪しなんてものは、権力側が恣意的に判断できてしまうものでもあるわけだし。つまり、形式的な行為として何かを要求するのと、その形式的行為に何か特別な意味を付加し、その意味を共有することを強要するというのは全く別のことなのだ。

 大阪府庁では、知事部局の新規採用137人の任命式があった。君が代斉唱などの後、橋下徹知事は「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません。国家・国民を意識してもらうため、今後事あるごとに国歌斉唱を求めていきたい」と訓示した。

何が「思想、良心の自由と言っている場合じゃありません」なのかさっぱり分からないが、国家の基本原理である「思想、良心の自由」を否定――国歌斉唱に形式以上の一定の意味を付加し、その共有をパワハラ的に要求――している以上、むしろ橋下知事こそが国家に対する逆賊的存在であるということだけは確かだ。もちろん、その逆賊的行為が良いことなのか悪いことなのかという評価は其々で異なってくるだろう。しかし、国家を大儀としながら下の者に逆賊的要求を行うというのはなんとも妙な話だ。いや、それがそのまま世間に受け入れられてしまうことの方がもっと奇妙だけど。
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で、再び冒頭の「ヤンキー」についての話に戻すと、そもそも、強きと馴れ合い弱きをネタにしてのし上がろうとする性質こそがヤンキーの最大の特徴だと思うのだが。リンク先の記事を書いた宮本氏は、ヤンキーに妙な幻想を抱いているんじゃないか。それこそ少年漫画に描かれるソレのような。

暴れても骨を絶たれることがないような状況では趨勢の側から嫌な顔をされても意に介せず平気で暴れまわる一方、暴れると本当にヤバイ状況ではおとなしくしているか、むしろその場を支配している者に擦り寄る。そして社会的・経済的成功や一般性を獲得したあかつきには、過去の自らの悪行を「やんちゃ」「若気の至り」と表現を和らげながら自慢しつつ、或いはネタとして笑い飛ばしながら、獲得したそれを根拠にして、他人を道徳という武器で追い込む。それが出世ヤンキーの典型的行動パターン。お笑い芸人の多くも大抵こういうタイプの「ヤンキー」上がりだ。

どうもこの国では、社会的地位や経済的成功を手に入れると「更正」したことになり、生き方を変えたかのような前提で話が進められる。しかし実のところ出世ヤンキーは、脅しの対象を趨勢の側の趣向に沿った形で選び抜き、そのための道具を道徳を大儀とした社会的抑圧に持ち替えただけであり、その生き方自体は全く変わっていなかったりする。長田・杉浦姉妹がその良い例。単にカツ上げの的を絞り、それで生計を立てているだけだろう、という。

つまり、彼らの振る舞いや主義主張には全く一貫性が無いように見えても、実はその一貫性の無さは、上記のようなヤンキー特有の現状追従主義的行動原理を貫き通した結果だったりするわけです。

義家弘介氏は、「ヤンキー」などではなく、いまや「へたれ」そのものだ

義家さん、あんた「ヤンキー」ちゃうやろ、あんたはなあ、同じく大阪起源の言葉で言うたら「へたれ」そのものやんけ。

まあだから、そういう意味からすれば義家氏は正真正銘の立派なヤンキーであると言えるでしょう。というか、「ヤンキー」が畏怖される一方、「へたれ」は蔑まれるというこの風潮にこそ、本当に重大な問題が潜んでいるんじゃないかと思うのだが。

 ▼≪自然環境≫としてのハラスメント

例えば、「ヤンキー」が「イジられキャラ」にハラスメント(「いじめ」よりもこちらの表現の方がしっくりくるのでこちらの表現を使う)を行った場合、それによって「ヤンキー」側は周りから畏怖の念を抱かれたり、笑いのネタを提供することで人気を獲得する一方、「イジられキャラ」は「へたれ」として蔑みの目で見られることになる。本来ならハラスメントを行った側の方が蔑まれてしかるべきなのにもかかわらず。逆に、自身が「イジられキャラ」であることを素直に受け入れ、それを上手く利用して地位を確保するような割り切りの良さや要領の良さを持った者は、「へたれ」とは認識されず、蔑まれることもない。

こういった成り行きには、社会的環境があたかも自然環境と同等のものであるかのように認識されてしまうという社会的風土が大きく関係しているように思う。自然環境に不平不満を言ったところでどうにもならないだろう。もちろん人間は常にその自然に手を加え続けてきたわけだが、そうそう簡単にそれを都合よく改造できるわけではない。例えば、地震のような自然災害や天候に不平不満を言ったところでどうにもならない。だから人間は自然の猛威を前提として受け入れ、それとどのように付き合っていくか、ということを考えなければならない。だが、社会的環境までもがそれと同等の扱いがなされてしまった場合、実際にそこかしこで実権を握り、その力を利用して無茶な要求やハラスメントを行う者が存在する以上、それは「自然」と同義であり、それを批判して変更を促すよりも、その環境を前提とし、それに如何にして順応するかということこそ考えなければならない、というような教義が導き出されることになる。つまり社会的環境と自然環境は同義であるという認識を前提とした場合、「≪自然≫としてのハラスメント」が起こるような環境に如何に上手く馴染み、順応することが出来るか、ということこそが成熟した大人になるための最も重要な課題である、ということになる。

