ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

消えた自己責任×熱狂によって決定される「正しさ」の航路

桂南光氏がAKB商法を批判している動画がYouTubeの話題の動画に上がっていた(――自分が見た直後に消された模様)。そこでの彼の発言は以下のようなものだった。

ゆうたら悪いけど、酷い商売するわけやね。これね、宗教とかね、色んな商売…(?)そんなんをひっくるめた一つのやり方やて。違うて、これごっつ酷い。これはえげつない商売や。秋元康いう奴は、頭(?)このやり方はね、俺は賛成できひん。日本人は駄目になる、こんなことしてたら。おかしい、これは。

これは、人気投票によるメンバー内のポジション争いを「総選挙」と称し、その投票権をCDに添付するというやり方、つまり、購入したCDの枚数分投票権を得られるが故に、場合によっては一人に同じ商品を何十枚、何百枚も買わせることができるという、そういう商売方法に対して向けられた批判だ。

こういったものが「えげつない商売」であることに異論はない。商品そのものを販売するというより、ある種の危機を作り出すことで、その危機から自分が応援する人物を救いたいとか、そこで恥をかかせたくないとか、そういう心情を煽り立て、その気持ちを金の量で示させるそういった商売には、何らかの規制が設けられてもいいだろう。危機を煽って物を買わせるという意味では、根本的には不安商法と変わりないわけだから。
-------------------------------------

しかし、このYouTubeのコメントを見ていると、どうも違和感と危うさを感じた。

というのも、日本は基本的に自己責任社会だったはずだ。本来自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示が保証された場合に限り成立する、ごく限定的な枠組みだ。しかし、実のところそういった条件が整う状況はそれほど多くはない。というのも、普段の日常生活からして、物理的制限や社会的・道徳的抑圧によって恒常的に自由は奪われているからだ。尚且つこの社会は、常識や道徳などが生み出す嘘の情報で溢れかえっている。それ以前に、「これが最善の選択だ」と思ったことに最大限の努力を払ったことが、最悪の結果を導いてしまったりするのが人生というものだろう。

つまり、人生において適切な情報開示など存在しない(自分は自由意志自体信じていないので、そもそも選択の自由自体が存在しないと思っている。便宜上そういった概念が必要となることは認めるが)。そんな「人生」にすら自己責任という概念が突きつけられるのが、この日本という国の一般的社会規範だったはずだ。

ところが、恐らく数十人もの人間がコメントを書き込んでいたであろうYouTubeのコメント欄は、AKB商法に対する非難で溢れかえっていた。しかし、この商売は倫理的には問題はあるものの、法的には問題がないはずだし、少なくとも、消費者側にもそれを購入することがどのような結果を招くか、という情報開示はなされていたはずだ。貧困ビジネスのように騙しもなければ、それに乗らなければ行く場所が失われるとか、そういう抑圧もない。ただ、商品を買いたい奴だけ買えばいい。買いたくない奴は買わなければいい――自己責任理論からすれば、ただそれだけのことであるはずだ。つまり、「人生」にすら自己責任を適用してしまう日本社会において、こういったやり方が一方的に批判されるというのは、明らかに統一性がない。この事案は、自己責任が成立すると目される、数少ない例の一つであるはずなのだから。

それに、最近は南光氏の姿も余り見なくなったが、以前南光氏がやっていた帯番組などを見ていた自分からすると、南光氏もまた、どちらかと言えば人生にも自己責任を適用するタイプの人間であったような印象がある。何故それが、こういう時だけ急に正反対の論理を唱え始めるのか。非常に違和感がある。

 ***

こういった様子を見ていると、どうもこの国においては理念というものが著しく軽んじられているように思えてならない。そしてそれによって生み出された論理は、単にその時々のイメージの良し悪しによって恣意的に出し入れされているだけなのではないか?だが、それでは対話も議論も成立しようがないだろう。そのことはコメント欄にも表れていた。というのも、そこに存在していた殆どは、論拠を示さないタイプの批判――つまり中傷とも言えるものが大半だったからだ。

