ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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むしろ常識や道徳を真に受けた者がひきこもりになっているんだと思うが

“引きこもり”へまっしぐら どうする?わが子が「4ナイ生」だ(ゲンダイネット)

 就職もダメとなると、4ナイ生はそのまま“引きこもり”になりかねない。北海道では、無職の長男(23)が両親を包丁で刺し、母親(55)が死亡、父親(57)は重傷を負う悲劇が起こった。

 長男は大学を中退してから仕事をしておらず、「両親から〈働くように〉と日頃から言われていて、うっぷんがたまっていた」と供述している。

 最悪の事態だけは避けたい。

「早いうちから、社会とのつながりを持たせることが重要です。友達がいないのではないかと感じたら、嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞くなどして接点を持つこと。定期的に親子で外食に行く機会をつくってもいい。子供が親に対して反発心を持っているようであれば、自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ、会社や就職の話をしてもらう。親ではない他人の話なら、子供のほうも納得して聞きやすいものです」(石渡氏=前出)

ゲンダイネットの記事にいちいちマジレスしても、と思う人もいるだろうけど、残念ながらこういう考え方こそが世間の一般常識だと思うので言っておくと――「嫌がられてもいいから学校生活のことをしつこく聞く」なんてしたら、「早いうち」からうっぷんが蓄積され、「最悪の事態」が起こる可能性を高めるだけだろう。しかも、「自分の兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」たらその者達を巻き込む可能性だって出てくる(そもそも、親自体が親戚や兄弟、同僚と上手くやっていけていないケースが考慮に入れられていないのも妙な話だ)。それで事件が起こったら、こういう動きを取ることを勧めたこの人物は一体どう責任を取るつもりだろう?まあ、どうせその提案を真に受けた者、そしてその動きに連動して事件を起こした者の自己責任ということで済ませるんだろうけど。何にせよ、こんな危険な賭けを何の留保もなく勧めるなんて、余りにも無責任だ。
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▼(1)出口を防がれてなお注ぎ続けられるストレスの行方

この記事のように、日本には“はみ子”になる(友達がいない)ことがまるで道徳的に悪であり、恥ずかしいことであるかのように思わせる風土がある。大抵の人間はそれを自身の感覚として内面化してしまう。だが、全ての人間がある一つの枠組みに上手く収まり切るなんてことは現実的にまずありえない(――「現実を見ろ」と言う人間の多くは、この事実を決して「現実」として受け入れようとはしない)。枠組みの形が一様であれば、どうしてもそれに上手く馴染める人間とそうでない人間がでてくる。そして“そうでない人間”がその常識を内面化してしまった場合、その者は内と外の両方からひっきりなしにストレスを受け続けることになる。

ストレスが掛かるのが外からだけだったら、その環境から離れればストレスから逃れることが出来る。外から発せられるそれを真正面から受け止めず、上手くイナすことでダメージを軽減させることも可能だろう。また、何らかの方法で憂さを晴らし、溜まったストレスを低減させることも出来る。しかし常識が内面化されている場合、自分自身がストレスの出所になってしまっているので、それを体現出来ていない以上、どのような環境に居ようともストレスからは逃れられない。よって気晴らしをすることも難しく――さらに言えば、そういった者は気晴らしは現実逃避であり、悪であるという一般的道徳を内面化している可能性も高い――常に大きなストレスを抱え続けていなければならなくなる。

そういった状態に陥った者は、それ以降どうなるか。その流れを幾つかに分けてみると、

(1)常識を体現できるようになってストレスから開放される
(2)常識的感覚が薄らぐことで抱えるストレスの量が減る
(3)キャパシティーを超えたストレスを抱え続けたために精神的に消耗し、自滅する
 (これは道徳的に悪である自分を自身の手によって滅ぼした、とも考えられる)
(4)抱え続けてきたストレスを一気に吐き出して暴発する
(5)自身が世間にとって悪であることを完全に受け入れ、より悪らしく振舞うようになる

大体こんな感じになるだろう。

どうも当該記事では一つ目の流れしか想定されていないようだ。しかし、こういった状況が成立している以上、当然二つ目以降の流れに収まる可能性だってある。記事で触れられているタイプの事件なんかは、(4)と(5)の二つの内のどちらかに収まったケースだろう。そういった危険性について全く鑑みず、“はみ子”により大きなストレスを掛けることで一つ目の流れに追い込むこと/追い込めることだけを考えてそれを行うのだとしたら、それは余りにも無謀な行為なのではないか。

