ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」によって成り立っている

【Sports Watch】“満塁男”駒田氏が、最近の虐待事件に怒り露わ

「また、幼児虐待の事件が。」というタイトルでブログ綴った駒田氏は、同事件を「90年以降、どんどん増える傾向にある」とし、「90年と言うと、僕らが親になった世代。親や先生にビンタを食らった最後の世代だ。それから、どんどん大人が子供に手を上げる事がなくなり、今の幼児の親達は全くそんな経験がない人がほとんどだ」と述べると、「それなのに、なぜ虐待が減らないのか。自分がされた事がない、一番嫌な事をなぜ子供に出来るのか、全く理解出来ない」と持論を展開する。

また、その持論に賛否こそあるだろうが、ブログの最後では「原因は何であれ、甘やかされた子供が大人になって虐待事件を起こしているのは間違いない。綺麗事の教育では、今後もこのような事件が減らないと思うのは僕だけか」と語る駒田氏だった。

“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”という余りにも矛盾に満ちた主張。このような論理は、余程自分に甘い人間の口からしか出てこないだろう。というのも、このような余りにも大きな欠陥を持った主張は、その者が少しでも自らを疑い顧みる「厳しさ」を持っているなら、それによって、表に出てくる前に消し去られるか、出てきて直ぐに訂正されることになるはずだからだ。それが表に出てきて訂正されることもなく放置され続けるということは、その者が自らに対する「厳しさ」を元々持っていないか、もしくはその審査基準が余程甘く設定されているかのどちらかだ。つまり、他人への「厳しさ」を推奨するこの主張は、自分への「甘さ」によって支えられている。
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▼(1)≪厳しさ≫というブランドで隠蔽される、自分への「甘さ」

これに限ったことではなく、結局、他人へ「厳しさ」というのは、自分への「甘さ」が出自となっているものが殆どなのではないか。例えば、子供が自分の思い通りに動いてくれない時、それによって生まれる鬱積を、シバいたり怒鳴りつけたりして発散するのは非常に簡単だ(あくまで“それ自体”は。一連の流れを通しては、無間地獄に陥る可能性があるが)。一方、そういったストレスを抱えながらも、暴力的欲求を封印し、もっと他に上手くやる方法はないか、とあれこれ考え工夫するのは非常に骨が折れる。このどちらの方が自分にとってより辛く厳しいことであり、より楽で甘いことなのか、ということはわざわざ言うまでもないだろう。

これは何も子供相手の場合だけに限ったことではない。自らの方が腕力や立場において勝っている相手と接する時にも同じことが言える。その優位性に甘え、ごり押しによって一方的に自らの唱える「正しさ」を相手に押し付けた時、その「正しさ」は、「自らを体現することができない力なき正義は正義たり得ない。正義とは即ちそれを実現する力のことである」というような短絡的な「正しさ」にしかなり得ない。だが、そのような結果論から導き出された「正しさ」を、そのまま概念的な「正しさ」と一致させることが如何に危険なことかということは、少し考えれば誰でも分かることだ。そのような「正しさ」が絶対的なものとして幅を利かせ始めたとしたら、或いはその「正しさ」が自らに襲い掛かることになったら、今その時点で優位性を根拠として「正しさ」を押し通そうとしているその者も、きっと納得はしないはずだろう。つまりその「正しさ」は、その者にとってすら「正しく」ない。

その「少し考えれば誰でも分かること」に思いを馳せることもなく、整合性を保つための「正しさ」を模索する努力をすることもなく、ただ「できるからする」。立場的優位に依存しなければ力を持ち得ないであろう出来の悪い「正しさ」を、「押し通せるから押し通す」。ここから生まれる他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」が前提としてなければ成立しない。

要するに、“虐待を減らすために「大人が子供に手を上げる事」を推奨する”というようなどうしようもない出来損ないの論理がもっともらしい顔をして出歩くことができるのも、「非常に骨の折れる」工夫を放棄し、暴力的行為でストレスを発散するのも、腕力や立場的優位を根拠として「正しさ」を押し通すのも、≪厳しさ≫というブランドで隠蔽された、自分への甘さに他ならないわけだ。

