ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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権威主義は無知者の知恵

 ▼(1)内容よりも、立ち位置や属性ばかりが話題になる

Togetter - 読売:山崎正和氏「ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」

2011年1月10日 読売新聞朝刊
日本の改新 識者に聞く 山崎正和氏

もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。

「今日の読売新聞の一面社説は最低」というのがRTされまくっているけど、文章で検索すればわかるけどこれ劇作家の山崎正和氏のインタビューじゃん…。読売のサイトを見れば、今日の社説は成人式の話だってわかる。山崎氏の発言が実証されちゃっている http://bit.ly/dJn5zf 
kanose 2011-01-10 15:24:49

ここで重要なのは、その問題提起の内容自体がどうであるか、ということであって、それが「社説であるか否か(より強力な権威を持っているか否か)」は瑣末な事柄だろう。そしてある情報に何かしら誤りがあれば、ただそれが誤りであると伝えればよいだけであり、わざわざ誤った情報を流した者達を見下したりする必要など全くない。

さらに言えば、新聞のように何重にもチェックが入った刊行物でさえ、誤った事実を報じてしまうことは多々あるわけで、この一つの間違いをもってしてネット/大衆社会の知的低下――そもそも、今より知的水準が明らかに高かった時代なんて本当にあるのか?単に今まで見えなかったものが見えるようになっただけなのではないか――が実証されることになるのなら、新聞もまた、遥か以前から既に知的低下を招いていたことになるだろう。むしろこういった間違いを犯すことよりも、(もちろん、誤りが発覚した後にどのような対応を取るかは重要だが)そういったちょっとした間違いをあげつらい、その対象に烙印を刻み付けようとする風潮の方こそが、人々の思考や関心の在り方を狭め、硬直化させる大きな原因となっているのではないか。

Togetter - 「東浩紀氏らの、『山崎正和』評」

山崎正和氏は、サントリー学芸賞をいただいた縁でいくどかお話したことがあるが、たいへんに見識のある、しかも柔軟な方だと感じた。だから、読売新聞談話の一節だけ取り上げて叩くって、ネットの連中はじつに愚かだと思う。本当の敵と「味方になってくれるかもしれないひと」の区別がついてない。
hazuma 2011-01-12 13:19:12

個人的な相性の良さや感じ方を根拠にして「だから」と言われても納得のしようがないし、そもそもここで問題とされているのは山崎氏のパーソナリティではなく――いや、中にはそれを問題としている人もいるかもしれないが――、発言の内容についてだ。よって、もしそれに対してなされた発言に何か問題があるのだとすれば、その発言のどこがおかしいかを指摘すればよいだけのことだろう。それを、知的訓練を受けた/行う側の人間――この発言は大学教授としての肩書きを持つ人物によるもの――が、身びいきする側への批判を十派一からげに「ネットの連中」とひとくくりにした上で、内容的な批判によってではなく、「じつに愚か」などとレッテルを貼ることによってお手軽に糾弾してしまうのならば、それはむしろ山崎氏が唱える主張の正当性がかなり疑わしいものであることを示す一つの事例にしかならない。

大体、ここで言う「味方」というのは一体何の味方なのだろう。ネット上の連中の発言は信用できない、とネット上に書き込む人達が沢山いることからも分かるように、ネットは一枚岩でもなんでもないし、それは新聞やマスコミとて同じことだろう。つまり、「ネットvs新聞(識者)」などという対立の実体なんてのは、端から存在していない。

 ***

この例がそうであるように、何らかの主張が話題となった時、その内容自体が人々の興味の中心になることは滅多にない。それよりも、「ネットvs新聞(識者)」のように、元々存在しない妙な対立軸が作り出された上で、その「どちら側につくのか」や、その主張は敵によるものなのか味方によるものなのか、そしてどうすれば敵により大きなダメージを与え、どうすれば味方を増やすことができるのか、といったことばかりが焦点になることが多い。或いは、主張の内容それそのものよりも、それがどのような属性や肩書きを持つ者によってなされたものであるか、ということばかりに注目が集まることが多い。