仮に自分の子供が(1)の流れに収まっても、全ての人間が一つの枠組みに上手く収まりきることがありえない以上、それは他の家族に於ける二つ目以降の流れを再生産することになるだろう。何故なら、“はみ子”になるのは悪であるという常識を肯定したまま社会的成功を収めた者は、きっと集団に馴染むために行った――そのために邪魔であった――自己の感覚否定と成功体験を結びつけ、そこにアイデンティティを見出すことでより先鋭的な常識布教者になるだろうからだ。そしてその者が他人からされたように、今度は自らが世間の一部として、自身の成功体験から獲得した実感主義的価値観を常識/道徳として他人に植え付け、“収まりきれない者”に自己否定を迫ることでストレスの絶対量を増大させる要因となるだろう。後は既に述べたことの繰り返しだ。

つまり、そのような常識や道徳観によってこういったループ状況が作り出されること自体が問題視されなければならないのではないか。

▼(2)その者の存在をも否定する、猛毒としての道徳

記事には「子供のほうも納得して聞きやすいものです」と、まるでその常識/道徳を納得させることが出来れば問題が解決するかのよう書かれている。しかしこれはとんでもない勘違だろう。というのも、そういった常識/道徳にある程度納得し、それを内面化するほどまでに強く内に取り込んでいるのにもかかわらず、そこに馴染めない人間がいることこそが問題なのだから。

もしその者が、やろうとすれば出来るが敢えてやっていない、というように、敢えて常識や道徳に抗っているのだ、という認識を持っていればまだ事態は穏便に収まる可能性もある。しかし、その者がその常識や道徳に納得して必死に従おうとしているのに、つまり、やろうとしているのに出来ないという認識を持っていた場合、それはその常識/道徳に照らし合わせてみる限り、己自身の本性は悪であり、存在することすら憚られる恥ずべき存在であるということになる。そしてそれは同時に、己の自意識は自分自身を全く制御することが出来ていないということをも意味するため、アイデンティティを“自分を制御している”ことに依存している自意識――殆どの自意識はそういう認識を持っているだろう――は、その存在意義を失ってしまう。

だからこそ、自分の正体が実は悪であるということを、そして自身が存在意義すら持たない恥ずべき存在であるということを隠すため、家族を避けるようになるわけだ(もちろん、家族を避けるのは必ずしもそれだけの理由とは限らないが)。そのような道徳観を内面化し、抱え込んだままでいる者から「しつこく聞く」ことで学校で“はみ子”になっている事実を無理に聞き出すことは、その者からすれば、家族から自身の悪と恥を暴き出され、その存在意義の無さを正式に通告されるのと同義だ。これはある種の死刑宣告にも近い。実際、その事実が発覚した後、家族がその道徳観に基づいてさらなる抑圧を掛けるということは、その者に対して“今の自分”を殺せと迫ることでもあるわけだから。「やろうとしているのに出来ない」と認識していながらそういう状態に陥っている者からすれば、それはただの「死ね」だ。ましてやそれを「兄弟や親戚、会社の同僚などを同席させ」た場所で行うということは、その糾弾会を公の場に持ち出すということであり、尚更その者を窮地に追い込むことになるだろう。

▼(3)何の考えも無しに「しつこく聞く」は一か八かのギャンブル行為

つまり、ここでこのジャーナリスト(及びゲンダイネット)が勧めている方法は、「出来ないなら死ね」とはっぱをかける行為であり、一か八かのギャンブル的行為だと言える。しかしそうであるなら、ギャンブルが失敗した時の危険性もまたちゃんと情報開示として通告しておかなければならないだろう。そのギャンブルによって子供が「じゃあ死ぬ」と言って自殺するかもしれないし、「むしろお前が死ね」と言って親を殺しに掛かってくる可能性だってあるわけだから(現に、記事で触れられている事件ではそうなったわけで)。

自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示という二つの前提条件が成立している時にのみ認められる極めて限定的な枠組みだ。常識や道徳の抑圧で選択肢を奪い、情報を隠蔽しながら特定のベクトルへと追い込んでおいて、起こった結果は全て追い込まれた者達の自己責任と言うのは、詐欺師や恫喝師のやることだ。