▼(2)目的が「厳しさ」の遂行自体に摩り替わるという現象

もう一度冒頭の駒田氏の主張に話を戻すと――もし彼の言うように、自分が「嫌な事」をされたことが無いから人に「嫌な事」をするのだとすれば、人に「嫌な事」をしない人間を育てるには、その人に「嫌な事」をしなければならないことになってしまう。だが、そもそもそういった行為自体が問題とされているのだから、この主張は全く本末転倒だろう。

ここ数年で虐待の認知件数が増える傾向にある(とニュースでは言っていた)、ということにしても、それは現象としてのそれが増えているというより、単に認知件数が増えたと考えた方が妥当だろう。なんせ、「奇麗事」によって、彼が推奨する「大人が子供に手を上げる」という「汚い事」が世間的に許されなくなってしまったわけだから。もちろん、死亡に至るほどの事件にでもならない限り、その実体を実数として明確に把握し、時代ごとに比較するのは難しいだろう。ただ、昔は虐待と認識されなかったものが、彼の否定する「綺麗事の教育」によって、虐待であると認識され、問題視されるようになってしまったということだけは事実だ。そうなれば、認知数としてのそれが増加することになるのは当たり前だろう。ここでは、その「認識の変化」も関係しているであろう虐待の認知件数の増加を受けて、それがより認知され易くなったことに一役買ったはずの「奇麗事」を否定し、それでは駄目だ、といって憂いてみせるという構図になっている。確かに、「汚い事」が許されるのであれば、認知数としての虐待は減少するだろう。今虐待とされているものが虐待とは認識されなくなってしまうわけだから。だが、そうなれば当然、現象としてのそれは増加することが予想される(躾や教育と称して暴力を振るうことが、世間的に良いこととされるので)。

そもそもこの問題で重要なのは、時代によってそれが増えているか否かではない。今そこで起こっているそれそのものだろう。よって、実体としての虐待や嫌がらせを本当に心配しているなら、過去と比べてどうこうではなく、今現在におけるそれを如何にして抑制するか、という視点からものを考えるはずだ。ところが彼は、むしろ「大人が子供に手を上げる」という、虐待と紙一重の行為を後押しするような説を打ち立てている。このことから見るに、彼はここで虐待や「嫌な事」がなされること自体を憂いているというよりも、「大人が子供に手を上げる事」や、教育によって他人に厳しく当たることが許されなくなった現状の方を嘆いていると見た方が妥当だ。つまり、ここでは虐待や嫌がらせが問題だというそもそもの目的や大儀が、結果として見事に消し飛んでしまっている。目的が他人への「厳しさ」そのものに摩り替わり、虐待云々はむしろそのための手段に成り代わっている。これを欺瞞と言わずしてなんと言おう。

――だが、このような無茶な論理を打ち立てた駒田氏を笑ってばかりもいられない。何故なら、こういった主張は別に特別なものでもなんでもなく、ごく一般的なものとして、今まで多くの人々に受け入れられてきたものでもあるからだ※1。彼は単に、その「古きよき伝統」の伝承者の一人でしかない。いつの間にか目的が「厳しさ」の遂行それ自体に成り代わっているということだって、決して珍しいことではない。そういう現象はいたるところで見受けられる。さらに言えば、立場的な優位性を振りかざし、無理のある「正しさ」を強引に押し通そうとしたことは、誰にでもあるはずだ。つまり、誰もが他人へ「厳しさ」を求めるという形を取って、自分を甘やかしたことがあるはずなのだ。その≪厳しさ≫という名の甘い誘惑に負けたことがあるはずなのだ。

▼(3)何故人は、他人に「厳しさ」を押し付けなければならなくなるのか

では、何故人は他人に「厳しさ」を求めてしまうのか。そうやって自分を甘やかさなければならなくなるのか。それには幾つかの理由があるように思う。

 <(i)「苦しみ」に意味がないことに耐えられない>

例えば駒田氏は、あの主張からすると、自分は厳しく育てられたと認識しているようだ。彼がそう認識しているのならば、彼にとってはそうなのだろう。だが、他人から受けた「厳しさ」には、当然「苦しみ」が伴う。人間は、この「苦しみ」に意味を見出そうとする傾向がある。ただ無駄に苦しんだとは思いたくないわけだ。大抵の人間は、あの時のあの「苦しみ」に耐えたから、自分はより大きく成長できたのだ。あの「苦しみ」による試練が、私を一段高いステージへと引き上げることになったのだ――というような物語を作り上げ、その物語によって現実を理解していく。そうやって自分という存在を世界に関連付け、安定した自我像を作り上げていく。

