ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

万能感とは、状況と認識の因果の逆転現象のことを言う×万能感無しに努力神話は成立しない

▼(1)「生産者vs消費者」というよりも…

宮崎駿監督iPadについて「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」と語る

あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだかけになった時も、ウンザリして来ました。(中略)一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。(中略)あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。

生産に社会的価値が生まれるのは、それを消費する者がいるからだろう。逆に言えば、それを消費する者がいなければ、その生産は社会的価値を持ち得ない。よって消費を否定するなら、それは同時に生産の価値をも否定していることになる※1。もちろんそれが消費されずとも、その生産は個人的なものとしての価値を持ち得る。が、その時のその生産は――取り分け創作などは――周りから見れば正に自慰行為そのものだろう。彼の作品づくりとて、まずは純粋な自慰行為――もちろん、ここでのそれは自己満足のための行為を指す――からスタートしたものであるはずだ。そしてそれが消費されることによって初めて、その生産は単なる自慰行為という認識フレームから脱却することができている。

 ***


ここで重要なのは、自慰行為と生産は必ずしも排他的ではないということだ。自慰行為であると同時に、生産としての価値を持っている、という状況も当然あり得る。つまりこの対立は、生産者と消費者の対立というより、むしろ自慰行為で金儲けが出来る(している)人間とそうでない人間の対立と見た方が妥当なのではないか。

そしてそれ故にその対立の根は深い。何故なら、自慰行為で生計を立てられるような人間なんてほんの一掴みだし、金儲けとまでは行かなくとも、創作などの自慰行為を社会的価値を持った生産にまで引き上げることが出来るような人間もまた、やはり限られているからだ。もちろんそれで金儲けをしたり、それを社会的価値を持つ生産にまで引き上げるためには、それ相応の苦労が必要となるだろう。だが、多くの人間はそもそも、幾ら自慰行為と仕事とを一致させたくてもできなかった人間であり、幾らそれを価値ある生産へと昇華させようとしてもできなかった(できない)人間だ。そしてそうであるが故に、その満たされなさを個人的趣味としての自慰行為で補っている面がある(というか、全く自慰行為無しに生きていられる人間なんていったどれだけいるのだろう?「私はそうだ」と思う人がいても、大抵それは自身に対する自慰行為認定が甘いだけだろう)。

ところが、その満たされなさを補うためのものとしての自慰行為を、それを社会的に価値あるものにまで昇華できる能力を持った者が非難してしまうわけだ。要するに彼の主張は、自慰行為批判というよりも、むしろ自慰行為批判という体をなした自慰行為の特権化なのではないのかと。

 ▼(2)人生における因果の認識は常に状況の後に作られる


彼は全能感を、恰も生産とは間逆のベクトルに位置するものであるかのように捉え、それを否定的に見ているように思える。だが、だとしたらそれは大きな誤りだ。では、何故それが誤りであるのか。それを説明するためには、まず全能感/万能感※2とは何か、ということを明らかにする必要があるだろう。

<追記7/20※2>途中から「全能感」という表現が「万能感」という表現に置き換わっていたことに気づいた。自分はこの二つを基本的に同じものとして解釈しているのと、間を置いて続きを書いたこともあって、より馴染みのある表現に摩り替わってしまった模様。仮に専門的に見てこの二つに厳密な違いがあったとしても、どちらも「状況と認識の因果の逆転」という要素が鍵となることには違いないはずなので、表現が入れ替わっても趣旨自体は変らないということで、ご理解をお願いいたします。
--------------------------------------------------

――その者が果たしてどのような人間となり、どのようなことをなし、どのようなことをなさないのか。それは、その個がどのような資質と環境をもって生まれてきて、どのような人物や環境と出会い、そしてどのような経験を積んでいくか、ということで決定されていく。ところが個人の意思は、その内のどれ一つとして選ぶことができない。

経験などは、一見自分の意思である程度選択することができる余地があるようにも思えるかもしれない。だが、一応セオリーみたいなものはあるにしても、其々の条件は皆違っていて平等ではないから、未来を知ることができない以上、経験の選択というのはただサイコロを振っているようなものでしかない。少なくとも、其々で条件が余りにも違いすぎる「人生」という項目においては、最善の選択なんてものは元々存在し得ない。それが最善のものであったのか、それとも最悪の選択であったのか、というような判断は、常に後になってから意味づけられるものであるからだ。

さらに言えば、意思による自由な選択といっても、その選択は、その個人が持つ条件と、その個人がどのような環境に置かれているかという、二つの条件によって常に限定されている。意思による選択は、常にこの二つの条件の奴隷であって、そこには無限の可能性などありはしない。そして、その者はどのような選択の可能性を抱えているか/いたか、ということは誰にも分からない。

これらの条件からどのようなことが言えるかといえば、それは自意識が自分という状況をコントロールしているとするには、余りにも無理があるということだ。選択はギャンブルに過ぎず、選択を制限する条件は運によって決定される。そしてどのような選択が実際に可能であって、可能でなかったのかということは、実のところ誰にも分からない。その選択がその者の後の状態にどのように関係し、影響をもたらすことになるのか、ということも。実際には、後になってからもその因果の詳細を知ることはできないだろう。人生という、余りにも広範で、其々によって余りに条件が違いすぎるその枠組みにおいては。

