ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

廃棄ヒキへの道×マルウェアとしての道徳

<人生トリビア>

・「自分は嫌われている」と思い続けると…死に一歩近づく。

・「相手の立場に立ってものを考える」と…もう一歩死に近づく。

・「他人に迷惑をを掛けまい」とする人間は…基本的に死ぬ。
-----------------------------------------

一つ前の記事では、「「自分は嫌われている」という前提で行動すると嫌われない」という考え方について書いたが、あの考え方に引っかかったのは、あれがポジティブ思考批判という体をなしていながら実はそれ自体がポジティブ思考そのものであった、ということがポジティブ・アレルギーの自分にとっては見逃せなかったということもあるが、それよりも、そもそも本当に「自分は嫌われている」と思って人生を送って来た人間からは、まずこういう主張は出てこないはずだろう、という大きな違和感を感じたのが最大の理由。

というのも、実際にそれを実践してきた人間の多くは、それが孤立と不幸を生むということを身にしみてよく知っているはずだから。自分がこういう状況に陥り、そこから抜け出せないでいるのも、「自分は嫌われている」という感覚を払拭できなかったことが大きく関わっているように思うし。だからそういう人間の一人としては、「自分は嫌われている」と思うこと――実際には、そのように思わざるを得ない状況の成立と言った方が適切だが――の推奨に対して拒否反応を覚えざるを得なかったということがある。

 ▼(1)廃棄ヒキへの道

では、何故「自分は嫌われている」と思い続けると廃棄ヒキになるのか、その道筋を書いてみると…

自分は嫌われている≪開始≫

他人に関わると迷惑になる

とはいえ、他人と関わって自分を売り込まないと
社会的ポジションを獲得できず死んでしまう

死ぬのはいやだなあ

売り込み(就職)活動、人脈作りしなきゃ

でも自分みたいな欠陥商品が
社会という市場で上手く流通できるはずもないしなあ…
実際、今までことあるごとに「お前(゚⊿゚)イラネ」
と言われ続けてきたわけだし

でもやっぱり死ぬのはいやだなあ

下らない商品やサービスを強引に売りつけ、
一財を築くようなカリスマ営業マンにならなくては

しかし、相手の立場に立ってものごとを考えると、
自分が価値を感じることができないものを
他人に上手く売りつけることなんてできない

幾らそれをしようと努力してみても
後ろめたさで挙動不審になったり、
慣れない生兵法(コミュニケーション技能、儀礼的振る舞い)で
大怪我をして、やはり価値は暴落する一方

かといって生兵法で身を包まずに関わりに行くと、
文化/様式的・感覚的差異という大きな溝に阻まれ、
端から門前払いされる

もはや打つ手無し

もう廃棄ヒキでいいや。
というか、死にたくはないけど、かといって
よく考えてみたら生きたいという動機自体無かったわ。
そう思えるような――そのための糧となるような――
人生経験なんて何一つしてないし。

基本的に死を待つしかなくなる≪終了≫


「自分は嫌われている」と思わなければ上手く行くわけでもなんでもないが、「自分は嫌われている」と強く認識せざるを得ないような状況が続くと、上記のようなチャートに迷い込み、そこから脱出できなくなってしまう危険性がある。

まだ「自分は嫌われている」と思っているだけなら、そこから分岐して抜け出せる可能性もある。が、その者に「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」という道徳規範が強く埋め込まれていればいるほど、その可能性は低減する。それでもこのチャートを何度も行ったり来たりしているうちに、何らかのキッカケでいつかそこから抜け出せるかもしれない。そういう余地もまだ残されている。しかしながら、生きたいと強く思えるような、或いは、自分は(そこから抜け出すことが出来るほど)有能であると思えるような経験を積んでいないと、やはりその可能性もそれだけ低下する。動機(モチベーション)というのは永久機関でもなんでもないから、肥やしとなるものがなければ、それだけチャートを行ったり来たりするエネルギーも早く尽きてしまうわけだ。そしてそのための肥やしとなる経験は、運でしか獲得できない(最善の経験を積もうとしたつもりが最悪の経験につながるのが現実。預言者はいない。故に、自意識と結果に関する因果関係の認識は、常に後から形成される)。