だが、もしその「苦しみ」に意味がなかったとしたらどうなるだろう。その場合、それを前提として「現実」を形作ってきた物語は崩壊し、今までその物語の主人公として活躍してきた「自分」は、単なるほら吹き道化と成り下がる。ただ一人虚空の世界にポツンと取り残されることになる。その時、その物語に依存することで自身の存在意義を保ってきた「自分」は、存在意義を完全に失ってしまう。故に、その物語の主人公である「自分」は、その物語の筋書きを、そして「苦しみ」の意味を守り続けなければならない。

だが、何らかの「正しさ」をただ一人だけで信じ続けるのは中々難しい。大抵の人間は、他人もまたそれを「正しい」と信じているから、という理由でもって、ようやくその「正しさ」を心の底から信じることができるようになる。――だからこそ、人は他人を崖へと突き落とす。突き落とされた者達が再び這い上がって来て、「この試練があったからこそ、自分は一回り大きく成長することができたのです」という姿を見るために。そうやって、自らが作り上げた物語の「正しさ」を他人の信心によって確認せねばならない。「苦しみ」の意味を守り、物語への新たな参加者を生み出し続けなければならない。

その時その崖下と崖上は、必然的に「正しさ」の境界線となり、人々を分け隔てることになる。それ故、崖下の惨状が崖上の人間から省みられることはない。物語の筋書き上、その惨状は自業自得でなければならないからだ。そしてこの「突き落とし行為」には、選民思想のようなものを生み出す効果も備わっている。そこでの這い上がり行為は、一種独特の自尊心を人々に植え付けることになるからだ。それ故この手法は、自己啓発セミナーや会社の研修、就労の社会的意味、形式の確保、或いは派閥の地盤固めなど様々な場所において、より積極的に活用されることとなっている。

 <(ii)人は平等に苦しまなければならないという思想>

幾ら「苦しみ」に重要な意味や価値があると自分に言い聞かせてみても、それはそのような「苦しみ」を獲得せざるを得なかった事実が前提としてあるが故のものであって、本当は誰だって、できることなら苦しみたくなんかない。だから、自身が何の見返りもない「苦しみ」を散々獲得しているのに、大した「苦しみ」も獲得せずに、大きな利益を得ている他人を見ると、どうしても不満が噴出することになる。この不満の根底には――これもまた「苦しみ」の無意味性への拒絶に関連したものでもあるが――、大きな「苦しみ」を得た人間ほど大きな見返りを得なければならない、或いは、大きな利益を得た者は、その分沢山苦しまなければならない、という平等への渇望がある。

「平等」という思想は、何も教育によって後天的に植えつけられるものばかりとは限らない。何故ならその思想は、元々人間が持っている不公平感を出自としているからだ。現に、普段「平等」を鼻で笑っているような人間も、大抵はこの(不公平は正さねばならないという)平等思想への強い信仰心を抱いている。そしてそれを信仰している者は、その教義に照らし合わせて納得がいくように、他人に「苦しみ」を与え、人々が受け持つ「苦しみ」のバランスを取ろうとすることになる。その信仰行為が、世間では「厳しさ」という言葉で言い表されている。

だが、人間は決して他人の感覚を知ることはできない。つまり、自分の「苦しみ」を感じることはできても、他人の「苦しみ」は想像力を通してしか感じる取ることができない。すると必然的に、幾ら相手を苦しめてもその「苦しみ」を自分は感じ取ることができないから、結果として自分の方がもっと苦しんでいると認識することになり、ついついバランスを整えるための「苦しみ」の付与が、行き過ぎてしまう。教育のためと称して行われる行過ぎた虐待やリンチには、この平等への渇望や他人の苦痛への不可知性が、少なからず関わっていることだろう。

