ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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それが芸術/表現であることは、その行為の正当性を担保しない

Togetter - まとめ「ドブス写真集を作るその道程」

流石にこの行為自体を擁護する人間は余りいないと思うが、この手の問題を起こす者が現れる度に、恰も――民主主義を成立させるための前提となる――「≪表現≫の自由」が、ありとあらゆる全ての「表現」を守らなければならないような前提をもって存在しているかのように扱われ勝ちなこと(つまり、このような問題を一般的意味としての「≪表現≫の自由」と他の「正しさ」との衝突であると認識されていること)や、その行為の正誤が、それが芸術であるか否かということと何らかの関連性を持っているかのように扱われ勝ちなことには、非常に大きな疑問を感じる。

以下、そのことについて書こうと思うが、その前に法律について。――法律による罰則は、民衆に感情的満足をもたらす。だから、それは社会的なガス抜きや為政者の人気取りのための道具としても機能してはいる。だがそれは本来、社会的インセンティブとしての機能を司るためのものだろう。つまり、法律というものは根本的には、その場所の社会的環境をある状態へと誘導することを目的として、個々人の損得勘定に働きかけるためのものであり、そうであるが故に、法律と何らかの概念的正しさは必ずしも一致するとは限らない。

そのことは、もし仮に法律で残虐行為が認められれば、それによって今まで駄目だったはずの残虐行為が突然「正しいこと」に反転するのか?ということを考えてみればよく分かるだろう。要するにその両者は基本的に別個のものなわけだ――もちろん関連はしているが。そういうわけで、ここでは概念的な正当性に関する話をするので、損得勘定であるところの法律の話は一旦枠の外に置いた上で話を進める。
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▼(1)それが芸術であるか否かは、芸術の外における正誤とは何の関係も無い

まず芸術に関してから。

そもそも、それが「芸術であること」は、それによって引き起こされる被害から生じる非難に対する反論の根拠にはなり得ない。何故なら、それが芸術であるか否かは、原理的に言って、結局個々人の感覚に依存せざるを得ないものだからだ。もしそれが何らかの正しさの根拠になるとするならば、それは個々人の感じ方に正しさを依存することになってしまう。だがそれはどこまで行っても個人のものでしかないだろう。だからそれが集団における共有物としての正しさの根拠にはならない。

では何故、芸術が「個々人の感覚に依存せざるを得ないもの」と言い切ることができるのか。それは、もし芸術であるか否かの判断が、単なる人気投票や権威(お上)によって決められ得るものだとすればどうなるか、ということを考えてみれば自ずと導き出されるだろう。というのも、もし芸術がそのようなものであるとするならば、芸術をその他一般の「商品」や「肩書き」と差別化することができなくなってしまうからだ。つまり、芸術という概念の存在意義自体が消滅してしまう。

――世の中における物や人は、それらがどんなに嫌がっても、常に何らかの物差しによって価値を計られ、順列を付けられてしまうことから逃れられない。どちらの方が正しいか、という正義の天秤に乗せられてしまうことから逃れられない。人間社会に存在するありとあらゆる物や人は、そういう宿命を背負っている。

だからこそ、芸術という概念の意義が生まれてくる。一つの統一的な計測器によってその価値を計り、順列を付けることができない価値。排他性によって退けられず、其々が独立したものとして存在し得る価値。そういうものとしての価値概念が人々から望まれることになる。それが芸術だろう。

このことを別の言い方で言い表してみるならば――芸術は他の何かのためにあるのではなく、初めから芸術のためのものでしかない。それ故、芸術は(自らの持つ固有の)芸術性以外の何らかの正しさを担保するものには決してなり得ない。よって、それが芸術であろうとなかろうと、その行為の正誤(一般的意味としての正しさ)とは何の関係もない。そもそも、正誤という排他性を持つ概念と芸術とは、根本的に相容れないものなのだから当然だろう。芸術的価値が何らかの正しさに縛られないものとして存在し得るためには、それが芸術の外における何らかの正しさの根拠になってはならない。芸術の存在意義と、それが芸術の外のにおける正誤の根拠になることとは、トレードオフの関係にあるわけだ。

だから、その者の行為によって何らかの大きな被害がもたらされ、そのことを周りから非難された時、「これは芸術なんだ」と言っても、それは全く反論にならない。それは、例えば殺人をアートだと感じる人間がいたとして、その者が周りから「自分の趣味のために人を殺すのは間違っている」と言われた時に、「だってそれに価値を感じるんだもん」と言って反論しているようなものでしかない。だが、それは反論とは言えないだろう。――まあ、その者がそれに魅力(価値)を感じるのであれば、そのこと自体は否定も批判もしようがないが。芸術的観点からしても、自意識は欲求を制御するほど大きな力を持っていないということからしても。