確かに選挙っていうには無理が有るな。一人一票のファン投票ならともかく。

投票制度は面白いと思うけど
CDを何枚も買う(買わせる)投票の仕方はいかがなものかと思うな

芸能界やCD業界とかは凄い有難いんだろうけどさ
10代とかの未成年の女の子達を、総選挙とかいうショーレースまでやって
変な気持ち悪い商売してるなあって言うのは同意。これを大人達が倫理上や
彼女達の人権や将来、また商売上どうなのか。カルト宗教などに近くはないかなど
議論や批判。制限していかないといけないだろ。日本は本当こういうのが甘い

ちゃんと論拠を示してそれを批判していたのはこの三つくらいだった。数十人もの人間が書き込んでいたと目されるコメント欄において、たった三つだ。

そして、「そんなことない。これアイドルの基本です」と言ってAKB商法を擁護するような発言をした堀ちえみ氏は、早速バッシングの対象になっていた。おそらく今回のことが原因となって、これからも何らかの機会がある度に叩かれることになるのだろう。

つまり、この国の社会的趨勢における「正しさ」が何によって決定されるのかと言えば、それは人々がその時々に抱く気分と雰囲気と印象、そしてそれに呼応した民衆の怒号とリンチ――即ち、何の理念も持たない空っぽな熱狂、それこそがこの社会の「正しさ」を決定する源となっているんじゃないか?どうも、そのように思えてならない。YouTubeのコメント欄が、理念無き熱狂によって生み出された「正しさ」に支配されていたように。AKBのファンが熱狂による「正しさ」に絡め取られているように。

コメント

なんか投稿出来ていなかった

え~と、あれですよね。あえて呼ばせていただきます。


(。Д、゜)キャバクラ


検索してたらこんなの出てきた。
www.yamaguchi.net/archives/006388.html
・・・以下、画像検索
http://www.google.co.jp/images?q=dream+c+club&oe=utf-8&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=AB4VTIDlDdyPcKvg7IoM&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CD4QsAQwAw

・・・大丈夫。若く見えますが十八歳以上です。ぅゎぉぃ
何でも二次元になる世の中ですね。

妹が総選挙が何たらとわけの分からん話を振ってきたのですが、そういう事でしたか。「これアイドルの基本です」という話が本当の事なら、この業界は公然とキャバクラ的営業をしているのでしょうか?未成年だらけなのですから、直説法には触れないものの、恐ろしいです。(ついでに言うと、生物学的にはともかく別の意味で問題が・・・)


> 堀ちえみ氏は、早速バッシングの対象になって[中略]機会がある度に叩かれることになるのだろう。

芸能界には私が疎い事を認識した上で書きますが、業界人の場合、実際のところそんなに叩かれるとは思えません。メディアも含めた広義の芸能界と呼ばれるものは、それで利益を得る側ですし、少なからずその源を叩くとは思えません動画を削除するというのは削除しない事による不利益の方が明らかに大きいからなのでしょう。思うに、これを「叩く人」というのは、普段からその手の商売を快く思っていない人や、女性の権利に敏感な人や、各種人権団体みたいなのが多いのではないでしょうか?つまりこれを機会としたバッシングではなく、普段から立場の対立する人間が多いという事です(後述します)。


> この事案は、自己責任が成立すると目される、数少ない例の一つであるはずなのだから。
> 単にその時々のイメージの良し悪しによって恣意的に出し入れされ[中略]対話も議論も成立しようがない[中略]つまり中傷とも言えるものが大半だ

「そんな業界に行った人間が悪い、そんな商品を買った人間が悪い」という論理ですね。現状に疑問に感じてらっしゃるようですが、私は疑問に感じません。これは認知バイアスに過ぎず、何か特別な事はおきていないと考えます。