要するに、まず何らかの状況が先にあり、意味づけや認識は、常にその後追いとして生み出されている。「こう思うから/思ったから」ある状況が作り出されるのではなく、ある状況が作り出された後に、その状況の解釈として、「こう思うから/思ったから」が生み出されている。自意識は常に状況の後続者なのだ。

例えば、「私は生産をしたい/私は生産をしようとしている/私は生産をしている」という認識は、自意識によってそのように認識されるような状態が先に成立しているが故のものであって、そのように認識したからその状況が作り出されているわけではない。そして、それ自体は同じ経験であっても、その後に作り出された状況によって、「今から思えばアレもいい経験だった」となることもあれば、「アレが原因でこんな酷いことになった」ともなり得る。それが確定されるのは未来の話であって、現在ではない。つまり、その者が預言者でもない限り、自意識が状況をコントロールしているなどと言うことは到底できない。

だがそれでももし、個人の自意識の努力(選択)具合によって状況をコントロールし得るのだと看做すのならば、それは誰かがサイコロを振って良い目が出たら、そこから過去へ遡って、「あの時自分が良い目が出るように努力をしたから良い目が出たのだ」とか、「あの時の自分の心がけがなっていなかったから悪い目がでてしまった」というような考えを肯定しているのに等しい。

ところが、それでも世間一般では、まるで個人の意思が自己を好き勝手に動かしてきた結果として、其々が持つ現在の状況が作り出されているかのように言われる。その状況が生み出されることになったのは、その者が持つ自意識がそうなるように選択したからそうなったのだと言う。つまり、まず先に自意識の認識と働きかけがあって、その自意識の働きかけによって後の状況が形成されていくと看做すのが、最も一般的な見方となっている。そこでは状況と認識の逆転現象が起こっているのだが、この逆転現象こそが万能感の正体と言えるだろう。

そして状況と認識の優位が逆転するということは、自意識は物事の因果をも見通すことができる、ということにもつながっていく。――例えば、「お前はもっと良い選択ができたはずだし、もっと努力できたはずだ。そしてそうしていればそんな状況に陥ることはなかったのだ」などと言う者がいるとしよう。しかしそれが真であるためには、その者の自意識がその対象が持つ選択の可能性と、それによって見出された其々の選択が今の状況にどのように関係しているか、いないかという因果を見通す力を持っていなければならない。つまりこの主張は、(その者自身はそのことを意識していないだろうが)己の自意識が、本来知ることなどできないはずの因果の詳細を見抜くことができている、という前提をもってなされている。そのような前提を持ちうるのも、この万能感の下支えがあってこそのものだろう。

 ▼(3)万能感が無ければ努力神話は成立しないし、生産もまた難しくなる


で、再び話を戻すと、――この万能感というのは、別に特殊なものでもなんでもない。多くの者は、元々この万能感を持っている。もしそれを失ってしまえば、己の存在意義の根拠を自己のコントロール機能に依拠している多くの自意識は、アイデンティティが崩壊し、やがて自己と共に自壊へと向かうことになるだろう。つまり、万能感を持っているということは非常に一般的であり、むしろそれを持っていない者の方が稀であり、尚且つ、それを失ってしまうことは、その者にとって余り良い状態とは言えないことの方が多い。そして何よりも、この万能感は努力神話の根源だ。この自意識万能論説が否定された時、努力神話は完全に瓦解する。何故ならそれが否定された時、「努力しようとする意志」は、実はある状態が作り出された後に、その状態を受けてそのように認識しているだけの単なる受身的感触であって、意志は努力という状態を生み出している功労者ではない、ということになるからだ。

よって、とりわけ努力神話を信じている者は、その根本をなしている自意識万能論説、つまり、自意識の万能感を否定することなどできないはずなのだ。だが、宮崎氏はどうみても努力神話の信仰者であろう。従って、むしろ彼は、本来なら万能感を擁護しなければならない立場のはずなのだ。

 ***

そして万能感が努力神話と切っても切り離せない関係にあるのと同じように、それは生産とも高い親和性を持っている。というのも、――場合によっては社会的価値を持つ生産を特に意識することもなくなんとなくしていた、なんとなくできていた、という状況もあるだろうが――それがなされる場合の多くにおいて、その者が持つ自意識は、基本的に己の意識の力が目の前の状況をコントロールし、意図するように作り変えることができるという錯覚を抱いていることが殆どであるだろうから。逆に、その者が持つ自意識が、ある事柄をなすことに対して「できるわけがない」と認識していた場合、その者によって価値ある生産がなされることになる可能性は極めて低くなるだろう。つまり、その者がそのような錯覚――つまり万能感――を抱くことができるような状態になければ、それだけ生産行為は難しくなる。よって、万能感は生産と逆ベクトルにあるどころか、むしろ――例外はあるにせよ、多く場合において――その前提として必要とされるものなのだ。

だから全能感を否定しながら生産を奨励するというのは、一般的傾向から見てかなり無理がある。もちろん、努力神話を否定した上でそれをも否定し、それよりも生産のための環境を整える方が重要だ言うのなら、それは分かるのだが。どちらにせよ、遊び(自己満足)と生産が相反するようなものである、というような見方には、やはり納得できない。
<追記7/20> ↑自己満足(意義の感触)は、モチベーションの元にもなっている。蓄積されたものも含めて、それが完全に失われると廃人にならざるを得ない。



※1 おそらく彼の中では、生産を「消費者たり得ない純粋(神聖)な子供」への奉仕活動とすることで、その矛盾を解消しているのだと思うが。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/416-e5465290
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。