▼(2)「≪表現≫の自由」とは、むしろ特定の性質を持つ「表現」を退ける概念である

次に「≪表現≫の自由」について。結論から言うと、「≪表現≫の自由」の≪表現≫には、「全ての表現」が含まれるわけではない。

もし≪表現≫=「全ての表現」と規定するならば、それは「≪表現≫の自由」という概念の必然性自体を否定しているのにも等しい。何故なら、その条件が真であるならば、ことさら「≪表現≫の自由」などという概念を生み出さずとも、其々はただ思い思いに自分の思う「表現」を好き勝手に行っていればよいはずだからだ。「表現」として中傷を行い、「表現」として強奪・強姦を行い、「表現」として拷問を行い、「表現」として人を殺せばいい。ただそれだけのことだろう。

そこで敢えて「≪表現≫の自由」という概念の重要性が唱えられ始めたということはどういうことか。そのためにはまず、「自由」がどのようなものかを考えてみる必要があるだろう。

――何らかの「自由」という概念を設けるということは、その枠組みで指定した特定の「何か」が他の何かによって妨げられないような環境を想定することだ。そしてその想定を具体化するためにそこで指定された「自由」を守ろうとすることは、その「自由」を守るのに障害となる他の「自由」を退けようとすることでもある。「自由」という概念は、基本的にそういった排他性を持っている。

では、一般的に言われる「≪表現≫の自由」における「自由」とは何か。それは特定の社会的地位や属性によって、意見を述べることが特権化されたり退けられたりしないという、民主主義を成立させるために必要不可欠となる前提条件としての「自由」のことだろう。つまり、一般的意味としての「≪表現≫の自由」は、特定の属性を持っていること、特定の社会的地位にある者が、そのことを理由として――ちゃんと論拠を示した上での――意見を述べることが妨げられてしまうような「表現」を排除するための概念と言っても過言ではない。そこでの「自由」とは、そのような目的のために、他の「自由」の邪魔をしてエコヒイキする性質を持つ「自由」なわけだ。

よって、当該人物が行ったあのような形での「表現」が(一般的意味としての)「≪表現≫の自由」における≪表現≫に当てはまるかと言えば、明確に否だろう。何故なら、あのような活動は容姿に自信が無い者を萎縮させ、意見を述べることを難しくさせるような環境を作り出すことが余りにも明らかな「表現」だからだ。さらに言えば、つまり、あのような形での「表現」は、「≪表現≫の自由」によって守られるべき「表現」ではなく、むしろそれによって妨げられるべき「表現」と考えた方が妥当だ。

そもそも、あの「表現」の中身は何かと言えば、それは単なる騙し討ちであり、嫌がらせであり、嘲笑いだろう。それも、何らかの「正しさ」を訴えるための手段としてそれを用いているわけですらない(――もしそうであるとすると、それはそれで厄介な議題となるのだが。というのも、そういう方法でしか何らかの「正しさ」を訴えられない資質を持つ人もいるし、いわゆる「普通の人」であっても、周りの状況によってはそういう状態に追い込まれてしまうこともあるので)。そこには何の根拠もないただの野放図な行為があるのみだ。

――前述したように、例えそれがどのような形の「自由」であっても、其々の「自由」は基本的に全て排他性を持っている。ありとあらゆる行為を守る「自由」なんてものは、原理的に存在しない。つまり、何らかの「自由」概念を打ち出すということは、その枠組みによって何を守り、何を退けるのかを選定することでもある。そう考えた時に、何故わざわざ限られた枠組みの中に、騙し討ちや嫌がらせや嘲笑いを守るべきものとして真っ先に入れなければならないのか、さっぱり分からない。いやもちろん、初めから民主主義的な「≪表現≫の自由」へのカウンターとしての、アナーキズム的なベクトルを持つ「「表現」の自由」としてその主張を行っているのなら分かる。だが、大抵はそうでもなさそうだし。仮にそうだとしても、独自定義の「自由」によって、敢えてそれらを限られた枠組の中に入れて特権化することの正当性の根拠を述べなければ、それは何かを主張しているとさえ言えないだろう。それは単に野放図なだけだ。

つまり、あの手の「表現」の「自由」を訴える人は、一般的意味としての「≪表現≫の自由」における「自由」よりも自己定義する「自由」の方が重要であるという理由を示し、それによって「≪表現≫の自由」に反駁しなければならない立場にいるはずなのだ。それが何故、恰もそれが「≪表現≫の自由」によって守られるべき「表現」であるかのように扱われることになってしまうのか。全くおかしな話だ。

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