架空の駅前アンケートを想像してみましょう。現在国会で審議中の架空の法案があり、その賛否についてアンケートが行われているとしましょう。しかし、ただのアンケートではありません。朝のラッシュ時に、でかでかと「日本共産党」と看板を掲げられています。アンケートに答える人は熱心な支持者や、はたまた狂信的な反共産党派ばかりになる事は容易に想像できます。大半の忙しい人は素通りですね。今回の例では、共産党支持者=議論も成立しない人、狂信的反共産党派=堀ちえみ氏、電車に乗り遅れた人=論拠を示した人です。ここで注意しなければならないのは、法案に賛成だった(あるいは反対だった)人がメージの良し悪しによって恣意的に出し入れされているのではなく、対話も議論も成立しようがないのは全体のごくごく一部・・・と書くと、なんか共産党が悪魔の手先みたいですが、何か恨みでも有るわけじゃなく、ただ単に良く知られたマイノリティーだったので使いやすかったんです。

何が言いたいのかまとめます。先鋭的に見えるものや目に付きやすいものは典型ではない(インターネット上の情報は特に偏っている)、それにも関わらず人間はそれを各集団を代表しているとみなす本能がある。結局それが熱狂という形をとる最大の要因じゃないかと思います。少なくとも、キャバクラに関しては現時点で何か熱狂というような状態は世の中で見受けられなし、認知バイアス説は現状をよりよく説明しますし、例え熱狂があったとしてもごくごく一部の人間の間でしかないでしょう。

認知バイアスへの気づきは、恐怖と苦痛を払拭する救世主となるか

>この業界は公然とキャバクラ的営業をしているのでしょうか?未成年だらけなのですから、直説法には触れないものの、恐ろしいです。

なるほど。言われてみれば、あの商売は形態的にはまさにキャバクラそのものですね。正直自分からすれば、何故金を払ってまであんなストレスの溜まりそうな場所にわざわざ出かけていくのかさっぱり分かりませんけど。しかし逆に、「キャバクラですが何か?」と開き直られた方が、自己責任という論理を打ち崩すのは難しくなりますね。でもそれだと風営法に引っかかるからそう言わないのか。

未成年云々というのは、本来ならモーニング娘の時に問題化されていてもおかしくはなかったんですけどね。そういう問題提起が殆ど出てこなかったことにはかなり違和感を感じていました。そこでその問題が見過ごされたことによって、未成年を使ったこのような形での商売を可能とする土壌が形成されたのかもしれません。

 ***

で、本題です。

>業界人の場合、実際のところそんなに叩かれるとは思えません。メディアも含めた広義の芸能界と呼ばれるものは、それで利益を得る側ですし、少なからずその源を叩くとは思えません動画を削除するというのは削除しない事による不利益の方が明らかに大きいからなのでしょう。

この場合、叩かれるというのはあくまでネット上での話です。

>先鋭的に見えるものや目に付きやすいものは典型ではない(インターネット上の情報は特に偏っている)

これも特に異論はありません。YouTubeで叩いていた人も、全体から見ればマイノリティでしょう。

>認知バイアスに過ぎず

しかし問題は、それが少数派であるか否かではないと思うのです。というのも、例えそれが全体から見れば少数派であっても、その集団の熱狂は、マジョリティ、或いは其々の個人に間違いなく影響を及ぼすからです。例えばこれ↓なんかはその分かり易い例と言えるでしょう。

映画:「ザ・コーヴ」上映中止 東京・渋谷の映画館、抗議相次ぎ
http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20100604ddm041040046000c.html

民主主義の成立において大前提となる表現の自由という観点からすれば、相手の表現自体を封じることによって自身の正しさを訴えるようなやり方は、本来なら絶対に許されてはならないことです。このことに反対する人は殆どいないでしょう。そして、この映画館に圧力をかけたのは、おそらく数十人程度、多く見積もってもせいぜい数百人くらいではないでしょうか。全体から見ればほんの一掴みの一掴みです。よって、本来ならこういうことは起こらないはずなのです。単純に、「少数派対多数派」という力関係だけでものを見るとするならば。ところが、実際にその小集団が――多数派が普段は重要だと主張しているはずの――民主主義の根幹部分を揺るがすような出来事が起こってしまう。

