ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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祖母が亡くなりました

享年88歳でした。こういう身分で後ろめたさがあるので、入院してから一度も顔を出したことは無かったけど、一応亡くなる前に顔を出すことは出来た。まあ、当人が自分のことを分かっているかといえばかなり怪しいけど。――というか、本当は自分が真っ先に死ぬべきなんだけど。勇気が無いのは生命力。
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その後のことだけど、普通の葬儀を執り行うお金は無いので、うちの家族と親戚数名だけが集まって焼香を行い、直葬という形を取りました。それでも二十万ほどの費用が掛かったようです。葬儀屋の言値だと、最低でも三十万以上は掛かるということだったらしいが、うちはそれが出せる費用の限界だということで、その金額に落ち着いた。でなけりゃ、こっちの生活も破綻しておだぶつになる。というか、直葬で三十万ってちょっとぼり過ぎだと思うけど。笑ってしまうほど大雑把な費用の内訳を見る限り、その殆どが人件費みたいだし。実際にはそう書かれてはいないけど。あれはちゃんと人件費として表示すべきだろう。その葬儀屋ではないが、父の知人なんかは、最初に提示された金額に加え、後から百万くら請求されたそうだ。あの業界は本当に胡散臭い。

そんなわけで、それはまあなんとかなったのだが、まだお墓の問題がある。すでに祖父の遺骨が納められているお墓があり、そこに祖母の遺骨も納めることになっているのだが、そのためには戒名をもらったり(なんなんでしょう?戒名一文字ごとに十万とか。金で故人への想いの大きさを示させるみたいな宗教は本当に最低だと思う)、墓を掘り返して埋めてもらったり、墓石に名前を彫ってもらったり、その他もろもろでまた相当な金額が必要になるということで、その費用が出来るまで(多分出来ないだろうけど)は当分自宅に遺骨を保管しておくことになった。

しかし、あの世も自由意志も存在せず、“自分”とはあくまで状況でしかない。そして葬儀も墓石も生きている者達のためにある。だから死んだらその後はもうどうなってもいい、というような宗教観を持っている自分からすれば、こういう儀式や仕来りにはどうも違和感を感じてしまう。まあそう言いつつも、お別れの時はちゃんと心の中でお別れの挨拶はしたけど。他人の宗教を尊重するのも大切なことだと思うから。

にしても、次の世代には自分みたいな者やワーキングプア、そしてこの手の仏事宗教や利権に不信感を持っている者達の割合が一気に跳ね上がることになるだろうし、こういうある種の弱みにつけこんだビジネスモデルはいつまでもつんだろうな。盛大な葬儀を行って費用が高くつくならしかたがないが、そうでもないのに掛かる費用の最低金額が不透明な上に高すぎる。それを工面するために残された者の生活が破綻したらどうにもならないと思うが。

コメント

葬儀

わたしの祖母も死にそうなまま、けっこう長くもっています。ですが、ペースメーカーの交換はもう出来ないらしいので、長くても一年といったところです。明日はまた面会に行くのですが、私の顔がわからないみたいなんですよね。一説には私の小さかったころの記憶しかないとかなんとか・・・。

葬儀に関しては私の母が金銭的問題も含め、もうだいたいの計画を立てています。親戚間で起きるかもしれないゴタゴタも、まあ母がなんとかできそうです。

> 戒名一文字ごとに十万

字数なんだ!合理的ですね。

「見えるように名前を出す」ための出費というのは、(動物のコミュニケーションに見られるような意味での)ディスプレイの一種です。それが無意味であるからこそ、(同じ価値観や文化における)群れの規模、経済力、それらの結びつきを示す良い指標になる・・・という観点において意味があります。逆に見れば、我々の世代がこういう無意味な出費をしなくなるというのは、群れの規模の縮小、経済力の低下、それらの結びつきの弱さのどれか、あるいは複数を意味する事になりますね。

血も涙もない話をしたあとに言うのもなんですが、こういう社会的行動に生物的意味があるからには、葬儀業者はそう簡単に減るとは考えられません。文化・方式が変わる事はあっても、それを敏感に感じ取ってサービスを作る事が出来そうですし、それは少なくとも喜んでもらえる人が存在するという事を意味すると思っています。というのも、私は既に型にはまらない葬儀を二回、結婚式を一回既に経験しているのです。世の中はどんどん変わっていると思うのですよ。

> 次の世代には自分みたいな者やワーキングプア、そしてこの手の仏事宗教や利権に不信感を持っている者達の割合が一気に跳ね上がることになるだろう

既にそれは現実になっているようです。不信感というか、もっと積極的に宗教的理由から拒絶される事もありますし、いわゆる墓を継ぐ者が絶えるという場合も有ります。あと無縁仏(正確には葬儀が行われない事を言いたいのでこの単語を当てはめるのは変なのだが)もかなり増えてきたようですね。

個人的に今まで参加した中では、音楽奏がすばらしいフィナーレでした。好みの音楽は良く伝えておいたほうが良いかもしれません。あ、我々なら自作の曲を流させるという自己愛全開葬儀はどうでしょう。

文化の辞書はいつも時代遅れ

>葬儀に関しては私の母が金銭的問題も含め、もうだいたいの計画を立てています。

その点、うちは全く用意してなかったんですよね。土日で郵便局からお金を下ろせなかったりして、お別れの日の当日の十分くらいの空き時間を利用して、急遽帰省した妹の口座から必要なお金を下ろして用立てるという綱渡りぶりでした。

>字数なんだ!合理的ですね。

価格の設定の仕方は場所によって様々みたいですけど、そういう所もあるようです。いずれにせよ、原価が無いものであるにもかかわらず、結構なお値段がするようですね。葬儀屋と坊さんとのつながりによって用意されている“セットもの戒名”だと三万くらいで付けてもらえたりもするようですが、うちは宗派が違うということで、取りあえずそれは遠慮しました。

>それは少なくとも喜んでもらえる人が存在するという事を意味すると思っています。

問題は、もはや「群れの規模の縮小、経済力の低下、それらの結びつきの弱さ」が顕著になっている場所でも、規定路線としてそれが強いられてしまう状況があることです。そしてディスプレイだけが残った…みたいな。まあこれは予め計画を立てていれば回避することもできるんでしょうけど。しかし、今のことだけで精一杯な人間は、なかなか未来のことまでは考えられません。それをしてしまうとどんどん精神的に追い詰められ、今のことさえままならなくなってしまうので。本当に余裕(ゆとり)が無い人間はそうなってしまいます。

>好みの音楽は良く伝えておいたほうが良いかもしれません。あ、我々なら自作の曲を流させるという自己愛全開葬儀はどうでしょう。

う~む、私の場合、そもそも死んでもそれを悼むべき人間がいないですからねえ…。しかし、音楽好きが自分の葬式にはこの曲を流して欲しい、というようなことを口にすることはよくありますけど、自作の曲を指定というのは余り聞かないですね。やはりそういうのは憚られるんでしょうか。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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