ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「国家/社会/世間」という概念は、それ単独では正しさの根拠になり得ない

自国のチームがW杯に出場したよ。

◆<ケース1>チームが惨敗した場合

asahi.com(朝日新聞社):W杯惨敗フランス、政治問題に発展

サッカーのW杯南アフリカ大会で内紛の末に惨敗したフランス代表が24日、帰国した。排外的な与党議員有志らが、移民社会出身の選手らの再教育を求める趣旨の要望書を政府あてに提出。大のサッカーファンというサルコジ大統領はといえば怒り心頭の様子で、自ら代表の再生に乗り出した。(中略) 右派与党の民衆運動連合(UMP)の有志議員13人は23日、「もうたくさんだ」と題する要望書を政府に提出。国歌斉唱や祖国への忠誠など代表選手の義務を定めた憲章をつくり、選手全員に守らせるよう求めた。リベラシオン紙によると、UMP議員の中には、アネルカ選手ら移民社会出身者を「社会のクズ」とさげすむ人もいたという。


◆<ケース2>チームが善戦した場合

【W杯】TV観戦の橋下知事「意気揚々と国歌…教育現場はズレてる」(産経ニュース)

 サッカーのワールドカップ(W杯)をテレビ観戦していたという大阪府の橋下徹知事は30日、「惜しかった。PK戦は酷ですね。日本代表はあそこまでよくがんばった。国民は大いに盛り上がって感謝している」と話した。

 そのうえで「会場では国旗が掲げられ、国民は意気揚々と国歌を歌っていた。うちでも子供たちに歌わせた。教育現場と国民の感覚はずれている。国旗、国歌は日本の象徴であり、しっかりと教えるべきだ」と述べた。

この手の人らは何かあるたび、それにかこつけてこういうこと言い出すからなあ。物事が上手くいかなければ、それはその者達の国歌斉唱/祖国への忠誠心の度合いが足りなかった結果であり、よって人々にそれを義務づけなければならないと言い出し、逆に物事が上手くいったらいったで、それは国歌斉唱/祖国への忠誠心のお陰であり、だからもっとそれを推し進めるためにやはりそれを義務化しなければならないと言い出す。結局どっちに転がっても自分の都合の良いように持っていけるという無敵論法。こういった手法は、「社会のクズ」のように、「国」の部分を「社会」に入れ替えて用いられることも多いが、むしろこういう無敵論法にこそ「もうたくさんだ」が突きつけられるべきなんじゃないのか。

というか、国歌を一生懸命歌った/歌わなかったことと結果の良し悪しを結びつけるなんてのは、完全にオカルトでしかないだろう。それに、国歌斉唱や祖国への忠誠心を示すためのより強固なシステムが確立されている国の代表としては北朝鮮が挙げられるが、あそこはそんなに良い国だろうか。国の代表、象徴を称える、国民の鬼気迫る笑顔はそんなに素晴らしいものに見えるだろうか。

別にこれに限ったことではないが、どんなことであれ、その当人が無理矢理それをやらされていると感じていれば、その者が持っている本来の力を上手く発揮できるはずもない。当人が望んでそれをやっているからこそ、その者が持つ本来の力が引き出される可能性が生まれ、その者がその物事に関わることの価値もまた生まれてくるわけであって。それを脅しによって無理矢理自分の思い通りに動くよう仕向け、それによって相手が実際に嫌々自分の思い通りに動いてくれたところで、そんな恐怖に裏づけされた自作自演に一体何の価値があるのだろう。そんなやり方では、表向きは方針通りに動いているようであっても、人々の内心では不平不満の大合唱が巻き起こっているであろうことを想像するのに難しくないし、そういう集団のまとまりは、何かちょっとしたきっかけで脆く崩れ去りかねないだろう。まあそういうことを思い浮かべる想像力が無い、もしくはそれを何とも思わないからこそ、こういう形での要求を平気で他人に突きつけることができるのかもしれないが。
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 ▼「×国を愛せ→○俺を愛せ」「×社会に従え→○俺に従え」

これは「国家」だけでなく、「社会」でも「世間」でも同じことだが、それらは確かに組織/群れとしての実体はあるものの、かといって実際に実体を持った主体としてそれらが存在しているわけでもなんでもない。何故なら、それらはあくまで概念上の存在だからだ。

そうである以上、国家像や社会像、世間像もまた人の数だけ存在する。それが何か統一的な内容を持った一つの主体として統合され、実体化するなんてことは在り得ない。そして其々の持つそれらは、それがどのような形であるべきか、ということで常に競合し合っている。つまり、この世界は個々人の持つセカイ観がぶつかり合うことによって成り立っている。だから絶対的な真理としての「国家」や「社会」は存在しないし、その概念はそれ単独では何らかの正しさの根拠にはなり得ない。このことは、「どのような国家や社会が正しいのか」ということは設問になり得ても、「(特定のそれではなく、概念としての)国家や社会は正しいか」ということは設問として成立しない、ということを考えてみればよく分かるだろう。

ところがこの手の人達は、その概念そのものを自身の正しさの根拠とし、他人に何かを要求する。それが何を意味するかと言えば、本来ならば数多存在し、競合し合っているそれらの中でも、とりわけ自身の抱く国家像や社会像――個人的なセカイ観――を恰もその場所における唯一無二としてのそれ、つまりその概念における真理としてのそれであるかのように特権化しているということだ。そうであるが故に、自らが「国家」や「社会」、「世間」の代弁者であるとして、他人に何かを要求できる。或いは、自らの抱くセカイ観に照らし合わせて芳しくない状況が作り出されていることを見て、“「国家」や「社会」が、「世間」が軽んじられている”と言って憤ることになる。