思うに、日本社会は小集団の熱狂に対抗する力/歯止めを掛ける力が非常に弱い。いや、そもそも熱狂に対する免疫力自体が弱いと言った方が適切かもしれません。

これは、日本社会では理念が人を結びつけるための接着剤として余り機能しないからだと思います。つまり、一般的理念を共有するマジョリティという実体は、実際には存在しない。そのため、「マイノリティ対マジョリティ」というより、熱狂によって結びつきを得た「共通の目的のために尽力する小集団」と「個々人(結びつきを持たない群集)」という関係性が作り出され、結果として、後者は前者に屈する、或いは後者は前者に歯止めを掛けられない、という事態が生じてくる。そして前者による横暴が余りにも目に余るという段階になると、今度は「結びつきを持たない群集」が――理念は接着剤の機能を果たさないので――熱狂によって結びつきを得て、それによって初めて力関係が逆転する。しかしそこで人々を結び付けているのはあくまで熱狂であるため、「何故それが間違っているのか」「大前提のルールを守らなければならない」ということより、「なんかキモい奴等がいる」というように、結局バッシング返しで対抗することになる。

もう一つ例を挙げてみましょう。例えば、学校や職場で虐めを主導しているのは大抵せいぜい4,5人くらいでしょう。数から言えば少数派です。平生から虐めが良いことだと主張する者だって滅多にいないはずです。数の論理から言えば、虐めを阻止するのは簡単なはずです。ところがそうなることは非常に稀です。そこでは一般的主張は力を持たず、それは少数の主導者達の求心力によって丸め込まれてしまいます。そしてそれが事件化するか何かでより広く世間に知れ渡ることになると、今度はその虐めた側が、熱狂により結びつきを得た、外にいるより大きな群集によって嫌がらせ(虐め)を受けることになります。

つまり、問題はそれを行っているのが少数派か多数派かではなく、熱狂に対する免疫力の無さだと思うのです。

それに――実際にYouTubeで堀氏を叩いていた人やキャバクラ商法に絡め取られている人は、確かに一般から外れた特殊な人達なのでしょう。しかし、論拠を挙げず口撃をする行為、となると、果たしてそれは特殊なものと言えるでしょうか。むしろ、ある程度の人数が集まった場所で行われるやり取りにおいて、それが全くなされないことの方が稀だと思うのですが。大抵は、なんらかのレッテルを貼り付けて相手の印象を貶めたり、或いは自身や相手の属性に正誤の根拠を求めようとするような、そういうやり取りで溢れているのが「普通」なのでは?というか、そうでなければどれ程楽か。

そのことが一番分かり易く表れているのがネットですが、それは何もネットだけに限ったことではないでしょう。ネットはそういった状況が可視化され易いだけであって。それはネットの外での会話を全て記録して、それを誰もが目にできるよう場所に置いてみれば良く分かるはずです。

…もちろん、余り理念に固執し過ぎると今度は原理主義になるという危険もあります。ですが、大前提として必要となる概念的なルールを誰も理念として共有していないとなると、やはりそれもまた、結果として熱狂原理主義になるしかないのではないでしょうか。

 ***

それと、認知バイアスに関しては他にも思うことがあります。例えばクラスで誰かが虐められている時、実際にそれを覆す力を持ちながらそのような状況を放置している多数派に対して、虐められている側はどのような認識を持つでしょうか?また、日本において最も一般的な虐めの形態は、その対象をネタにして嘲笑うというものだと思いますが、虐めっ子が提供したそのネタにクラスの大勢が反応して笑った時、虐められている側は、それをどう受け止めればいいのでしょう?その場合、その者からすれば、「周りは全員敵」と認識せざるを得ないのでは?

その時、「それ、認知バイアスだから」と言われたところで、果たしてそれは慰めになるでしょうか。それによって恐怖や苦痛から開放されるでしょうか?つまり、実際にそれを感じている者からすれば、その原因を作っている集団が特殊であるか否かよりも、それによって恐怖や苦痛が生みだれていること、そしてそれが改善されないこと自体が問題なのだと思うのです。

まあ、それは何も「特別な事」ではないのだからもっと強くなるしかない、と言われればそれまでなのでしょうけど。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/405-72165e98
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。