というか、「自分は嫌われている」という前提を持った上で「相手の立場に立って」自分自身を評価すれば、自分自身に価値が無いということになるから、結果として自己否定せざるを得ないだろう。そして自己否定とは、自身から沸き起こるあらゆる動機を抹殺することでもあるから、そういう人間がやがて生きること自体の意義(動機)を失ってしまうのは、必然的な流れと言える。(かといって、じゃあ「自分は嫌われている」と思わなければ良い、とはならない。それは自意識原因論説であり自己責任につながる。問題は、自分の感覚を自分の自意識によって自由にコントロールすることはできないというところにあるのだから。――例えば、自分の意志で自分の趣味趣向や思想、感覚、体質や記憶を改変し、別人格になることができる人間などいないだろう)

 ▼(2)マルウェアとしての道徳~ボット化する個人

しかしそうして考えてみると、道徳というのはマルウェアみたいなもんだとつくづく思う。

人間もまた他の生物と同じように、生存競争を行っていることには変らない。そこでは生存のための協力関係が築かれることもあるが、それと同時に、生死を賭けた迷惑の掛け合い合戦もまた常に行われている。幾らそれが社会システムによって婉曲化され、その事実が意識の外に追いやられようと、その事実自体が消滅することはない。

そのような状況にいながらにして本気で他人への迷惑を停止しようとするなら、結局行き詰って身動きが取れなくなり、死ぬしかなくなるだろう。つまり、本当は「他人に迷惑を掛けてはいけない」などという道徳を植え付け、それによって他人の動きを制御しようとすることこそが最大の迷惑行為なわけだ。この場合の道徳は、それを植えつけられた者を縛りつけ、内部から直接破壊行為を行っていることになる。まるで悪質なマルウェアのように。

そもそも、生活環境を整備するための競争がゼロサム化、トーナメント化しているような環境を持つ社会――日本もまたそうだろう――では、必然的に他人は生存を脅かす敵としての性質を帯びざるを得ない。しかし多くの一般道徳は、他人からもたらされ、他人へともたらすものだ。つまり、何らかの道徳が植えつけられるということは、その道徳規範が持つ特性を通して、“敵としての性質を持つ他人”から内部に直接大きな影響を及ぼされるということに他ならない。よって、「他人に迷惑を掛けてはいけない」「相手の立場に立って物事を考えなければならない」というような内容を持つマルウェアに感染し、それによって深い階層まで侵食されてしまった者は、生存競争において非常に不利な条件を背負わされていることになる。そしてそのような道徳回路を埋め込まれ、それに対抗する免疫機能を持たない者は、“敵としての性質を持つ他人”の仕掛けたマルウェアによってボット化せざるを得ない。

かくしてボット化した其々の個人は、己の内側に植えつけられたマルウェアによる制御を受けながら、自身もまたマルウェア(道徳)を複製して周囲にばら撒き始める。もちろん、どのような内容のマルウェアがばら撒かれるかということは、その者が接してきた文化によって異なる。ここ日本では、自意識万能論説(精神論や自己責任の基盤となる考え方)や社会的役割説(人間は社会の役に立つために生まれてきていて、社会の役に立つことによって初めて存在価値が認められる、という考え)的な内容を持ったマルウェアが最も流行しているから、そういった内容を持つマルウェアがばら撒かれ、またそういうものと遭遇する可能性が一番高いだろう。そしてそれによってボット化した個人はまた、そのマルウェアを複製して周囲にばら撒いていく。それでもって、たまにその規範から自由でいるように見える人間を見つけると、マルウェアの指示に従ってその対象を攻撃し始める。