そしてそのような印象に基づいて敵/味方の判別がなされると、先ほどの「じつに愚か」のように、批判の内容云々以前に、味方側に対する批判自体を予め封じ込めようとするような力が働き始める。社会全体の知的水準を憂えるなら、むしろこういった属性主義や内容をそっちのけにした二分法に陥ってしまいがちな風潮こそ問題にした方がよいのではないか。

 ▼(2)権威主義は無知者の知恵

で、冒頭の山崎氏の発言について見てみると、やはりこの主張は妙だ。というのも、彼は大衆社会の知的低下を憂えているにもかかわらず、権威主義を前提とした社会を形成し、それを維持することの必要性を唱えているからだ。しかし、そもそも権威主義/属性主義というのは無知者の知恵であり、知的なものとは相反するベクトルのものだろう。

ある事案に対して適切な知識や判断力、分析能力を持たない者は、それに対して積極的な評価を下すことができない。その場合、その者にとってはどちらに付くか、ということが問題の焦点になる。そしてどちらを選ぶことがより適切であり、自身にとって望ましい結果に繋がるのか、というギャンブルに身を投じるしかない。となれば、大抵の者はできるだけ優位な方に賭けようとするだろう。そしてその優位性を見分けるために、属性や肩書き、経歴などから生み出される権威性が利用される。要するにこれはギャンブルに身を投じる人々が「当たる」確立を少しでも上げようとするための一つの知恵なわけだ(と同時に、有限なリソースを節約するための知恵でもある)。

だが、権威というのはイメージによって支えられているものであり、同じ対象であってもそれにどのようなイメージを抱くかは、其々が獲得した経験や感覚によって異なってくる。つまり、権威主義とはイメージ主義であり、個人的な感覚を根拠とした物事の判断方法でもある。

 ***

イメージによる誘引力や拒否反応を完全に払拭することはできない。全ての事柄に精通している人物もまた存在しない。直感が契機となって定説が覆される場合もある。それ故、イメージによる判断を完全に否定することは出来ない。とはいえ、そちらにばかり偏りすぎると危ういのは言うまでもないだろう。人間の持つそういった性質を積極的に利用して人を騙くらかそうと手ぐすねを引いている人間もいるし(というか、それを利用しないと資本主義は回らない)、実体とは全く乖離した方向での動きが取られる可能性もまた高まるわけだから。一方、無知な人間はおとなしくエリートの言うことを信じていればいい、その方が上手く行く、という考え方もあり、確かにその方が良い場合もあるので、どちらかが絶対に正しいとは言えないが、少なくともそのような偏りを帯びた状態が知的であるとは言い難い。つまり、もし大衆の知的低下を問題視するのなら、むしろ先ずはこういった権威/属性主義的偏重をこそ問題にしなければならない。

今回の騒動の在り様にも、権威主義的背景が少なからず関わっているのは間違いないだろう。権威であるというだけで信じてしまう人もいれば、権威であるというだけで批判する人もいる。また、それが権威としての強い力を持っていればいるほど、その影響力も大きくなり、その影響によってダメージを被った人々から恨みを買う可能性も高くなる。そしてその権威に一泡ふかしてやろうという動きが出てくる。だからこそ、「社説か否か」が問題の焦点になったりする。もし新聞が完全に権威を失っていたとしたら、「まあ新聞だから」として大した話題にもならないわけだから。つまり、これは山崎氏の主張が「実証されちゃっている」というより、むしろこういった騒動は彼の望む大衆社会にとっては付き物であると考えた方が適切だ。