▼(4)「“はみ子”は恥であり悪である」の内面化は孤立を固定化する作用がある

問題はそれだけではない。「“はみ子”になることは恥であり悪である」という道徳観が厄介なのは、孤立をより堅固に固定化してしまう機能をも持ち合わせているということだ。というのも、自分の本質が悪であり、その存在が恥であると感じている人間にとっては、その後ろめたさ故に、他人と上手く接することが極めて難しいものになる。尚且つ、それが「他人に迷惑を掛けてはならない」や「相手の立場に立ってものを考えなければならない」といったこれまた非常に一般的な道徳と混ぜ合わされてしまうと、よりその毒性が強まることになる。何故なら、自身が悪であれば他人に関わること自体が悪行となるし、自身の存在が恥じであると感じているような自己評価の低い人間が他人の目線で自分のことを見れば、自ずとその他人にとっても自分自身は価値が無いということになるからだ。自分から売り込みのアクションを起こさなければならないコミュニケーション原理主義の現代日本社会において、これ程大きなハンデを背負わされることは他にあるまい。

▼(5)後ろめたさが生存競争の鍵

逆に言えば、こういった常識的・道徳的感覚を他人に上手く植え付けることが出来れば、その者の社会的競争力を骨抜きにして追い落とすことが出来る、という見方も出来る。そういう視点から見れば、現代社会においては、如何に後ろめたさを抱かせるか/抱かずにいられるか、ということが生存競争の一つの鍵になっているとも言える。くしくも、そのちょうど分かりやすい例を当該記事は自ら体現して見せてくれている。

「〈ヘタな会社に入ったら、子供が大変だ〉なんて考えるのもよくない。仮にブラック企業だったとしても、働いて苦労することで成長する例はゴマンとあります」(石渡氏=前出)

法的・人道的に問題のある活動を低減させるのではなく、そういった活動が行われることを前提とした上で、それへの順応(=成長)を迫ることの一体どこに正当性を見出せばいいのだろう?なぜ、そういった活動の是正を訴えるのではなく、それへの順応の方を訴えるのか。ブラック企業の広報がそういう主義主張を並べ立てるのならわかるのだが、仮にもジャーナリストの名を名乗る人物がそういう主張を行って恥ずかしくないのだろうか?このようなゴシップ記事を次から次へと生み出し続けることに罪悪感は感じないのだろうか?――恥ずかしくないのだろう。罪悪感を感じないのだろう。少なくとも、それを問題なく継続できる程度にしか。

つまり、恥を感じる感覚が薄く、世間の常識や道徳などものともしない強靭な自己肯定があるからこそ、この者達は立派な社会人としての地位を獲得し、その活動を維持することが出来ている。要するに、常識的・道徳的感覚なんてものは、社会生活を送る上で一切必要ないものなのだ。そんな感覚よりも、ただその場その場の状況に合わせて上手く振舞うことが出来る能力さえあればそれでいい。感覚として内面化され、固定化された道徳感や常識的感覚は、刻一刻と変化していく環境への適応ということからすれば、邪魔なものでしかないだろう。

▼(6)常識/道徳への最適化と自主性の抹殺は背中合わせ

そもそも、周囲の常識に合わせるために無理して自身の感覚を殺し続けるということは、同時に個の内側から出でる自主性そのものを抹消しようとする行為でもある。それが行き過ぎれば、例えその場所の常識に自身を最適化することが出来たとしても、一度自らを規格化するために参照した環境を失ってしまったら、その時点でもうジ・エンドだ。自分殺しによる最適化なんてそう何度も出来るわけではないし、自らを否定し続けたそんな人間から生きる動機が湧き出てくるはずもないから。仮にその環境に上手くしがみつき続けることが出来たとしても、それはもはやただの奴隷でしかないだろう。

即ち、周りの言いなりになって世間一般の常識や道徳を(知識として教えるだけならともかく)感覚化して子供にホイホイ植えつけるということは、その者の自主性や生きる動機を抹殺し、世間に生贄として差し出す行為に他ならない。そしてその行為は恐らく、自身が常識的・道徳的に優れた者であることを世間に証明するために行われるのだろう。結局それは、親自体が既に世間の奴隷となっていたということでもある。だが、そうやって作られた家族は、ある種の奴隷栽培工場みたいなものだ。そしてその末路は悲惨なものだ。

 大学を卒業したら自活するように今から言い聞かせておく。カネを稼ぐのは厳しいことだと教えておけば、必要以上の依存心は抱かなくなる。

これにしても、どう考えても逆だろう。「カネを稼ぐのは厳しい」、そして自分にはその能力が無い、と思うからこそ、そのための動きを取ることが出来なくなるのであって。そもそも、自身の存在意義を一般常識や道徳に依存した形で獲得している人間、或いは他人の存在意義をそれによって判断している人間が、「依存心云々」と言ったところで何の説得力もない。自主性を重んじるなら、必要以上に一般常識や道徳に惑わされないよう、それらが余りに強く内面化されてしまうのを防ぐことをまず考えなければならない。

