ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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競争原理を阻害する≪競争社会≫×安定のための「競争」

努力信仰が強い日本では、結果の良し悪しは一旦努力度数に変換した上で解釈されることが多い。そのため、例えばある競争で「10対0」の結果が生み出された時、勝者はよく努力した褒美としてもう10点プラスされる一方、敗者は努力が足りなかったペナルティとしてさらに10点マイナスされたりする。そして次にこの両者が相対する時は、「20対-10」の状態で勝負を始めなければならなくなり、一方は以前よりも益々不利な状況での競争を余儀なくされる。

これが≪競争社会≫であり、このベクトルをさらに推し進めるべきだとするのが≪競争原理主義者≫の主張。つまり、より豪華なニンジンを前にぶら下げれば人々の意欲は増すはずであり、より大きな罰を与えれば、その恐怖によって駆り立てられ、人々は競争に励むはずだ、というわけだ。
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だがこのやり方だと、競争に敗れた者はそのたびに益々不利になっていくから、参加するまでもなく結果が見えてしまうような関係性がどんどん増えていくことになり、参加への意欲を保つことができる人間は逆にどんどん低減していくことになる。貴重なリソースを支払って最初から負けることが分かっているような賭けに参加する者などいない。結果、其々の競争はトーナメント化の様相を呈していき、一回勝負のようになっていく。そしてそれは一部の者達だけのものとして独占され、囲い込まれていく(ex.新卒しか取らない/空白期間があればそれで終わり/保証人がいないと部屋を貸しません。住む場所がない人間は職を得られません/無能な人間は何をやっても駄目、の内面化)。逆に予選落ちした者は、もはやその時点で競争どころか、公式戦に参加する余地すらなくなる。つまり、このやり方は競争原理を働かせるどころか、むしろそれを阻害するためのものだ。

「殴るぞ」と自白迫る録音公表 大阪、弁護団が告訴へ - 47NEWS

元々競争(成果主義)の行き着く先はこんなもの――行政が民間意識を持つというのはこういうこと――であり、社会生活自体が競技化するとロクなことはないだろう。そもそも、本気での競争を続けれ続けるほど、それだけ選手寿命が縮むことになるのは言うまでもない。実生活における選手寿命というのは文字通り寿命のことだから、比喩ではない本当の競争を社会生活に持ち込むのは余りにも無理がある(肉体がそうであるように、精神もまた無限に修復可能な永久機関ではない)。

とはいえ、実際には社会生活の維持に不可欠な関わり合いへの参加自体が≪競争社会≫の「ペナルティ」によって阻害され、そこで意欲が失われてしまう者が出てくるという問題もある。その意欲を競争原理の一つとして見るなら、やはりそれを無視することもできないだろう。

そしてもし競争原理を働かせようとするのなら、全ての人間がいつでも工程に参加可能にして、尚且つそこでまともな試合(やり取り)ができるような環境を整えなければならない。だが、≪競争原理主義者≫はこれに断固として反対する。反対の理由としてよく言われるのが、それでは努力して結果を出した者が不公平感を感じ、モチベーションを失ってしまう、まるで社会主義のようだ、という理屈だ。だが、実際にこのような≪競争社会≫で多くの者の意欲が奪われている以上、そのやり方は失敗した社会主義と同じ轍を踏んでいることになるわけで、それを維持し、さらに推し進めようとする者が、社会主義の失敗を持ち出して参加への意欲を働かせようとするための環境整備を批判するというのは全くおかしな話だ。

そもそも、≪競争原理主義者≫が競争への意欲が失われた者に常日頃から言っているのは、モチベーションとは個人の意志の強さによって獲得されるものであり、それが獲得できないことを環境のせいにするべきではない、ということではなかったのか。それが競争原理(参加への意欲)を働かせるために必要な環境整備の話になると、突然モチベーションの獲得は環境によって決定付けられる(そんな環境ではモチベーションを失う者が出てくる!)かのように言い換えられる。

つまり、≪競争原理主義者≫ほど競争原理を阻害しようとする傾向が強く、そしてその阻害を実現するための政治的手段として、内容ではなく“何となく勇ましく良いイメージを持ったレッテル”としての「競争」が用いられている。

