ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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自意識は自己をコントロールし得ない×「自己変革」という硬直化

まるで小さな悪魔 ロシアの野生ハムスターがやたら攻撃的(動画) : フィストリア

これもまた人生、か。断定はできないが、YouTubeのコメント欄にも指摘がある通り、このハムスターは狂犬病である可能性が高いのではないか。「小さな悪魔」はハムスターじゃなくてウィルスの方。その危険性を分かっていればこんな危険な賭けはしないのだろうが、人生というのはいつも後になってからその時の状態の意味を知ることになる。その時点で知らないものを知ろうとしても、何を知ればいいのかすら分からない。知らないものは見つけられない。よって必要なことを知るための努力はできない。逆に何か有益な情報を知ったとしても、それは知ろうしたから知ったのではない(後から自意識がそういう認識を作り出すだけで)。未来を見通すことができる預言者はいない。だからこそ其々は、「自由意志による自己決定」という自意識(内部)の奇跡に頼らず、外部における蓄積と構築物によって自己の状態を支えなければならない。いや、支えられている。
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 ▼(1)自意識は自己をコントロールし得ない

ここでこのハムスターとの接触を避けることができたとしたら、それはその時そういう状態が成立していただけの話で、それは自意識のお陰ではない。逆にこの者がそれを避けることができなかったのは、そのような状況が成立していただけの話であり、自意識が未熟だったせいでも危機感が足りなかったせいでもない。

もう何度も言っているし、これからも何度も言い続けるつもりだが――我々は誰一人として自分が生まれるか否かを選択することはできない。どのような環境と資質を持って生まれてくるかも、どのような経験を積むかも、何一つ選択できない。その経験がどのような結果につながるかも分からない。それは状態が成立した後になってから意味づけされ、評価されることだからだ。そしてその意味を「過去たる現在」から先取りすることはできない。だがそれによって其々の自己の状態は決定されていく。そこに自意識の介在する余地などありはしない。つまり、自意識は常に状況の後追いであり、後からそれに意味をつけて返しているだけであり、自己をコントロールする機能なんて端から持っていない。

もちろん、意味づけによるフィードバックは自己の状態にある程度影響を及ぼすことになるだろう。だが、それによって自己をコントロールしているなどとは言えない。何故なら、そもそもそのフィードバック自体が状況の産物であり、従属物であるからだ。つまり、原理的にいって自意識は自己をコントロールし得ない。自意識の原因が状況なのであって、状況の原因は自意識ではない(――これを否定するためには、輪廻による“状況から独立した魂の継続”という条件が必要になる)。だが其々の自意識は、自らがその状態をコントロールした/し得たのだと勝手に解釈する。この状況と認識の逆転現象こそが万能感の根源。

しかし、幾ら理屈上において自意識が自己をコントロールすることは不可能であるという明白な解答が目の前に転がっていても、殆どの自意識はそれを認めたりはしないだろう。そして自意識が事後的に生み出す認識とそれによる実感の方を重んじるはずだ。つまり、自意識とは天性の詐欺師でもある。そしてそれ故――万能感を非難の的にする者は多いが、それに反し――殆どの人間は自意識が持つその天才的な詐術によって万能感を維持し、それを抱えたまま死んでいく。「危機感」だとか「甘え」だとか「精神的成熟さ/未成熟さ」だとか、そういう自意識原因論は全てその者が持つ万能感の産物だと考えていいだろう。

しかし、自意識による自己の制御不可能性という現実を意味で覆い隠して見ずに済むのならば、むしろその方が幸いだろう。少なくとも事物の存在意義を「必要」に見出すとするならば、自己の制御者であることに存在意義を依存する「自意識として私」はその存在意義を失ってしまうわけだから。そもそも、自意識が詐欺師としての能力を失ってしまう――つまり万能感が消失してしまうのは、大抵その自己が大変な窮地に陥ってしまったが故のものであり、余り望ましい状態とは言えない。

 ▼(2)自己決定という名のギャンブル

しかし、自己は己をコントロールし得ないのだとしたら、それはどのようにしてより望ましい状態を手に入れればよいのか。まあ結論から言えば全ては運、としか言いようがないのだが、今更そんな分かりきったことを言ってもしょうがないだろう。だから一つの見方を提示すると…自己は原理的にいって、己の意思によって直接自己(内部)を変えることはできない(変えたという認識を持つことができるだけで)。だが――制御は無理だとしても――自己が己を変えることができる可能性が一つだけある。それは外部環境としての「何を入力すれば何が返ってくるか分からないブラックボックス」にボールを投げ入れることだ。そしてその「ブラックボックス」からどのような反応が返って来るか、という賭けをする。外部にシステムやロジックを構築し、知識や知恵の蓄積を行うことは、この賭けにある程度の規則性を持たせ、制御しようとする試みではあるだろうが、実際のところはそれもまたこの賭けに含まれるだろう※1

なんにせよ、自己という状況はその者が生まれ持った資質と環境の組み合わせの連続性の上に成り立っているから、その一方が変化すれば自ずと自己の状況も変化する。

要するに、自己が己を変えるには、一旦外部におけるギャンブルを経由しなければならない。そして誰もが日常的に、知らず知らずのうちにこの賭けを行っている※2。だが、「人生ギャンブル」は全員が違う条件でもってそれを行っているので、統一化された定石やオッズのようなものは存在しない。しかもそれはいつの間にか始まり、いつの間にか終わっている。その繰り返し。その結果として、狂犬病らしきハムスターに噛み付かれたりもする。或いは最善の選択をしたつもりが最悪の結果に繋がったりする。それが人生。そして現代社会ではその「人生ギャンブル」によって導き出された結果を、「自由意志による自己決定」と呼んでいる