これがさらに――社会的困窮状態にある者は、環境に対する不平不満ばかり言って現実を受け入れようとしない未熟な自意識を持っていたが故にそのような状況に陥り、そして抜け出せないでいるのだ、というような、多くの日本人が共有しているであろう非常にポピュラリティーのある――自意識原因論的な現実解釈と重なり合わさることで、むしろハラスメントを行った側よりもそれを受けた側の自意識(つまり人格)の方が問題視されることになる。それによって、ハラスメントを受けた側の方が、「未熟な自意識を持っていた者」として蔑まれることになる。この考え方は、社会的優位がそのまま「≪自然環境≫=現実」としての正当性を持ってしまい、歯止めが掛かりにくいため、やがてそれはどんどんエスカレートし、一方の側に過度の是認を与えてしまうことになる。「弱い者は自分の好きで弱くなったのだから、もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢)」というように。

 ▼透明化する「ヤンキー」~「大人」問題としての「ヤンキー」問題

もちろん、ハラスメントを行う側よりも受けた側の方が蔑まれるという状況は、他にも様々な要因が重なって起こっているのだろう。例えば、イメージの良し悪しで物事の正誤が決まってしまう文化的背景とか――それによって、ハラスメントを行った側と行われた側は其々、畏怖、勇猛さ、能動的、というイメージと、惨めさ、格好悪さ、受動的、といったイメージに置き換えられ、それらが比較対照された結果、良いイメージの方が「正しさ」を獲得してしまう。

ただここでは、自らを取り巻く社会的環境の欠陥や矛盾に疑問を持つよりも、それをそのまま「現実」として受け入れ順応しようとすることにこそ最大の注意と努力を払わなければならない――それができるか否かで、その者が成熟した大人であるか否かが決まる、という考え方の方に注目したい。こういった考え方は、「大人」の定義として最も一般的なものだろう。しかしながらこの定義が持つ「大人」理念は、ただその場に於ける社会的状況の潮流を読み、その流れに上手く乗ったり利用したりすべきであるという単なる処世術的教訓でしかなく、現状追従主義でしかない。これは実質的には、その者が「大人」であるならば、それが潮流である以上、論理的欠陥を持った要求や二重規範にも疑いを持たず、柔軟に受け入れなければならない、ということでもあるだろう。逆に言えば、冒頭の義家弘介氏や橋下知事のように、実際にその者が権力を握り、大勢の者達からの支持を得ている以上、そうした要求を突きつけることも「大人」理念からすれば「正しい」ということになる。その理念に照らし合わせて物事を見るならば、「できてしまうこと」は「正しい」ことなのだから。少なくともそれができてしまううちは。

しかしながらこの理念は、前半部分で述べたようなヤンキー特有の行動規範と全く同じ性質を持っている。つまり、「大人」と「ヤンキー」はその根本において同じ行動理念/原理を共有している。もちろん、だからといって「大人」と「ヤンキー」はイコールではないだろう。「ヤンキー」はあくまでその行動原理/理念を貫いた結果として表れる一つの文化傾向だ。だがその存在は、「大人」の行動理念を実践し続けている以上、「大人」の一形態であることは間違いないだろう。そしてその行動原理/理念にこそ問題があると思っている自分からすれば、「ヤンキー」問題はそのまま「大人」問題であり、「大人」問題は「ヤンキー」問題でもあると思えるわけです。そしてその行動原理/理念に納得がいかない「へたれ」の一人である自分としては、まるで「へたれ」をそのような行動原理/理念を持つ存在であるかのように扱う一方、「ヤンキー」を反骨精神の象徴であるかのように扱う主張を見ると、どうしても違和感を感じてしまう。

 ***

学生時代はあれほど沢山いたヤンキー系の者達が、大人になると忽然とその姿を消してしまう、という現象がある。これは単にそういう者達との接触の機会が少なくなったということもあるだろう。しかし「ヤンキー」が消失する理由はそれだけではないはずだ。一方で、行動原理に迷いのない「ヤンキー」ほど大人社会での出世が早い、という現象が存在することも忘れてはならない。つまり、多くの「ヤンキー」は「ヤンキー」でなくなったわけでもなんでもなく、「ヤンキー」特有の行動原理を貫いた結果、「大人」が持つ一般的傾向へと収斂していっただけなのではないか。そしてその結果、表面上の文化的特徴が失われ、透明化しただけなのではないか。

というか、学校や地域社会というコミュニティー内での社会的優位性を利用してパワハラを行う「ヤンキー」と、経済社会での地位や肩書きを利用してパワハラを行う「大人」。この両者に一体どのような内容的違いがあるというのか。幾ら姿形が一般性を帯びていても、いじめられっ子としての時代を送って来たことによって備わった自分の「ヤンキー探知機」がビンビン反応するわけですよ。世間の「大人」達に対して。

コメント

合唱

体をくねらせながら歌う独特の宗教儀式ですね、わかります。見事な作り笑いといい、一糸乱れぬ身のよじりといい、合唱の世界っておもしろいなあ。ああそうだ、ドリフのノリならば、ズレていても「アレは高木ブー」という事に!

なぜ歌を歌うのに表情を作ることをやたらと要求されたりするのかさっぱり分かりません。別に将軍様に歌を捧げているわけでもあるまいに。

>「アレは高木ブー」という事に!

できれば合唱中の居眠りも許してほしいですね。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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