 ***

――にしても、これが「マスコミが権威を持つ」ではなく、「マスコミが信頼される」であれば、こんな風に紛糾することもなかったんじゃないだろうか。もしこれがネット上で行われた主張であり、それが単なる言葉尻の問題であったとするなら、直ちにそれを訂正するという手もあったのだが。テレビなどでもそうだが、ある情報が大々的に報じられ世間に周知された後になって誤りが発覚し、その後それを訂正はしたものの、その訂正の方は全く世間に届いていなかった、というのはよくある話。そうやって広まったデマや偏見がそのまま常識として定着してしまった、というような事例も数多くあることだろう。そこら辺はテレビや新聞が持つ一つの大きな弱点と言えるかもしれない。

コメント

人間としてとても大切な何か

信じられないかもしれないが、昔こんな話を聞いた事があります。ちょっとしたパロディにして書いてみよう。「心配なのが、大衆音楽がより悪くなる事だ。電子楽器やインターネットの普及により、知的訓練を受けていない人が音楽を発信する楽しみを覚えた。これが芸術の軽視につながり、「責任を持って作品を選択する権威」が弱くなれば、音楽レベルの低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。」

責任あるエリートがどうのこうのという主張は言っていなかったのだが、だいぶ同じような感じだ。・・・この君の悪さは何なのだろうか。おとなしくエリートの言うことを信じるとかいう以上になにか薄気味悪い。

> マスコミが信頼されるであれば、こんな風に紛糾することもなかったんじゃないだろうか

引用や情報の正確さについては、可能な限り保守的に取り扱うべきというのが私の新年です。そして、大衆社会の性質というだけでなく、大衆社会(というよりもネット上での情報の扱いを想定しています。少々誤解を招く表現です)もその正確さを高めるべきであり、今こそその良い機会だと考えます。メディアリテラシー、統計リテラシーは必須の過大なのだと考えます。マスコミが信頼される社会よりも一人一人が信頼される社会が理想です。

もっともメディアにおける統計情報の扱いや学問上の報告の歪曲報道にも悪質なものが多々ありますし、最悪の場合学者までもがそれに加担している事があるのも事実ですね。

恐怖心は攻撃性に転化される

>この君の悪さは何なのだろうか。

私は、人間があらかじめ獲得している多様性を、本来そのうちの一つでしかないはずの一つの価値観の元に従えようとしているところに気味の悪さを感じますね。単なるルールやモラルを巡る争いというより、予め収まるべき真理としての枠組みを全ての人間が共有しているかのような前提で話を進めてしまっているというか。これは「(人間的)成長」とか「コミュニケーション能力」という言葉が使われる時にもよく感じることですが。

ただ、ここでパロディ化されたような言説の場合は、同じように彼らなりの未知なもの・状況への恐怖心/気味の悪さがあり、その恐怖心を何とかねじ伏せようとした結果、それが攻撃性へと転化され、ああいった言説が生み出されている、という面もあるように思いますが。

>一人一人が信頼される社会

一方的に「信頼」に頼っているうちは、結局「権威」に追従しているのと同じことになってしまうわけか。

>メディアリテラシー、統計リテラシーは必須の過大

そうならないためにも、「統計リテラシー」は重要ですね。私自身、それに苦手意識を持っていたりしますが。「メディアリテラシー」の方は、既にそれ自体がレッテル化し、政治的道具として用いられることの方が多くなってしまっているのがなんとはや…という感じです。

hierarchy

日本人のことについて、もっとよく学ぼう。日本語しか知らない人は、日本についてもよく知らない。


言語は、考えるための道具である。言語が違えば、考え方も異なる。

日本人は、本当に礼儀正しいのか。
我々の礼儀作法は、序列差法である。序列なきところに礼儀なし。
日本語には階称 (言葉遣い) がある。
言葉遣いの意味を身振りで表わせば、序列差法になる。

日本人は、なぜ察し (勝手な解釈) を使うのか。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。
日本人には、意思がない。
それで、勝手な解釈を利用する。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
恣意は、文章に表わせない。アニマル・子供に共通である。
恣意は、相手により察しにより文章化される。
本人には、その内容に責任がないが、それは本人の意向とされることが多い。

