ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「これはネタです」と言いながら大路を走る行為について

「ネタにマジギレするマイノリティはキモイ」瓜田事件をめぐって

行為が行為だけに、ここではどうも分が悪いようにも見えるが、ネタだから批判するのはおかしい、という主張がこれまで堂々とまかり通り続けてきたこと、そしてそれが今も尚大きな力を持っていることは事実だ。これは虚構の物語、或いはイジリ、もしくはドッキリだから、その内容に関しての批判は一切なされるべきではない、といった主張も、内容的にはこれと同じものだろう。
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 ▼(1)全てのネタは内輪ノリでしかない

しかし、この批判(マジレス)に対する批判(ネタにマジレス格好悪い/すべきでない)は、全く的外れなものだ。というのも、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」という言葉があるが、マジレスをしている側は、別にその者が「狂人の真似」としてそれを行っているのか、それとも「本気」でそれを行っているのかなんて端から問題にしておらず、「大路を走った」という行為自体を問題としているからだ。それに対して「いや、本気じゃないから」と言ったところで、それは行為を対象としたマジレス(批判)への批判にはなり得ないだろう。

そもそも、その者がそれをネタと思っているか否かなんてのは、当人の自意識の問題であり、他人からすればそんなもの知りようもないし、またどうでもいいことだ。私の、或いはあの人の自意識はそれをネタと認識した上で行っているのだから、批判すべきでない、と言われたところで、それに納得するのは、その行為をネタとして楽しむことができる集団だけだろう。つまり、全てのネタは基本的に、それをネタとして楽しむことができる感性を持った集団の内輪ノリでしかない。その内輪ノリで外部(それをネタとして楽しめない集団)と折衝しようとしたところで、それが通用するはずもない。予めそれがネタ(嘘)であるということが明記されていないなら、尚更のこと。ネタに走るのは結構だが、それくらいのことは最低限踏まえておくべきだろう。

冒頭のケースなどは、そもそもネタであるということ自体疑わしい※1。が、仮にそこに書かれている内容が全て嘘であっても、「書かれたこと」自体が事実であることには違いない。そしてマジレスは「書かれたこと」に対して行われている。つまり、その内容が嘘であったからといって、「書かれたこと」がそれそのものとして実在している以上、その批判が全て無効になるということはない。

そしてもし仮にそれが嘘であれば、それは意図的に流されたデマということになる。それを、デマを流すよりもデマに騙される方/デマを真に受ける方が悪い、ということにするのならば、あらゆるメディアは幾らでもデマを流してもよい、ということになる。全ては各々のメディア・リテラシー(この言葉もすっかり胡散臭くなった)でデマに対処すればよいだけだ、と。

だが、リテラシーも結構だが、人一人ができる情報の真偽の確認量なんてものはたかが知れている。特殊な専門知識が無いと真偽が判断できないケースも多いだろう。情報不足で、そもそも事実確認が実質的に不可能な場合も多い。つまり、氾濫する情報を目の前にして、そこに存在する嘘を全て嘘と見抜くことができる超人なんてどこにもいやしない。ましてや、相手がどのような気持ちでそれを行っているのか、という他人の内面を見透かすことができる超能力者などいるはずもない。嘘を嘘と見抜ける人間の存在というのは、それ自体がネタなわけだ。よってこういった思想が一般化すればするほど、必然的に情報に内包されるデマの含有率もまた増していくことになるだろう。

 ***

また、ネタにマジレスする方が悪いとするなら、例えば、ある特定の人物の周辺で、その人物が持つ特徴を挙げながら、そこで想定された対象をバカにする話をしたり、直接その人物を罵倒するような言葉を投げつけておきながら、それにその人物が反応すると、「いや、これは別にお前のことを言っているわけではない。単なる架空の話だ。それに反応するのはお前が自意識過剰からだ」という、この手の嫌がらせ――これは虐めの常套手段だ――にも打つ手がなくなる。そして「いやこれはイジリだから」と言われれば、「ああそうか、イジリなら仕方ないな」として引き下がるしかなくなる。

