ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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嫉妬が生み出す厳罰感情

ニュー速クオリティ:ノルウェーの刑務所がヤバイ、とにかくヤバイ

81 ソラスズメダイ(愛知県) 2010/05/14(金) 01:57:13.60 ID:Nzuoeumn
ノルウェーで悪いことしてくるわ

92 ゴマモンガラ(石川県) 2010/05/14(金) 01:59:52.85 ID:ou9VPnO+
ノルウェーって一番重い刑でも懲役21年とかなんだよな
軽すぎるだろ

220 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 02:43:31.79 ID:5He5ZM5x
一般的な社会は先進国最低だろうけど、刑務所なら日本はそんなに悪いほうじゃないだろ
健康診断とかもちゃんとするし、労働時間も法律の範囲で決まってるし、食事は栄養バランス考えて作られてるし
読もうとすれば、本とかだって読めるし
一般的な日本の労働者に比べれば、賃金以外はかなりまともな生活送ってるよ

228 タイガーレッドテールキャットフィッシュ(catv?) 2010/05 /14(金) 02:45:29.15 ID:7hizmKEr
>>220
日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw
アメリカの刑務所は借金負わされたりするw無限ループが待ってる

276 オニイトマキエイ(東京都) 2010/05/14(金) 03:04:01.73 ID:5He5ZM5x
犯罪者をどうするかってのは、世界的に解決されてない問題だからなぁ
放って置いたらまた犯罪して一般人に危害を加えるだろうから、行政が自立支援はせざる得ない
かといって、犯罪したら即死刑か終身刑なんてわけにもいかないし、
結局、やったもん勝ちみたいになってるんだよね、今のシステムは

犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する意見は結構よく見かける。しかしこれは全く妙な主張だ。というのも、「やったもん勝ち」というのは先行者が有利になる状況を指して言うものだろう。犯罪行為の一体どこにそのような要素があるというのだろうか?今まで犯罪とされていなかったものが後に犯罪と規定されたことに対し、「あれはやったもん勝ちだった」と後から振り返るのなら分かるのだが。

まあ、犯罪を行って捕まらない人間もいるわけで、そういう状況を指してそのように言うのは分からなくはない…が、その状況を成立させるためには、その者がそれなりの特殊なスキルや条件を持ち合わせていることが必須となり、誰にでも出来ることではないため、やはり「やったもん勝ち」ということにはならない。
-----------------------------------------------

▼(1)実際上の≪包括的犯罪行為≫と想像上の≪純粋犯罪行為≫


大体、本当にそれが「やったもん勝ち」だと思うのなら、やればいいじゃない。勝てばいいじゃない。しかしそう言っておきながらやらないのは、「絶対に儲かりますよ」と他人に言って置きながら自分はやらないのと同じで、結局本音では「やったら負け(割に合わない)」と思っているからだろう。

じゃあ何故、自分が割に合わないと思っていることを実際に行っている者に対して、恰もその者が得をしているかのように言う(感じる)のか。恐らくそれは、純粋な犯罪行為と、必然的にそれとセットになって付いてくる様々な条件――社会システムによって罰を受け、ハンデを背負わせられる可能性や、民衆に娯楽としてリンチされる可能性が高まる/罪悪感を感じることによって精神的に消耗する/衣食住に不自由している/犯罪行為でしか欲求を満たせない資質を有している、など――を切り離して考えているからだろう。そしてそれらを全て切り離した、実際には存在しない想像上の≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽の取得だけを見ている。

つまり、自らの行動上における犯罪行為の可否は、それに伴う様々な条件を加味した≪包括的犯罪行為≫を見て判断をしている一方、他人の犯罪行為に対する損得勘定に関しては、想像上の≪純粋犯罪行為≫だけを見て判断を下している。だからこそ、自らは損をしないようにと忌避した行為を他人がしていると、その者が得をしているかのように思える。

