ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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世間の「万能感」に対するダブルスタンダードについて

何か上手く行かないことがあった時に、「全部自分のせいです」みたいなことを言うと世間的にはウケがいい。一般的傾向として、失敗は“全部自分のせい(自己責任)”とする考え方は受け入れられ易い。逆に、上手く行かなかったことの原因を自分以外の要素に求めようとすると、それが「万能感」の症状の表れであるかのように言われ、周りから猛烈なバッシングを受けかねない。だが、実はその一般的主張こそが、世間一般が普段から蔑んでいる「万能感/全能感」を肯定する主張に他ならない。
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 ▼(1)“全部自分のせい(自己責任)”は「万能感」あってこそのもの

そもそも、「万能感」を持たない人間が、結果を受けてそれを“全部自分のせい”などと認識するはずがない。何故なら、ある結果に導かれたことを“全部自分のせい”であるとするためには、状況を決定付ける最終決定権を自分が握っている、という前提がなければ成立しないからだ。それこそ「万能感」そのものだろう。結局のところ、世間一般で支持され易いこの考え方は、「“俺(お前)が本気を出せば”上手くいったのに、そうしなかったから今のような状況に陥っているのだ」という“俺が本気を出せば思想”に他ならない。“全部自分のせい”は、裏を返せば“全部自分の支配下”でもあるわけだ。

だが、「万能感」が薄い人間は、自分(もっと言えば、それを司るとされている自意識)には状況をコントロールする力など端から無い、と認識している。そのような認識を持つ“無能な自己”が、自らが状況を決定付けるほどの大きな力を持っているなどと認識するはずもないだろう。つまり、“全部自分のせい”という考え方は、むしろ堅固な「万能感」が備わっていて初めて成立するものなのだ。――もちろん、実際にはそんなものなどなくとも、処世術としてそのように振舞われることも多いだろうが。

 ▼(2)何故「無能感」が強い人間ほど「万能感」を持っていることにされるのか

「無能感」が強く、処世術にも長けていない人間が――個別の小さな事柄ならいざしらず――人生のようなより大きな問題や、状況の形成に他者との関係性がより深く関わってくるような問題に関して、「全部自分のせいです」と言い切ることは難しいだろう。というのも、その者の「無能感」が大きければ大きいほど、状況の形成に対する自身の影響力の割合を低く見積もることになるからだ。そうなれば必然的に、残念な結果の原因もまた、自分以外の要素により大きな比重を置いて理解しようとすることになるだろう。ましてや“全部自分のせい”なんて考え方は、「無能感」の強い人間からすれば、自身への過大評価であり、驕り以外の何ものでもない。だが、ある意味謙遜とも言えるその振る舞い故に、その者は世間から強い「万能感」の持ち主だと認識されることになる。

では何故、残念な結果の原因を自分以外の要素に求めようとすることが、「万能感」と結びつけて捉えられることになるのか。それはその者の態度が、変えることが極めて難しい「社会」を変えようとしているのか、それともそれが比較的簡単な「自分」を変えようとしているのか、そのどちらなのか、という二分法によって分類されるからだろう。そして、自分以外の要因に原因を求めようとすることは即ち社会批判であり、社会批判をするのは、己のその批判によって社会を変えることができるという「万能感」を持っているが故だ、ということになる。それが、上手くいかないことの原因を自分以外の要素に見出そうとするのは「万能感」の表れである、とする主張の根拠になっている。

だが、批判というのは別に、それによって他者を変えることができると信じているが故になされているものばかりとは限らないだろう。それによる影響のことなど考えず、ただ納得がいかないから批判することもあれば、批判したつもりなどないのに、周りから勝手に批判したと認識されてしまうことだってあるだろう。或いは、自分の批判だけで変わることはなくとも、多くの者の批判が集まれば…、という希望をもってなされているものだってあるかもしれない。また、中には絶対に変わることがないと思っている事柄に対して行われる批判だってあるはずだ。

それに、批判を「それによって他者を変えることができる“から”するもの」と規定するなら、“失敗の原因を自分以外の要素に見出そうとする者”を批判する者もまた、それによって他者/社会――趨勢から外れる傾向を持つ他者もまた、社会の一部だ――を思い通りにコントロールすることができると信じている者である、ということになり、自らの規定する「万能感」への自己言及にしかならない。つまり、その主張には根本的な欠陥がある。

――そもそも、本当に「万能感」が薄い人間は、社会どころか、自分(自意識)には自己を変革させる能力がある、ということさえ信じることができないだろう。そしてさらに「無能感」が強くなると、自意識が自己を制御しているということすら信じられなくなる(「万能感」の根源は状況と認識の因果の逆転現象。自意識が自己をコントロールしているという考えには、その逆転現象である「万能感」が不可欠となる)

 ▼(3)「万能感」に贈られる二つの正反対の評価

一般的に「万能感」は幼児性の表れとされ、常に糾弾の対象とされている。しかしながら、成熟性や大人の片鱗が、「他人のせいにして当り散らしたけど、本当は“全部自分のせい”だということは分かってる」というような心情で表現されることも多い。つまり「万能感/全能感」は、ある時は未熟な精神の表れとして否定される一方、またある時はそれが肯定され、逆に成熟性の表れとして取り扱われることになる。

では何故そのようなダブルスタンダードが生まれてくるのか。それは、それが用いられる状況によって、その単語が持つ内容が主として捉えられる場合と、イメージが主として捉えられる場合があるからだろう。つまり、それが保持する内容とイメージが分離しているため、そのどちらの面を重視して捉えるかによって、全く異なった二つの評価が生まれてくることになる。それによって、“全部自分のせい(自己責任)”という内容的側面が肯定されると同時に、幼児性というイメージ的側面からは否定されるという、妙な事態が生じてくることになる。

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ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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