しかし「ネタにマジレス格好悪い」思想が抱える問題はこれだけではない。その思想はもっと根本的な欠陥を抱えている。

 ▼(2)「ネタにマジレス格好悪い」思想は自意識偏重主義の産物

というのも、もし「ネタにマジレス」すべきでないとするなら、そのマジレスが実は「ネタにマジレスするネタ」かもしれないという可能性もまた考えなければならないだろう。そしてそれが「マジレスするネタ」だった場合、自らが設けた制約によって、それを批判してはならないということになる。よって、マジレスを批判するためには、まずそれがネタかマジかの真偽を見極めるため、他人の内面を覗き見て、その内容を把握しなければならない。だが、そんなことができる人間はいまい。つまり、「ネタにマジレスすべきでない」としてマジレス批判がなされた時、その批判者は、己が掲げたその主張を自ら踏みにじっているか、もしくは他人の内面を見透かすことのできる超能力者かのどちらか、ということになる。この主張そういった根本的な欠陥を抱えている。

「ネタにマジレスするな」というのは、「相手に批判をさせまいとするための批判」の一種だが、そこで何を根拠としてその行為の可否が判断されているかと言えば、それはその対象がそれをネタと思っているか否か、という自意識によってだ。そして何故、本来見透かすことのできないはずの他人の内面を見透かすことができたという前提で話が進むかと言えば、それは自らの自意識が相手の内面をのぞき見ることができた、と感じるからだろう。つまり、そこでは実際に行われた行為の内容よりも、其々の自意識がそれをどのように感じているか、ということの方が重んじられている。そして自意識の在り様を根拠として、批判という行為自体を封じようとする動きが出てくる。だが、本来は批判をなすべきか否かの判断よりも、なされた批判が的を射たものか否か、という判断の方こそが重要なのではないか。

ところが実際には、行われた行為の内容や批判の内容としての妥当性よりも、本来知りえないはずの個人の内面の方にばかり注目が集まる。それを中心として物事が把握される。では何故そういうことになるのか。それは、日本社会の自意識偏重主義を受けてのものだろう。

何か上手く行かないことがあれば、「未熟な自意識」が原因として槍玉に挙げられ、何かが上手くいけば、「成熟した自意識」の手柄とされる。そして解決せねばならない問題が立ちはだかると、「意識改革」によってそれを乗り越えるべきだ、という処方箋が出され、其々の自意識は自己を改造することを迫られる。――あなたが苦しんでいるのは、あなたの苦しみから抜け出そうとする意識が弱いからです。私が成功した理由は、未熟な自意識を変革させたからです。社会に出て上手く行かないのは、あなたの自意識が病んでいるからです。あなたが枠組みに上手く収まれないのは、あなたの自意識が甘えているからです。…というように、自意識は常に結果や状況をコントロールする魔法の鍵だと認識されている。そして結果や状況の良し悪しから自意識の貴賎が導き出される。それが日本社会の特徴だ。

「キモイ」問題に関しても同じことが言える。――私は正しく、あなたは間違っている。何故なら、私が、そして多くの者がそれを「キモイ」と感じるであろうからだ、というように、個人の「キモイ」という感覚が、一般的・普遍的正しさの根拠にまでなってしまう。例の「必死だな」もそう。あなたの自意識は冷静さを欠き、私の自意識は冷静だ…よって私は正常であなたは異常である、という論理。主張の内容よりも、まず自意識の在り様が問題とされる。「ネタにマジレス格好悪い」思想が大きな力を持ち続けてきたのは、こういった日本社会の自意識偏重主義あってこそのものだろう。

 ▼(3)人はネタとどのように付き合っていくべきなのか

だが、その自意識偏重主義に支えられた「ネタにマジレス格好悪い」思想の行き着く先はこういう場所だ。

"なりきり厨”による被害…『現実世界で荒川アンダーザブリッジのロールプレイ』

もちろんこれもどこからどこまでが本当なのかは分からないが、仮に本当だとすれば、この場合、複数人によってそれが行われていることから、内輪での盛り上がり、つまりネタとしてそれが行われている可能性も十二分に考えられる。「いや、ネタだから」と。要するに、これは膨張した内輪ノリで外部と接触しようとした「ネタにマジレスするな」派の犯行である可能性も高く、その場合「ネタにマジレスすべきでない」という信念を持っている者は、これを批判することができない。