日本語には階称 (言葉遣い) があるので、日本人は序列人間 (縦社会の人間) になる。
義理 (序列関係) がすたれば、この世は闇だ。
意思はなくても、恣意があるので、アニマル風に行動する。

意思のない日本人は、天の声により行動が定まる。自分自身で考える力はない。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
だから、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要に迫られることになる。
これは、昔からある浪花節でしょうね。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812



日本人論

>nogaさんへ

記事の主題に関係あるかどうか微妙なところですが、日本人論というのもまあ関係なくはないかなということで、私なりの考えを簡単に述べておきます。

>意思のない日本人は、天の声により行動が定まる。自分自身で考える力はない。

日本人云々以前に、そもそも自由意志というもの自体が存在しないというのが私の考えです。

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/blog-entry-448.html

まず状況があって、その後にその状況が認識され、意味付けが行われる。そしてそれによって其々「別々の世界観」が出来上がっていく。何故なら、同じ資質や環境、経験を積んだ同じ感覚を持つ人間は誰一人として存在しないからです。つまり、意思というのは常に状況の後追いであり、そして其々は全て異なった法則が支配する(ように認識される)別々の世界に住んでいる(――認識だけではなく、現に、同じような資質と環境を持った者が同じような選択をしても、正反対の結果が導き出されることがある。人生には真に正しい統一的な法則は存在しない)。

そうである以上、個々人が集まって集団生活を送る際には、世界観のすり合わせが必要になります。西洋文化ではこの時、外部に原理や理念を作り上げ、それによってすり合わせや結びつきが行われる傾向があります(故に衝突もまた、主に原理や理念の違いから生じる)。しかし日本文化ではこういったすり合わせ(社会的合意)の風習を持っていません。その結果、個々人の実感主義的趨勢によって作り出された社会的抑圧(世間/空気)そのものが集団生活における世界観の覇権を握ることになる。と同時に、そこには理念が存在しないため、そうやって作られた現状自体がモラル的な「正しさ」に成り代わる。

つまり、現状におけるポジション的優位性がそのまま「正しさ」の優位性に成り代わり、序列や形式そのものがモラル化する。また、行動原理を極めていい加減な世間的趨勢や実感に依存している以上、その行動もまた必然的に恣意的なものにならざるを得ない(そして其々はその不確かなものに行動原理を依存しているが故に、お互いにお互いが信頼できない。だから社会的合意もできない)。

>我々の礼儀作法は、序列差法である。序列なきところに礼儀なし。
>日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。

日本において序列が重んじられ、強い恣意性が表れるのはそういうことなのではないかと。

>だから、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要に迫られることになる。

そういう環境で上手いこと生活を送ろうとすれば、どうしても世間/空気の風見鶏的、或いはウケねらい的に振舞わざるを得なくなる。或いはやけくそになって「台無し」にするしかなくなる。

とはいえ、誰もが全て好き好んでそういう環境で耐え忍んでいるわけでも、「台無し」にしているわけでもないでしょう。恐らく、その多くは社会的抑圧(世間的抑圧を根拠とするモラル的「正しさ」)によって仕方が無く――例えば、虐めに加わらなければ今度は自分が虐められるので嫌々それに参加するといったように――それを肯定している。そして嫌々であるが故に、「それが正しいんだ」と自分に言い聞かせ、他人にその正しさを押し付けようとする(でないと、自分だけが損をして不公平感を感じる)。そしてその「言い聞かせ」がさらに抑圧の加勢となっている、というのが現状でしょう。

であれば、其々が持つその「本当は嫌」という正直な思いを如何にして引き出し、解放するか、ということが状況を打開する重要な鍵になるのではないか…というのが私なりの日本人論です。