 ▼安定のための「競争」

このことから分かるのは、如何に人々は(ガチの)競争を嫌い、安定を求めているか、ということだ。恵まれた環境に身をおき続けたが故に自身の限界を知らずに済んだ一部の人間を除いて、殆どの人間は競争が激化すればするほど生活の維持が難しくなり、人生という競技における選手寿命が縮んでしまう、ということを実は知っている。そして、全ての人間が安定を手にすることができる社会など存在しない、という強い思いもまた同時に抱いている。

だからこそその競争に歯止めを掛け、一度手に入れた安定が覆されないように社会的ポジションの囲い込みや固定化を行い、競争原理を阻害しようとする動きが出てくるわけだ。そしてそれを成し遂げるための政治的手段の一つとして「競争」という“正”のレッテルが用いられる(しかしそれ故にこの安定志向という本音は、アンケート結果くらいでしか出てこない)。つまり、囲い込みによって安定した“上がり”のポジションを確保し、いずれ“上がった”者として安全な立場から他人の競争を眺められるようになりたい、というその希求こそが人々に「競争」を叫ばせている。実のところ人々が連想する競争とは、安定へと辿り着くための工程としてのそれでしかないわけだ。

コメント

Real waste land

「競争を排除しようとしている共産主義者だ」というのは、レトリックなのだろうな。まあ、そこには修辞上の反語にとどまらない側面があるのが恐ろしいところなのだが。全てを共産主義として排除する事は、競争を排除するのと似たところがある。このレトリックがもう一つ持つ問題は、どの社会のどのような側面にも実際には競争があるという事を無視してしまう事なのだろう。従って対立する主張に対しては容易に共産主義と告発できるし、そうすれば煩わしい議論なしに叩きのめす事が出来るわけだ。イデオロギーか。便利だな。

> 「殴るぞ」と自白迫る録音公表 大阪、弁護団が告訴へ

言ってもいいですか?
さすが大阪。

不謹慎ですが思い切り笑わせていただきました。
難波の警察はやくざものと紙一重と聞きますが、
借金の取立ての如き取調べでしょうか。
それとも時代劇風ですか?
ぜひその録音を聞いてみたいですね。
弁護士もそれをアップロードしてくれたら面白いのに。

競争の産物としての共産主義

>どの社会のどのような側面にも実際には競争があるという事を無視してしまう事なのだろう。

部分的に見ると競争を拒んでいるように見えても、より広い視点で見れば、それはそのような形で競争をしていたり、或いは競争の結果として形成された状況であったりする。当人がそれを競争として認識するか否かはともかく、結局のところ人間は何らかの競争に巻き込まれることによって生まれてきて、そして死んでいくわけで、生まれて来てしまった以上、誰も競争から逃げることはできない…というより、競争から逃れることができなかったからこそ生まれてきた、とも言えるわけで(何故あの時受精なんかしたんだ!)。

もちろんそれは共産主義とて同じことで、あくまでもそれは競争の一つの形態であり、その結果として生み出される状態でしかないでしょう。共産主義の問題は競争が行われないことではなく、競争の枠組みが画一化され、内容が固定化されることなんですよね。つまり、ある一つの枠組みでの競争が、他の形態での競争を駆逐することによってそれは成り立つ。よって、どのような看板を掲げていようと、社会がそのようなベクトルに導かれるならば、それは内容的に共産主義と何ら変わりなくなる。

しかし人々は安定した地位や原理性(この世の秩序)を求め続けるだろうから、画一化や固定化の欲求もまたなくなることはなく、従って内容としての共産主義への求心力もまたなくならない。とはいえ共産主義という言葉のイメージはものすごく悪いので、その結果、誰かが反共の旗を掲げ、その旗の力によって共産主義的ベクトルへ邁進する、という形でその求心力が作用することになるわけですね。

 ***

>ぜひその録音を聞いてみたいですね。

YouTubeに録音の公開に関するニュースがアップされていました。

http://www.youtube.com/watch?v=KYHJFuOmtdg

取立て風ですね。普通にヤクザです。

まあ警察というのは比喩でも揶揄でもなく、機能的には国営暴力団ですからねえ。ただ、法に定められた手続きに従い、その範囲内で暴力を行使するからこそ、私設暴力団と違って一定の信頼が生まれてくるわけですが…。その前提部分が守られなければ、もはや私設暴力団となんら変わらなくなるわけで。規模の大きさ以外は。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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