だが実際には、そこで言うところの「国家」や「社会」、「世間」とは、しょせん自分自身の持つセカイ観のことであり、個人的感覚のことでしかない。そこで軽んじられているのはあくまで「俺の国家観」であり「俺の社会観」でしかない。そしてむしろその“軽んじ”は、――その者達が実際にそれを「国家」や「社会」と呼ぶかどうかはともかく――基本的に其々が持つそれらの概念(「国家/社会」)を重んじたが故に起こる、セカイ観同士の衝突としての結果なわけだ。

つまり、「国を愛し、忠誠を誓え」と言って他人に何かを要求するということは、結局「俺(のセカイ観・感覚)を愛し、俺への忠誠を誓え」と言っているに等しく、「社会に従え」と言って他人に何らかの態度を取ることを要求することは、自分自身の個人的感覚以外に何の根拠も示すことなく、ただ単に「俺に従え」と言って他人に迫っているだけでしかない。そこでは、「どのような国家や社会が正しいのか」という問いを通り越し、いきなり「(概念としての)国家や社会は正しい」という意味不明な結論が導き出され、それを理由として要求が行われている。

 ▼ジャンルとしての≪セカイ系≫は、現実社会におけるセカイ系願望によって否定される

数多ある内の一つでしかない個人的なセカイ観を真理に置き換え、その真理を根拠として他人に何かを要求する――そういう意味では、こういった態度はセカイ系願望の表れとして見ることも出来るだろう。

しかしそうしてみると、どうもバランスが悪い。というのも、現実社会においては、個人的な「国家/社会/世間像(セカイ観)」を真理化し、それを根拠として他人に何かを要求するという手法――セカイ系的前提を必要とするそれ――が、非常に一般的なものとして人々に重宝されている一方、創作物におけるジャンルとしての≪セカイ系≫は大変イメージが悪く、人気がないからだ。

創作物において、何をもってして≪セカイ系≫とするかということは、ちゃんとした定義は存在せず、其々見解は分かれることだろう。ただ一つ言えるのは、そもそも娯楽作品としての物語は、元々其々の持つ個人的なセカイ観を如何に魅力的なものとして拡充し、提供できるか、ということで成り立っているわけで、そういう視点から見ると、分類としてのそれはともかく、実は全ての物語はそういったセカイ系的な側面を兼ね備えている、ということだ。さらに言えば、そもそも人間は自らの持つ固有の条理性によって様々な事象を因果で繋ぎ合わせ、物語化することで現実を理解している。というか、人間はそういう形でしか現実と触れ合うことができない。そういう意味では、基本的に「現実物語」自体がセカイ系そのものとも言えるわけだ。

もちろんここでいうセカイ系とは、一般的に言われるジャンルとしてのそれとは意味も内容も異なる。が、人間は本質的にそういった個人的セカイ観という制限から逃れることはできないということから考えても、単にそれがことさら強調されているという理由だけで、ジャンルとしてのそれを否定するなんてことはできないだろう。もちろんだからといって、それが持つ内容自体が批判を免れるわけではない。そこに何か無理や欠陥、手抜きがあり、そこで提示されたセカイ観が破綻していれば、やはりそれは批判されるし、倫理的な面から咎めを受ける場合もあるだろう。他の創作物と同じように。が、ジャンルそのものが否定される言われはどこにもないはずなのだ。

――だが、現実社会における折衝においてはそうはいかない。というのも、現実社会ではそもそも、其々異なったセカイ観を持った者同士がその場所でどのように折り合いをつけて暮らしていくか、ということが常に議題となっているからだ。つまり現実社会では、其々のセカイ観が常に競合し合っているということが先ず大前提としてある。そしてその上で、それらをどう整理していくか、というのが議論であり対話であり其々の主張であるわけだから、その大前提をいきなり否定し、「私の持つこれこそが本物のセカイ観(「国家/社会/世間像」)である。だから人々は無条件にそれに従うべきだ」というようなセカイ系的主張は認められるべきではない。ところが何故か、創作物における≪セカイ系≫――ジャンルとしてのそれ――は否定され勝ちなのに対して、現実社会におけるセカイ系は大人気という。一体なんなんだろうね、これは。

 ***


いやまあ、自分のセカイで世界を塗りつぶしたいという強いセカイ系願望を持つ者からすれば、他人のセカイ観の拡充であることがことさら強調される≪セカイ系≫的創作物は競合対象としてもとりわけ目立ったものとして認識せざるを得ないだろうから、その者がそれに対して特別腹立たしく思うというのはある意味当然と言えば当然であり、その憤りは理屈としては分かるのだが…。

にしても、現実社会でそういったセカイ系願望を撒き散らしている者達が、それ故に創作物におけるジャンルとしてのそれをゴミ扱いするという日常的風景には、いつまで経っても中々馴染めない。相手のそれを否定することによって自身のセカイ観に相対的な価値をプラスしようとするよりも、素直に「他人のセカイ観が例えどれだけ世間から評価されようとも、俺にとっては俺のセカイ観こそが最高だ」と言って胸を張っていればいいのに。それが認められるのが創作や空想なわけだから。そして相手が個人的セカイ観を現実社会における正しさの根拠として持ち出した時のみ、それを精一杯否定すればいい。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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