ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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競合相手の摩り替えによる希望の製造×忖度主義と祈り

「普通の人」を代弁してくれるのは誰だ?

外国人、少数民族、女性、被差別部落、障害者、貧困者(ホームレス・労務者)等の属性に当てはまったら、

社民・共産とかリベラル左翼な人たちが立場を代弁してくれたり、生活を支援してくれたりする。

農家や経営者だったら自民党が、大企業のサラリーマンや公務員だったら民主党が、

その人達の利益に沿うような政策を掲げて、政権を取ったら政策を実現してくれる。

創価学会員なら公明党が動いてくれる。

ところが、普通の日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマンの俺は、

どこに行っても利益を代弁してくれる人がいない。

俺のような日本社会でのマジョリティは、必然的に無党派にならざるを得ない。

「自分で労組作れよ」とか「自分で選挙に立候補しろ」ってのは、全く非現実的だ。

そんなことする労力の余裕なんかあるわけ無いし、労働運動して会社に睨まれたり、

立候補して落選したあとの生活を考えたら、とてもそんなことできない。

今のところ、マジョリティの利益を代弁してるのは、河村たかしみたいなポピュリストか、

「日本民族の利益」を代弁してる在特会あたりのネトウヨくらいしかない。

在特会は、暴力と無根拠な陰謀論があまりにもアレすぎて支持できないけど、

ポピュリストに減税を掲げられると、自分の利益を考えれば支持せざるをえない。

石原慎太郎も、橋下徹も、そりゃ大衆に支持されるだろう。

「皆さんの税金をマイノリティに分配するくらいなら、給付を削って財政再建します」って政策のほうが、

「マイノリティを助けるために増税します」よりも受けがいいのは当たり前だ。

この言説で一番問題なのは、本来大して脅威でもないはずの一部のマイノリティばかりが競合相手として強調され、本当に重要な「日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマン」同士、或いは労組を組織することを妨げ、「自分で選挙に立候補」することを非現実的にしている世間との競合というという要素が完全に抜け落ちていることだ。
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 ▼(1)競合相手のすり替えによる希望の製造

もしこの者の生活水準が落ちているとするなら、それは日本経済が国際社会の中で競争力を失っていることだったり、この者自身が社会的競争力を失っていることこそがその主たる原因だろう。つまりそれは、この者が社会的趨勢というマジョリティが作った一般的枠組みの中で、それも主に一般的属性を持った者同士の競争において優位に立つ能力がないが故のものであり、一部マイノリティとの競合のせいではない。もちろん職に就けない人からすれば、障害者枠や外国人労働者というのは競合対象にもなりえるが、この者は既に職についているのだから、それらは主な競合相手にはなりえない。それに、もしこの者の生活水準が下がるベクトルに乗っているのなら、自身が貧困者になる可能性も十分あるわけで、にもかかわらず貧困者の立場の代弁や生活支援を敵としてみなすのは全く理にかなっておらず、自分で自分の首を絞めているのも同然だ。

要するにこの者にとってより大きな脅威となっている競合相手は、自分で立候補したり、労組を作ったり労働運動をすることを妨げる会社であったり、それを忌まわしいもの、汚らわしいものとして見る世間の目だ。或いはこの者と同等かそれよりも競争力のある「普通」のサラリーマン達だ。即ちそれはマジョリティといわれる存在。だが、それでは希望は見出せない。会社や世間に立ち向かい、自分よりも競争力を持ったサラリーマン達と争って競争に勝つことは難しいだろう。社会的趨勢によって作られた枠組みの形を変えるにしても、そのためにはまず趨勢と闘わなければならない。これもやはり困難だ。でも社会(要するに自分の生活)は変えたい。

その八方塞の状況に希望をもたらしてくれるのがマイノリティだ。主要な競合相手を、立ち向かい勝利することが極めて困難であろうマジョリティから、少なくとも簡単に立ち向かうことができるマイノリティに摩り替えることで、希望を獲得することができる。それによって闘いのためのモチベーションが生まれる。あいつらさえ倒せば、きっと社会は、自分の生活は良くなるはずだ、と。この競合相手のすり替えによる希望の製造こそが陰謀論の根源であり、そして――何故ここに在特会の名が登場するのかは意味不明だが、それはともかく――くしくもここに名前の挙がった河村たかし、石原慎太郎、橋下徹といった連中は、そのすり替えによる希望の製造と頒布が上手いからこそ人気を博しているのだろう。