――実際には、自意識によってそのように認識されているだけであって、人間の行為は必ずしもそういう理屈上における損得の打算だけで決定されているわけではないが。

▼(2)犯罪の果実への羨望、「勝者」と「敗者」の入れ替わり

ここで一つハッキリするのは、犯罪行為を「やったもん勝ち」と評する者は、他人の犯罪行為に対してある種の羨望を持っているということだ。わざわざ犯罪行為を実際には存在し得ない≪純粋犯罪行為≫にまで分解し、それを使ってその行為者を「勝者」に仕立て上げて羨むほどの、強い羨望を。そしてそれを羨むということは、そこに何かしらの――“善い”ではなく――“好い”を感じている証左だろう。何故なら、あらゆる意味でそれが“悪い”ことであるなら、その“悪い”を取得してしまった者を「勝者」と称したりはしないはずだから。ただ単に“悪い”ものを獲得してしまっただけなら、その者は「敗者」になるに決まっている。つまりこれは、犯罪行為の“悪”の中には、実は“好い”が含まれているということを意味する。

犯罪行為を包括的に見た時、それが“悪い”のは当然だ。これは単に道徳的に“悪”なだけではなく、具体的な損得勘定の上でも“好い”ものとは言えまい。何故なら、犯罪者がその行為によって取得するのと似たような利益や快楽を、犯罪という危ない橋を渡らずに手に入れている人間は幾らでもいるからだ。一口に犯罪者と言っても様々ではあるが、結局それらの人間は、一般道徳上においてはもちろん、そういった実際の一般的損得勘定の評価の上でも「敗者」であると言えるだろう。そして逆に、犯罪に手を染めずに済む者は基本的に「勝者」である。

しかし、これはあくまで犯罪行為を包括的に見た場合においての話だ。そうではなく、もし≪純粋犯罪行為≫上で両者を見比べてみた場合どうなるか。その場合、その行為によって利益や快楽を得た犯罪者は、ただ“好い”のみを獲得した「勝者」となり、それを行わなかった者は、その“好い”を獲得できなかった「敗者」ということになる。つまり、≪包括的犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合と、想像上の≪純粋犯罪行為≫を前提としてものごとを見た場合では、その「勝者」と「敗者」がそっくり入れ替わってしまう。だからこそ、一般道徳や損得勘定上での「勝者」が、本来「敗者」であるはずの犯罪者を、≪純粋犯罪行為≫によって“好い”を獲得した「勝者」として羨むという、ねじれた状況が生じてくる。

▼(3)
    とある強者の厳罰感情(ルサンチマン)

では、何故こういったねじれが生じてしまうのか。それは、その者が犯罪行為の全てを本心から拒絶しているわけではなく、そこに含まれる“好い”に魅力を感じ、他人がそれを獲得するのを羨みながらも、一般道徳や常識という呪縛に縛られているからという、どちらかというと消極的な理由でそれを為さないでいるからだろう。そのせいで、「総合的に見ると結局損をしていることにはなるが、とはいえ、犯罪者がそれによって得た利益や快楽だけを切り離して見ると正直羨ましくなる」というように、素直にそれを羨むことすらできない。他人から押し付けられた一般道徳や常識によって「自由」が奪われているが故に。その奴隷であるが故に――というのも、もしそれが他人によって押し付けられたものではなく、己自身の道徳観に基づく抑制の結果であるなら、他人がその行為によって何かを得たところで、全く羨む必要などないはずだから。

そしてこの「自由」という要素に着目し、「行為と利益の取得」を見てみた時、一方は他人から与えられた道徳や常識という呪縛を打ち破り、自らが欲した果実を手に入れるだけの強さを持っていた強者ということになる一方、他方は、その果実に魅力を感じながらも、他人から押し付けられた規範に立ち向かう勇敢さも、その呪縛を打ち破る力もなかったが故にそれに手を伸ばすことができなかった、弱者ということになる。しかもその者は、他人が手に入れたその果実に対する羨みを、ストレートに表現する力すら持っていない。つまり、他人に押し付けられた道徳や常識に束縛されているが故に犯罪行為を抑制している者は、その点において全く無力なのだ。だが、そうであってもやはり羨み自体が消滅するわけではない。だからどんどんフラストレーションは溜まっていく。となれば、何とかしてそれを解消しなければならなくなってくる。