だが、その所業に巻き込まれた人間からすれば、それがネタかマジかなんてのはどうでもよいことだろう。それよりも、そこで行われた行為自体が問題だ。そもそも、実際のところネタとマジは元々渾然一体となったものであり、ここからはネタでここからはマジというように、綺麗に線引きして分けることはできない。つまりそれを行っている当人ですら、それを厳密に区別することはできない。そのようなあやふやな実感を根拠として物事の良し悪しや可否を判断するのは、余りにも危うすぎる。

…とはいえ、ひたすら行為だけを見て全てを判断していく、という考え方にも問題はある。例えば、「瀬戸大橋の光ケーブル切断してくる」や「小女子を焼き殺す」の場合どうなのか、その程度の書き込みで逮捕までされるべきなのか、そのネタにマジで対応する必要はあるのか、という問いは残る。これは警察側からすれば、万が一何かあった時の責任問題を懸念してのものなのだろうが、何も逮捕まで行かなくとも、注意程度でよいだろう、と。

だがこれはどちらかといえば、どのような原理原則でも、それを絶対視すると良い結果にはならない、という原理主義の問題と考えた方がよいだろう。「ネタにマジレスするな」は、内輪ノリを受け入れろ、ということだが、自分達の内輪ノリは常に受け入れられるべきだとする考え方も、それを受けれるか否かは外にいる者の勝手なので、“そんなものは一切考慮する必要はない”とする考え方も、どちらにも欠陥はある。そしてその時、どちらの原理原則がより大きな問題を抱えているかと言えば、やはり「ネタだから批判してはならない」の方だろう。そもそも、自身がその信念に基づき黙っているのは勝手だが、個人的実感を根拠にして、他人の批判まで禁止しようとするのは無理がある。さらに言えば、そこでは個人の内面を根拠としてその行為の良し悪しや可否が判断されるため、この考え方が敷衍され、より広く普及すれば、場合によっては内面の在り様を根拠として権力側から取り締まられる、という可能性だって出てくる。そういう面からしても、やはりこの原理原則は危うすぎる。

まあそれは今すぐにでも起こることではないかもしれないが(いや、そうでもないのか?)、少なくとも、どちらの原理原則の方が良いと信じるにしても、ネタというのは基本的に内輪ノリでしかない、ということくらいはハッキリとさせておくべきだろう。

 ***

ところで、この問題はもっと掘り下げれば、人は道徳という嘘(ネタ)とどのように向き合って生きていけばよいか、という問題にまで辿り着く。現実には、道徳(嘘)を真に受けて生きていけるほど穏健な場所はそう滅多にない。現代社会では、社会システムを通し、婉曲化された形で生存競争という名の殺し合いが行われている。そこで最も強力な武器となるのが道徳という嘘だ。というのも、社会から道徳的であると判断されなければ生きていくのは難しいが、そのためには道徳を踏みにじらなければならない、という矛盾を道徳は抱えているからだ。

例えば、「他人に迷惑を掛けてはならない」という道徳があるが、実際のところ、他人に迷惑を掛けずに生きていける人間など存在しない。生きるとは即ち、それ自体が他人に迷惑を掛けることでもあるからだ。しかしそれを真に受け、なるべく他人に迷惑を掛けまいとすると、行為は萎縮せざるをえない。そうすると群れにおける社会的ポジションにおいて良い位置を獲得できない。そして「良い位置を獲得できない」とは即ち「人気が無い」ということだから、それを自覚した主体は、自分が誰かに関わると他人の迷惑になる、とより敏感に認識するようになり、人と関わることに大きな後ろめたさを感じるようになる。コミュニケーション原理主義のこの社会において、そのような状態に陥った人間が「生まれて来て良かった」と思えるような人生をつむぎ続けることができる余地など、あるはずもない。そして再び「他人に迷惑を掛けてはならない」という世間の目線で自らを顧みた時、その者は自分で自分の存在意義を否定しなければならなくなる。道徳に感染し、世間の常識に存在意義を依存するようになってしまっているからだ。