 ***

一般的属性を持った者同士の競合という要素がクローズアップされれば、その属性を持った多数派である自分が、同じく多数派である相手側からより明確な形で敵とみなされる可能性もまた高まることになる。政治的提案者からしても、そこで求心力を得るための対立軸を作ることは難しいし、そうなればその群れの統率を取ることもまた難しくなる。それに、競争力の無いサラリーマンがもっと良い生活をしたいと言ったところで、「自分で何とかしろ」と言って世間(マジョリティ)から叩かれることになるのは必至だ(それは自身がマジョリティでなくなることをも意味している)。そんなわけで、「普通の人(自分はマジョリティであると信じて疑わない人、或いはそうでありたいと強く願う人)」がそのリスクを避け、矛先をより安全なマイノリティに向けようとすることになるのは、まあ自然なことといえば自然なことなのかもしれない。にしても、こういうのは本当に大人の社会も子供の社会も変わらない。

 ▼(2)忖度主義

この言説でもう一つ気になるのは、仮にこの者が本当に「普通」という水準を獲得しているなら、それ以上他人に何を望むのだろう、ということだ。(二つの概念は必ずしも排他的ではないが、ベクトルとして)全ての人々に「普通」の労働環境と生活水準を、というのが社会主義で、全ての人々に言論の自由という「普通」を保障するから、後は自分達で何とかしろ、というのが民主主義。どちらも「普通」以上のものは何も保証してくれない。

前者に重きを置くなら、自分の持つ労働環境や生活水準は「普通」よりも下回っているから何とかしてほしい、と主張すべきだし、後者なら、せっかくこれだけ注目を集めることができる場所があるのだから、立候補とまではいかなくとも、先ずは自分の生活が少しでも改善されそうな政治的提案をすれば良いだろう(それが思いつかないからこういう主張をしている、ということもあるかもしれないが)。或いは、それを妨げるような状況があるならば、その状況の改善こそを訴えるべきだ。だがこの者はそのどちらもせず、ただ「普通の人」である自分の思いを汲み取り、代弁してくれる者の登場を願う思いを書き綴るばかりだ。つまりこれは社会主義的でも民主主義的でもない。あえて言うなら忖度主義といったところか。

 *祈りによる主義の貫徹*

ただ実際、この忖度主義こそが日本に最も深く根付いた一般的イズムなのではないかとも思う。というのも、例えば「もういい帰れ→分かりました→おい、本当に帰る気か、このバカもんが!!」みたいな、相手はきっと自分の思いを汲んでくれるはずだ、それができない奴は常識はずれ、というような暗黙の了解で日本社会は成り立っていたりするからだ。そしてその裏ルールの方が実際に明示された表ルールよりも重んじられていることも多い。つまり、社会的振る舞いとしての事実上の正しさが必ずしもルールとして明示されていないどころか、むしろ間逆であることも珍しくないから、結果として評価者(他者)が望むものの当てっこ、即ち忖度競争が社会的ポジションの獲得において非常に重要な位置を占めることになる。そうやって忖度を迫られ続けてきた者からすれば、相手もまた自分の思いを忖度してくれて当然だ、政治家なら一般的属性を持つ自分の思いを代弁するのが仕事のはずだ、というような思いを抱くことになるのは決しておかしなこととは言えないのではないか。

そもそも、社会主義であっても結局ポジション争いに敗れれば悲惨な目に遭うし、民主主義であっても、折衝能力のない人間は地獄を見ることになる。ではそれらの能力の無い人間は何をなし得るのか?もう祈るくらいしかないんじゃないか。多くの国ではそれは宗教的分野にお任せ、ということになるのだが、日本には大勢が共有する明示された宗教的原理が存在しない。その一方、相手の気持ちを汲み取ることを最も重んじる忖度主義では、祈りはむしろその正統的な地位に位置することになる(誰かがその思いを汲んでくれるかもしれない)。つまり冒頭のあの記事は、祈りの書き付けであり、それによる主義の貫徹なのではないかと。

しかしながら、この手の忖度主義が大手を振って歩いている以上、当然公正な競争が行われることもない。明示されたルールよりも暗黙のルールの方が重んじられることも多いわけだから(ついこの前も、まだ仕事が残っているのにサビ残もせずに直ぐに帰ったあの後輩は駄目だな、みたいなツイッターの書き込みを見た)。また、その慮りの文化に頼り続けてきた者が国際的な交渉の場で下手うったり、その暗黙の了解を逆手に取った詐欺に騙されたり、相手との内面の読み合いに溺れて精神を病んだり、企業や行政※1がルールをやぶり、そのルール破りを世間が支持する、というようなこともまた低減することはないのだろう。

 ***

まあそういう自分もまた、その忖度主義に溺れた者の一人なわけだが(ex.きっと相手は社会的にも経済的にも自分の存在に価値を感じないだろうから、他人に関わると迷惑になるし、誰も欲しがっていない自分を企業に売り込むこともできない)。感覚と意識(理屈)は必ずしも一致するとは限らないわけです。そして理屈でその感覚を払拭するのもまた容易ではない。



※1 <追記> 行政のルール破りが支持されることは余りないか。ここでは尖閣ビデオの流出が念頭にあったのだが、あれは個人だった。しかし警察などの行為は、権限を逸脱したものでもわりと受け入れられ易い傾向にあるように思う。

コメント

自己分析してみた

なんか「普通の人」というのが良く理解できなかったなぁ。ちゃんと各種業界支持団体とかは確かに存在するのだけど、それら全て除外してたとして、女性とか中小でない従事者やらなんかもみんな除いたとして、全体から見たらそれって「マジョリティ」なのかな。統計を見たわけじゃないんだけど、全体に占める割合ってどんなものかな?