 <(iii)他人を捻じ伏せることによって得られるカタルシスへの依存>

他人に「厳しさ」を求める時、それを求める側は大抵、相手が手出しすることができない安全地帯にいるか、もしくは自分の方が腕力や立場において優位に立っているかのどちらかの条件を満たしている。もし逆ならば、むしろ自分の方が相手がもたらす「厳しさ」に晒されることになるからだ。この、立場的優位を利用して相手を一方的にねじ伏せる行為には、その者に大きなカタルシスをもたらす効果がある。そこに先に挙げた物語性や、平等信仰上の摂理を正すという使命が加われば、尚のことその爽快感は増すことになるだろう。他人への「厳しさ」の遂行には、そういった娯楽性や快楽性が備わっている。だからついついそれに手を染めたくなる。

 <(iv)単純に楽>

どのような場所でも、状況は常に変化している。しかし、次から次へと移り変わる新しい状況を受けて、その都度より相応しい手法、より望ましい人との関わり方を模索し、新たにそれを作り上げていくのは非常に困難なことだ。それよりも、目の前の状況を予め用意された雛形の中に無理にでも押し込んでいくことの方が、遥かに楽だ。しかし、その自分が楽をするための雛形への押し込み行為が、他人への「厳しさ」となって現出する

▼(4)≪厳しさ≫による誤認現象

――とまあ、他人に「厳しさ」を求めざるを得なくなる理由を幾つか推測して挙げてみたが、何にせよ一つ確かなのは、他人への「厳しさ」は、自分への「甘さ」そのものだということ。これは、例えば自分は苦行をしているから、というのはその「甘さ」の言い訳にはならない。何故なら、“自分の好きで苦行をする”のと、他人に嫌々それをやらされるのでは全く意味が異なってくるからだ。また、自分の好きでやっている苦行は、あくまで個人的なものでしかない。それは他人が自分の思い通りに動いてくれないという「社会的な苦しみ」とは全く別の問題だ。「甘さ」への言い訳にならないのは、その者が過去に大変厳しい目に遭っていた、というケースでも同じことだ。幾らその者の過去に大きな「苦しみ」を受け取っていた事実があろうと、今その時点における双方の関係性の上で、その他人への「厳しさ」が、自身への甘やかしとなっていることには何ら変わりがない。

ところが、本来自分への甘やかし行為であるはずの「他人への厳しさ」が趨勢側によってなされると、それが一種特有の≪厳しさ≫というブランドとして機能し、そのイメージによって、「自分への甘さ」というその内容が隠蔽されてしまう。逆に、そのブランドの威光によって、まるで「厳しさ」を求められた側こそが甘えているかのように認識されてしまう。この≪厳しさ≫というブランドがもたらす錯誤効果、及びそれが生み出す問題は、もっと広く知られてもよいのではないか。

 ***

その「厳しさ」や「甘さ」が其々にとってどのように機能し、其々をどこへ導くことになるのか。それは分からない。だから、一概に甘い方が良いとか厳しい方が良いとか、そういうことは言えない。ただ、自分への甘やかしを「厳しさ」と言い換えることによって押し通そうとするような因習は、そろそろ止めにした方がいいんじゃないかと。

因みに、自分は体罰絶対禁止派ではない。しかしもしそれを行うのであれば、いずれ立場や腕力が逆転した時に、その優位性によって逆に自らがねじ伏せられ、蹂躙されるという可能性があることくらいは頭にいれておき、それを覚悟した上でなすべきだろう。体罰とは、そういった一か八かのギャンブルなのだ。



※1 実際、一昔前は「しつけ=シバく」が常識だった時代がある。現に、自分はそういった常識を真に受けた父に、母や妹と揉めていると、或いは単に母が機嫌が悪いというだけで、訳を訊かれることもなく、取りあえずシバかれた。教育に理念を持つことができず、それを世間の常識で埋め合わせることしかできなかった父にとっては、シバくこと“それそのもの”が教育だったわけだ。

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ひきこもりという役割を引き受け
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人間について考えてみる。
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