そうやって多くの者がボット化し、お互いがお互いを攻撃し合い、マルウェアをばら撒き合っている。そしてそれによって他人を律し、縛り付けることで治安を守り、限られた枠組み――自分は消費財になるのか、廃棄物になるのか。それともそれらを管理する機能を持つ商品になるのか――の奪い合いを少しでも有利にできるようにと、マルウェアの植え付け競争を行っている。つまり、マルウェアによる足の引っ張り合い自体が生存競争のための重要な鍵として組み込まれている。それがこの現代日本社会なんだと思う。一度ボット化したら、自分でマルウェアの呪縛を解くことは難しいから、それならもう後は相手側を自分以上にもっと強く縛りつけるしかない、ということもあって。

これだけ物が溢れかえっている社会であるにもかかわらず、有利なポジションを獲得できなかった人間の多くが、ポジションを確保した者から力業によって奪うでもなく、非合法生存活動によって新たなポジションを作るでもなく、復讐するでもなく、ただただ勝手に大人しく生存という枠組みから降りて行ってくれるのは、そういうマルウェアのばら撒き合戦が一つの理由になっているように思う。そんな中で唯一、道徳に対する免疫を持った者だけが、その泥仕合から抜け出すことができる、と。まあ、ボット化してないからといって世渡りが上手くできるとは限らないが。

 ***

で、自分はどうかというと、もうBIOSレベルで道徳にやられているから手遅れ。もう一つ別の言い方をすれば、自分はハリガネムシ(道徳)に動機を食い尽くされてスカスカになったカマキリみたいなもの。だが水場には行かない。水場に行く気力や、水場に辿り着くことが出来るという自信すらも奴らに食い尽くされてしまったので。ボット化した者の中には、自らをぶち壊して内側をこじ開けることでそのハリガネムシを取り去り、その呪縛から解き放たれる益荒男(ますらお)もいるが、自分にはその勇気も動機も残っていない。仕方がないので、ここでハリガネムシと一緒に死を待っているという、そんなエブリデイ。

――とはいえそれは、あくまでこの「自分という状況」に対する認識であって、自分自身の意志による選択の結果としてのものではないが。それを意志の選択の結果とするためには、己の自意識が自分自身と自分の周囲の状況をコントロールすることが出来るほどの絶大な影響力を持っているという前提条件が必要となる。が、自分はそのような万能感/全能感を獲得し、それを維持し続けることが出来るような経験を積み重ねてくることが出来なかったので、そんな自意識の奇跡なんて到底信じることはできない。

というか、万能感/全能感はこの社会において、まるでそれが精神的な悪性腫瘍でもあるかのように扱われるのが常だが、「自意識を成熟化することで状況を打開しろ(できるはずだ)」という自意識万能論説を唱える人間が、そのような常識でもって他人の万能感/全能感を批判するって本当に無茶苦茶だよなあ。一体どっちなんだよ、という。まあ、万能感/全能感の意味を考えず、単にその単語が持つイメージの悪さだけを利用した結果としてのものなんだろうけど、一体いつになったらそのボケの垂れ流しに歯止めが掛けられることになるのだろうか。

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

>Fさんへ(管理者のみ閲覧になっているのでハンドルネームは伏せておきます)

コメント拝見しました。

多くの「ポジティブ」は、実はそれにとって都合の悪い事実を否定することによって成り立っているんですよね。この場合で言えば、人生の見通しについてネガティブな感情を抱かざるを得ない人間の存在が否定されて初めて、それは妥当性を獲得するわけです(そのくせ「現実は甘くないんだ」などと言うのですからおかしな話です)。はたまた、「ポジティブ」の名の下に、その者が持つ資質や感覚や振る舞い、考え方などが否定されたりする。要するに、それは本当はポジティブでもなんでもないのですが、それが「ポジティブ」の名を騙ることが、事態を益々ややこしくする原因になっているように思います。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/415-aced9aed
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。