つまり、「他人に迷惑を掛けるな」という道徳を他人に植え付けることは、現代社会における最大の迷惑の一つでもある。よって、必然的に道徳をより強く内面化した者ほど淘汰され易くなる。これはあくまで一例でしかないが、全ての道徳は大抵こういう性質を隠し持っている。即ち、道徳というネタを真に受けすぎると生きてはいけない。だが一方で、その道徳という武器によって己の身が守られているという面があるのも事実。

――「批判の自由」というのが道徳であれば、「ネタにマジレスしてはいけない」というのも道徳であり、それは「道徳」対「非道徳」の問題ではなく、異なる道徳同士の競合問題だ。よってこのことは本件の論議に直接関わるものではない。だが、ちょっと付き合い方を間違えると命すら奪われかねない…ネタとはそれほどの大きな影響力を持っている、ということでは共通する面もあるだろう。



※1 瓜田純士、アメブロ強制退会か? 公式ブログに「仕返しに出る」「今晩からでもゲイ狩り」等書き込み - みやきち日記
どうやら次の犯行の予告が行われたようで、やはりネタでもなんでもなかったようだ。まあ、ネタで人を暴行するタイプの人なのかもしれないが、暴行される側からすればそれがネタか否かなんてどうでもいいわけで。しかし「ネタにマジレスするな」派は、これで実際に次の事件が起こったら、だから黙って我慢しているべきだと言っただろう、などと言い出しそうで怖い。

コメント

ネタ人間だけどマラドーナよりもマシ

実際に大路を(自転車で)走って捕まった人間なので大きな顔は出来ません。「こんなヘンなのガイジンにもいないよ」とガイジンに言われました。日本に溶け込みすぎの貴様こそヘンだ。私が読めない漢字を使うな。私より正確に敬語を使うな。しかも私よりも英語が堪能だ。なんという屈辱!どう見ても、自分自身がネタです。本当にありがとうございました。

しかしだな・・・

「相手にする価値すらない。単に攻撃的に振舞うだけで、才覚のないものでも一時の注目を得られるという、昔からDJが使う方法を再発見したのだ・・・」

何かの本にそう書いてありましたっけ。

要するにウ○コのようなものです。触るだけ自分の手が汚れるという。見るだけでも目が汚れそうです(目が~目が~)。紙の無駄という言葉が使えないのでピクセルの無駄とでも言うべきか。こういう反抗期のの子供のごとく、かまって、かまって、つっこんで、という未熟なアタマの持ち主には、無視が一番です。

無駄人間だけど誰よりマシなんだろう?

>無視が一番です。

まあ人間は消耗品ですし、リソースも限られているので、わざわざクソな現実を凝視するためばかりに余力を使用するというのは考え物ですが…

>ピクセルの無駄

とはいえ、取捨選択は必要ですが、世間様から無駄扱いされている自分のような人間からすると、「指差しちゃいけません!」みたいに、常識的に見て無駄だからとして全てを割り切っていくのもどうかという思いもあります。

>「相手にする価値すらない。単に攻撃的に振舞うだけで、才覚のないものでも一時の注目を得られるという、昔からDJが使う方法を再発見したのだ・・・」

http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100922/1285113478

それに、実際こういう人がうちのトップですから。で、そういう人や手法が力を持つということは、「普通」によってそれが支えられているということであり、見なければよい、として済ましてばかりもいられないわけです。今回のコレにしても、「DJ」としての才覚がない人間がそれを使ったから受け入れられなかっただけで、同じ理屈でも他の場面や人物が使うことによってそれが受け入れられてしまう、ということはあるでしょう。

――でもそういった理由は殆ど後付で、実際のところは単に、自分がネタ(嘘)や挑発を真に受けてしまい易い性質だから、というのがクソな現実を凝視してしまう本当の理由なんでしょうけど。化学物質まみれの空間で過敏症の人間がいかにして生きていくか、みたいなもんなんでしょうかねえ。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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