そしてそれは、総合的見地から割に合わないものとして自らが忌避した行為を、――「日本の労働者より受刑者のがまともな生活だからなw」というように――割に合う行為であったかのように価値を反転させた上で、それを手に入れようとすれば簡単に手に入ったのに、強い自制心によって敢えてしなかったとして、他人から押し付けられた道徳の呪縛を打ち壊せない弱さが故の結果を、想像上で、欲に負けないストイックな強さの結果、に置き換えることで解消される。その価値の反転は既に述べたように、包括的状況と部分的状況を比較するという手法によってなされる。

しかしながらこの反転は、欲に負けた弱い心を持っていた方が得をし、強い自制心によって道徳的な「正しさ」を守った方が損をしている、という認識を生み出す。それが人々の不公平感を刺激する。それによって、ただの羨みであったものは――道徳によって外出を禁止されていたそれは――嫉妬に変換された上で表に姿を現すことになる。しかも犯罪者が手に入れている≪純粋犯罪行為≫による利益や快楽は、想像上にしか存在し得ないものであるが故に、例え実際に自分が犯罪を行ったとしても決して手に入らない、そういう貴重性を持っている。その上そこには、背徳感とセットでしか手に入らないプレミア的快楽も含まれるだろう。それを犯罪者は手に入れている(ことになる)わけだから、余計にその嫉妬は強くなる。となれば、何とかしてその「不公平」を埋め合わせようとして、その結果、厳罰化が叫ばれるようになるのは必然的な流れだろう。

即ち他人への厳罰感情というのは、ルサンチマンの一つの形なわけだ。

――まあ「276」自体は別に厳罰化を唱えているわけではないし、この「まとめ」の上では、厳罰化を望む声はさほど強くはないけど。だが、一般社会において、不公平感から生じた厳罰化への欲求がどんどん強まっていることは、今更言うまでもないだろう。

▼(4)虚構の不公平を埋め合わせる「罰としての嫌がらせ」

とはいえ、ここでは別にルサンチマン自体を批判したいわけじゃない。ルサンチマンというものは、人間の資質がある一定の環境におかれた時に必然的に形成されるものだから、それ自体は批判の根拠にならない。それを指摘するということは、怒っている者に対して「怒っている!」、笑っている者に対して「笑っている!」と指摘するようなものでしかない。

そうではなく、自分がここで言いたかったのは、ルサンチマンというのは必ずしも所謂「弱者」だけが抱くものではないということ。そしてもう一つ、自身が持つ包括的状況と他人が持つ(都合の良いものだけを選り分けた)部分的状況を比べるようなことをすれば、それによって不公平感が生まれてくることになるのは当然だということ。そしてそのような形での比較を止めない限り、どんどん虚構の不公平が生まれて来て、それが人々を厳罰化の欲求の渦に巻き込んでいくことになるのは避けれらないだろう。

これは別に犯罪に絡む事柄に関してだけの問題ではない。ごく一般的な人々が送る社会生活の上においても、そのような比較から生じた不公平を埋め合わせするための「罰としての嫌がらせ」が行われたり、或いは誰かの不幸が、罰による不公平の埋め合わせであるかのように言われたりするようなことは、よくある。「叩き」なんかも、その埋め合わせの一つの形として行われている、という面もあるだろう。

ニート、ひきこもり、障害者などが叩かれるのも、多分、単純にその属性が蔑まれているからだけではない。その叩きには、ある種の嫉妬心や不公平感が関連していると考えて間違いないだろう。自分はこれだけ(他人から押し付けられた道徳的要求に応えるために)苦労しているのに、あいつらそれをしないでいてズルい、というように。しかしながら、そういった不公平感が生まれるのは、それらが持つほんの一部分だけを切り取って、そこだけを見ているが故のものだ。そしてそれは、その者が他人に押し付けられた道徳に逆らうことができず、それによって苦しめられながらも、その道徳に依存した形で己の「正しさ」を獲得しているが故のものでもあるだろう。

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ざるを得なかった一人として
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