ますます記事の内容から離れてしまうなぁと思いつつ

漢字の間違い、誤字脱字を注意されました・・・ガイジンに(私の上司もガイジンなのです)。そして日本語で注意されました。おお、なんという屈辱!漢字のテストとかいう屈辱的なものは全て高校で封印されたはずなのに。

私は高らかに宣言します。

「日本語の一番素晴らしい所は、漢字変換です。」

・・・ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。勉強します。

話がそれましたが、恐らく二度と見てくれないのだろうなぁと思いつつ、ますます記事の内容から離れてしまうなぁと思いつつ解説。

> 言語は、考えるための道具である。言語が違えば、考え方も異なる。

言語から思考や文化を記述しようとする試みは古くから行われているものですが、今回の話にはあまりに杜撰な記述が多すぎます。

この手の「Whorfism」と呼ばれる主張には、科学的根拠は殆ど無いか、有ったとしても極めて曖昧です。また、文化的な一般化を行うという面だけを見ても説明能力の高いものではありません。確かに言語と文化には歴史的に関連する側面もありますが、それが通時代的に成り立つ事を保障してはくれません。

それにしても、日本語には意思の接尾辞がありますが、どうして意思が無いのでしょうか。「未来」と「意思」の間に関連性を見出すのは良い線いってますが、都合の良い解釈だけに目を向けず、どこまで言語表現として適切なものであるかを、まず、考察しましょう。

「日本語に時制がない」という通説はそもそも誤りです。それは数百年ほど前であればその主張は可能でしたが、|-ta|, |-ru|という過去と非過去の表現は、対立的(ちなみにこれが時制の条件)かつ規則的に適用可能です。現代日本語においては時制の条件を満たしていると解釈するのが妥当でしょう。

また時制が無かったとしても時間の表現は可能であり、それが思考を決めているわけでは有りません。中国語話者には時間概念の把握や論理的仮定の把握が難しいと言う説も有りますが、科学的な検証には耐えず否定されています。そもそも、ここで「時制」と呼ばれているものは、動詞の変化に関する文法カテゴリーにのみに言及するものであって、それが言語全体の特徴を、ましてや、その言語話者の思考を表現しうるものではありません。時制が存在しない場合は時間詞と時態助詞が果たす役割が大きくなりその代わりを果たします。共感を重視する英語(実際にはアメリカを念頭においているのですが)においても敬語表現が無いなどと言われることもありますが、それは人称代名詞や一部の動詞における表現の話であって、程度の異なった様々な表現が可能です。

細事にこだわれば(おお、この慣用表現覚えたぞ!)、学校文法はともかく、未来時制なる物は言語学上存在しません。言語の構造的側面から人間を分析するのであれば、時制、法、相の区別は知っておいてください。

日本人の事についてもっと学ぼう。そして言語についてもっと学ぼう。私は漢字を学ぼう。

母国語のエキスパートは余りいない

>細事にこだわれば(おお、この慣用表現覚えたぞ!)

googleで「"細事にこだわれば"」を検索したところ1件でした。「”細事にこだわる”」で検索すると、約 11,200 件でしたが、「もしかして: ”素材にこだわる”」と間違いを疑われてしまいました。因みに、ネイティブの私が今までに実際にその表現を使った回数は0件でした。これからは使っていこう。

>この手の「Whorfism」と呼ばれる主張

Whorfismですか。初めて知りました。

そういえば、「十分な」「承認」「調べる」など、英語では其々異なった意味を持つ複数の単語を、日本語では同じ一つの言葉でしか言い換えることができないケースって多いですよね。

例えば――検索してみたところ、「表現の自由」は一般的には「Freedom of expression」とされているようです。しかし、とある場所で、表現の自由の「表現」はrepresentationだから~、というような論理展開をしているのを見かけました。この場合、「表現」の範囲はexpressionより狭まることになり、実際そこでの主張もそのようなベクトルを持つものだったと思います。

こういったものがどれ程の影響を持つものなのかは気になります。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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