ちなみに自前で労働組合を組織できない人のための共同労働組合みたいなものもあるから活用してはどうだろう、と助言する意味ってあんまないんだろうなぁ。

嘗ての日本の社会構造の弱体化や、社会的イデオロギー対立の時代が終わったせいで、自分自身のラベリングも不明瞭になったという背景が続いているんじゃないかな。単純に無党派が増えた要因としてはそんなもので済みそうなんだけど。良く分からない事だらけだ。

「普通コンプレックス」

>全体から見たらそれって「マジョリティ」なのかな。

労働力調査(基本集計) 平成22年9月分(速報)結果の概要『総務省「労働力調査」』
http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/pdf/05400.pdf

これを見ると、非農林業雇用者5456万人のうち男性の雇用者は3141万人で、これだけ見ても、少なくとも全体の過半数にはまず届かないですね。

厚生労働省:平成22年版労働経済の分析(要約版)
第1章 労働経済の推移と特徴/第1節 雇用、失業の動向
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/10-2/dl/01_01.pdf

「正規の職員・従業員」という雇用形態も66.3%にまで落ち込んでいますし、「労働組合の無い中小の正規社員」という条件を付け加えるとさらに人数は減ることになります。それに、それらの属性を持つ者達が必ずしも一枚岩になるわけでもないので、それだけをもってしてマジョリティと言えるかどうかといえばかなり疑問です。

そもそも、例えば集団内における「個人」は元々マイノリティ的な要素を持っていたりするように(私自身がこの記事で用いている「マジョリティ」とは、主にこの関係でのものです)、一人の人間には様々なマイノリティ要素とマジョリティ要素が混在しているわけで、「~において」という枠組みを設けず、争点も明確にしないままただ大雑把に「マジョリティ/マイノリティ」と言ったところで、それは余り意味がないように思います。

>共同労働組合みたいなものもあるから活用してはどうだろう、と助言する意味ってあんまないんだろうなぁ。

この人は本当に労働運動や立候補をしたいわけではないでしょうからね。多分、この人自身そういった政治活動には余り良い印象を持っていないんじゃないでしょうか。それに、そういった活動によって利益を得たり回復したりする折衝力無いからこそ、代弁者の登場を待ち望んでいる、ということもあるでしょうし。

>社会的イデオロギー対立の時代が終わった

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100917/216295/

かつて全共闘運動で活躍した人達が、今はモラルなき資本主義の権化に成り代わっているこういった状況を見ると、そもそも本当にイデオロギー的対立なんてあったのかな、と自分は思ってしまうのですが。確かに上辺はそのように見えていたかもしれないけれど、実際のところは世間(自身にとってより身近な文化圏で培われた感覚的趨勢)原理主義同士の衝突がそのように見えていただけであり、そこに確固たるイデオロギーなんてものは元々存在しなかったんじゃないかと。そしてその上辺上のイデオロギー衝突が生み出した弊害が、まるでイデオロギー自体が汚らしいものであるかのような雰囲気(感覚的趨勢)を作り出し、やがてそれは負のレッテルとなり、多くの人々はそれに触れたがらないようになった。だからその汚名を着せられるのを恐れ、「普通」であることを心がけ、それを強調する人が出てくる…と、そんなところじゃないでしょうか。

>自分自身のラベリングも不明瞭になった

しかしイデオロギーも(個人のものではなく、共有された帰属先としての)宗教もなく、社会構造的にも帰属先を期待できないとなれば、あとは自身の持つ経済的価値と、「普通の日本人」という観念上の肩書きくらいしか帰属できるものはないわけで、まあそりゃ多くの人間が不安になるわけですよ。昨今のナショナリズムの高まりも、そこらへんに原因があるんじゃないかと思います。

――まあそんなわけで、世間的圧力としての(感覚上の)「マジョリティ(=普通)」に収まらなければならない、でないと酷い目に遭う、という強い強迫観念を抱かせられるような環境下で生活し続けてきた自分のような人間からすれば、彼の言っていることは理屈上は全く賛成できませんが、感覚的にはわりと理解できたりするわけなんですよ。要するに、「普通コンプレックス」みたいなものなんだと思います。まあ自分は結局そこに収まりきらず、異端になりましたけどね。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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