まあだから、どうせギャンブル的な賭けを行うなら、まず自らの存在価値を世間の目に依存した形で獲得することを止め、その子供を奴隷たらしめるカセにもなっている常識/道徳の起爆装置を外しに掛かることを目指した方がいいだろう。但し、失敗すれば自らも爆発に巻き込まれることになるが。

▼(7)「昔ながらの日本人」は時代に取り残される

就活で苦労している子供に、〈しばらくフリーターでもいいから、ゆっくりやればいい〉なんて言うのも大間違いだ。

うちもこういう考えだった。今の若い人は知らないかもしれないが、昔はフリーターが今のニートに近い扱いを受けていた。でまあ、ちょっと髪を染めた者でも「不良だ!」というような時代錯誤の価値観を受け継いでいたうちの家族は、自分も親も、フリーターなんて到底受け入れがたかった。だからその選択肢を初めから捨てて、正社員だけに狙いを定めていたわけだが、特別秀でた能力があるわけでもなく、ただでさえ自分を売り込むことがど下手な上に、さらに就職氷河期が重なったこともあって、自分には余りにもその壁は高すぎた。今考えてみれば、初めからそれを諦めてフリーターを目指していれば、もしかしたら何らかの職にはありつけていたかもしれない。まあ無理して何かを続けている以上、どの道最後は同じ結果に落ち着くことになるだろうが、もしかしたらそうでない道を見つけられていたかもしれない。つまり、時代はどんどん変化しているのに、こういう時代錯誤の道徳感や価値観を植えつけられ、いつまでもそれを捨てることが出来なかった昔ながらの古いタイプの日本人は、時代に取り残され、ニートやひきこもりにならざるを得ない(もしくは世間の奴隷として生きながらえるか)。ニートやひきこもりは、恰も最近出てきた新しいタイプの人間であるかのように言われることが多い。だが、実際のところはむしろその逆だろう。

そもそも、刻一刻と変化する社会環境に柔軟に適応しろ、という要求と、古い価値観を守れ、という要求を同時にすること自体に無理がある。というか、今の日本経済(企業)はフリーターのような低賃金・不安定雇用の上に成り立っているという事実を知らないのだろうか。ゲンダイネットを運営している会社、及びこの手のフリーター批判に同調する者が所属する会社だって、そういった存在に依存した形で成り立っているという面もあるはずなのだが。

▼(8)「問題」とは常に「つながり」そのもののことである

社会とのつながりを持たせることが重要です。

この者が言う「社会」とは一体何のことなんだろう。社会と「つながり」を絶つことができる場所なんて、一体この地球上のどこに存在するというのか。ニート、ひきこもりという概念が生まれるのも、誰かにその肩書きが付されるのも、その者が社会の渦中に身を置いて「つながって」いるが故のものだろう。本当に一人でいれば、その者は決してニート、ひきこもりにはなり得ないわけだから。つまり、この問題に限らずこの社会に存在するありとあらゆる問題は、元々社会との「つながり」の中で生み出されている。即ち、「問題」とは常に「つながり」そのもののことなのだ。

そしてこの問題は特に、一方では社会における一般常識や道徳を、自分殺しを行うほどまでに強く内面化してしまう、それほど深い社会との「つながり」を持ってしまったが故のものであると同時に、もう一方では、一度その経歴を持ってしまえばそこから脱出することは極めて困難になるという、「つながり」の在り方の硬直化によってその状態が固定化されてしまうというものだ。つまり、むしろこの問題は、その非常に深く硬い「つながり」の在り方を如何にして変えるか、ということこそが問われるべき性質のものなのだ。よって、つながりを持たせれば解決、というのは、その問題をその問題のまま温存させよ、と言っているのと同じことになる。

 ***

それにしても、ものを考えることを生業としている者達がこれなんだから、所詮労働の機能なんて建前であり、役割なんて嘘っぱちだということがよく分かる。実際は、機能や役割、そして(他人に押し付けるものではなく、自身のものとしての)道徳や常識なんてのはどうでもいいことで、本当に重要なのは処世なんでしょ、という。そういった情報を常識/道徳によって隠蔽しておきながら自己責任も何もあったもんじゃない。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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