 ▼(3)「自己変革」という自己の硬直化現象

とはいえその賭けが衰退すれば、即ち「ブラックボックス」にボールを投げ入れることができなくなればなるほど、自己は今現在の状態のまま硬直化していくことになる。つまり、自己が内部の変革(ex.自意識の成熟化)によって問題を乗り越えようとする時、それはその思惑に反し、現状維持によって問題解決を図ろうとしていることになる。もちろんそういう状態が生み出されるのもまた「人生ギャンブル」の結果によるものだろう。例えば、そのギャンブルで痛い目に遭えば遭うほど、学習によってそれに手を出さなくなっていく。また、初めから負けることが分かりきっている賭けにわざわざ手を出す者はいない。だからそのような環境に身を置く者は、極力ギャンブルに手を出すまいとする。だがその傾向が余りに強くなれば、もはやその者を取り囲む外的環境がその者以外によって投げられたボールで変化でもしない限り、その硬直化から抜け出せなくなる。

恐らく日本社会のこの閉塞感というのは、社会を構成する殆どの人間がこの「自己変革」というベクトルに大きく傾いているが故の結果だろう。

例えば、「社会を変えようとするよりも自分を変えろ」と周りに主張することは、その字議上の意味に反し、実際には自己(内部)ではなく他人としての社会(外部)を変えようとする行為だ。しかしそれは、今現在の外的環境が変化するのを妨げるベクトルに力を加え、変わるはずの外部を変わらないように変えようとすることであり、つまりその主張は、個々人の外部にある環境を今のまま固定化するべきだという訴えであり、誰かに「自己変革」という硬直化を迫るための訴えでもある。要するにこの「自己変革」とは、それを感覚として内面化する側だけでなく、それを外部に訴えかける側にとっての硬直化でもある。

 ***


日本社会がこの閉塞状態から抜け出すためには、外部に今までとは異なったベクトルを持つ環境を増やし、ギャンブルの参入者を増やすしかない。先に言ったように、初めから負けると分かっている賭けに乗る者はいない。日本のシステムにおける「人生ギャンブル」はトーナメント方式のようなものが殆どで、そこで負けると後はもう殆ど「負けると分かっている賭け」くらいしか残っていない。それでも多くの者は、その賭けを「一生懸命さ」の奇跡で乗り越えようとするわけだが、やがて疲弊し、脱落していく。そうやって「ブラックボックス」にボールを投げ入れる者がどんどん低減化していき、自己は、社会は硬直化していく。これが今現在の状態。

逆に言えば、もしかしたらよい結果になるのではないか、自分も参加できるのではないか、というような思いを抱かせるようなものがそこにあれば、自ずと人は集まってくる。つまり本当に他人の変化を望んでいる者は、より多くの者にそういう外的環境を成立させるようなベクトルを持つ主張を述べ、動きを取るだろう(この方法は詐欺師にも使われるわけだが)。だがそのようなベクトルでの主張や動きが活発化したことは未だかつてない。というか、おそらくそいういう動きが見られれば、一斉にそれを叩きつぶそうとするのではないか。すなわち、日本社会は未だ大きな変化を望んだことはない。

もちろん、外的環境が変わることが、自己が変化することが其々にとって良いことになるという保証は全くない。少なくとも大枠としての環境が変化すればするほど「人生ギャンブル」における不確定性もまたそれだけ増すことになる。そしてその環境変化への不安や恐怖が硬直化を生み出す。しかし同時に、この閉塞感を何とかしたいという思いもまた沸きあがってくる。その結果人々は「自己変革」に希望を見出すことになる。つまり「自己変革」への礼賛は、自己が持つ硬直化を維持しようとするベクトルと、変化したい/させたいという意思の衝突によって生み出される現象なわけだ。



※1 このギャンブルを完璧に管理しようとしたのが共産主義だが、その賭けは失敗に終わった。そして今は共産主義の代わり資本主義に規則性を依存し、それによってギャンブルを管理すべきだという考え方が主流になっている。だがこれもまた行き過ぎれば共産主義の失敗と同じ道を辿る運命にある。というのも資本主義的価値観の下では、あらゆる物や者はすべて商品として経済的価値の測りにかけられ、それによって存在意義が判断されることになるからだ。結果、“みんな”のためのシステム(共産/資本主義)に順応できず(役に立たず)その和を乱す者(経済的にマイナスをなす者)は排除、という同じ場所に辿り着くことになる。

※2 asahi.com(朝日新聞社):橋下知事「小さい頃からギャンブルを。国民を勝負師に」

小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」と議員らにカジノ合法化を求めた。

こんな主張をなす者もいるようだが、そんなことをせずとも、全ての人間はもう既に「人生ギャンブル」に巻き込まれている。そしてそのギャンブルの結果として今現在がある。確かにこの案は一つの変化をもたらすものではあるが、ここでの「ギャンブル」とは、「胴元が客から金銭を吸い上げるより大きなシステム」のことだろう。そんなものを作ったからといって、それが多くの者にとって良い結果に繋がるとは中々考え難い。むしろそれは更なるポジションの固定化を生み出すだけなのではないか。また、ここでは心的、経済的ダメージの蓄積という条件への配慮が完全に欠如している。そもそも、勝負師になれば上手く行くという考えの根拠はなんなのか。成功する勝負師なんてのはほんの一掴みのはずだ。だからこそ勝負師なのであって、そうでなければ勝負師でもなんでもない。これでは『カイジ』における兵藤和尊の「命はもっと粗末に扱うべきなのだ。丁寧に扱いすぎると澱み腐る」という主張となんら変わらないように見える。

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