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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

嘘が経済を回し、自己責任がそれを止める

【2ch】ニュー速クオリティ:ブルーベリーが「目に良い」は嘘っす

ここでは何かこういったことが特殊なことであるかのように扱われているが、むしろこういったことは非常に一般的なことであると考えた方が妥当だろう。
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これに限らず、体裁と実態を本気で一致させようとすると、多くの商売や労働は成り立たなくなる※1。そして多くの者が、ありもしない何らかの効能や、機能以外のイメージに突き動かされるからこそ、経済は調子よく回り続けることができる。経済活動にはそういう一面がある(故に多くのCMは、内容を説明するよりもイメージに訴えかける)。よって、ブルーベリー・アイ的なものを全て厳密に否定していくと、相当数の人間が職を失うことになる。それどころか、本当のことばかりを言っていると職を得ることはおろか、人付き合いすらできなくなるだろう。つまり、そういった欺瞞に依存しないと「自立(持続可能な依存状態)」すら獲得することができなくなるわけだ(――とはいえ、こういったものをいつまでも放置しておいてよいのか、ということは逐一考えていく必要はあるだろうが)。

 ▼自己責任が経済を萎縮させる

この手の健康食品、或いは自己啓発・資格ビジネスなどもそうだが、それらはそこで述べられた効能以上に、私は健康に、人生に良いことをしている、という幻想を売っている側面の方が強いと考えた方が適切だろう。で、そういった消費生活を送って失敗をすれば大抵は自己責任ということになるわけだが、そう考えると、自己責任という概念が重んじられるのは――その根本は自由意志への信仰だが――、大局的観点から見た経済的配慮、という作用もまた大いに関係しているのではないかと思えてくる。ここら辺を余り厳密に突き詰めていくと、その曖昧さに依存する形で生み出されている多くの商売は成り立たなくなってしまうわけだから。

消える若者市場:日経ビジネスオンライン

現に、個人の経済的失敗は基本的に自己責任であるとされるが、大局面から見た財界のビジネス的・経済的失敗は、自己責任とされることはない。むしろそれは「消費に背を向ける若者」というように、消費者側の責任とされる(人口減少、平均年収の低下という決定的要因を把握しているにもかかわらず、最終的には「背を向ける」という消費者側の個人の意思の問題に落とし込まれてしまう)。

自己責任という言葉が一般レベルで使われたのは、イラク邦人人質事件が最初ではない。それ以前に、証券会社と契約した個人の顧客が軒並み大損をするケースが相次ぎ、ちょっとした問題になったことがあった。その時、証券会社側が持ち出してきた言い分が自己責任だった。恐らくこれが自己責任という言葉が日本で広く一般に知れ渡った最初の出来事だろう。つまり、個人と組織の経済的利益が競合した際に、組織(企業)側の肩を持つことを目的として持ち込まれた、というのが日本における自己責任の出自だった。そしてこの構造は、イラク人質事件でも引き継がれていた。というのも、あの問題が紛糾したのは、無謀なことをした人間の命を救うために集団の財産である税金を使うべきではない、という考え方がその根本にあったからだろう。そして多くの組織は、その概念が持つ機能を最大限に利用し、各々の経済的利益を守ってきた。

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だが物事はそう簡単にはいかない。というのも、――他人に自己責任を突きつけるだけの人間はともかく――自己責任の「正しさ」を内面に強く焼き付けられてしまった人間は、その分だけ警戒心が強くなり、騙されまいとし、冒険もしなくなるからだ。すると結果的に消費に消極的にならざるを得ない。経済というのは機能ではなくイメージ、つまり嘘で回っている。それを、こんなの嘘でしょ、と言って効能の不確かな商品を買うという冒険をしなくなれば、或いは、オシャレやステータスなどという虚飾のために消費するよりも家計を守ることの方を重んじるようになれば、当然ものは売れなくなる。

例えば今の時代、単純にコスト面だけを考えると、多くの者にとって家や車を買うことは決して賢い選択とは言えないだろう。これまでは未来の経済成長を当てにすることはもちろん、それがステータスだから、という動機もまた一緒になって消費を支えていた。つまり、アレを買えば私も幸せになれる、ワンランク上の人生を送ることが出来る、というような幻想が消費を後押ししていた面があった(「中高年に“若さ”を売れ」というのは、まさに幻想を売る商売)。しかし、自己責任の洗礼を受けた者達からすれば、それは逆に危機管理能力のない馬鹿のすること、というネガティブなステータスになる。つまり自己責任は、個人と相対する組織/集団側の経済的優遇という機能を持つと同時に、個人消費を冷え込ませる機能をも兼ね備えている。

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日経ビジネスオンラインの記事で取り上げられたような問題は、根本的には「無い袖は触れん」であり、せっせと血栓を作りながら「血流が悪い」と他人をどやし付ける人間がいる、というだけの話だろう。だがそれと同時に、組織が目先の利益を守ろうとして自己責任に依存し過ぎたが故に、個々人の危機管理意識が高くなりすぎ、それによって益々消費が冷え込んでいる、という一面もあるのではないか。つまり、血栓を作りながら「血流が悪い」と他人に不満をぶつけることに無理があるのと同じように、自己責任の機能に散々依存しながら消費の冷え込みを改善しようとすることにもまた無理があるのではないかと。



※1 多くの労働は、実際には大儀と異なった内容を持っている。と同時に、それは他人への迷惑にもなっている。人間もまた生存競争の最中にいる以上、どうしてもその活動は競合する。労働が崇高なものとされるのは、“金を稼いだこと”や“公認労働環境で作業したこと”をイコール“社会の役に立っている”と乱暴に読み替えているからに過ぎない。

コメント

実を言うと何に効果があるのすら言っていない

ご存知ですか。もう花粉が飛び始めているのを。またマスクにサングラスをかけて警察に咎められる季節が近づいてきました。というか、サングラスだけなので捕まりました。私は怪しくないよ。ほら完璧普通。

> 機能以外のイメージに突き動かされるからこそ、経済は調子よく回り続けることができる。

結構な値段で売れるし、少しも法律に触れていない所が良いです。商売人の鑑でありましょう。

関連する話題ですが、「イメージ価値?」のみで値段が付くものってとても多いですよね。というか、市場経済においては「競争によって値段が決まる」とか「優れた技術を使っているから高い」というのは一部の世界だというのが公然の秘密。モノが高いのは高くても売れるから高いのだ。

一方でイメージでは売れない分野がある事も事実で、消費財よりも生産財ほどその傾向は強いです。モノの底力が見れる分野であり、高度な性能と価格における競争が発生する世界です。逆に、消費財の世界においても少しでも軌道を変える努力は必要だと考えます。

> 実際には大儀と異なった内容を持っている。と同時に、それは他人への迷惑にもなっている

いわゆる、Win-Win は幻想に過ぎない、という事ですね。人の意見を全く聴かずに、ガイジンらしく「私の結論」を先に言うと、それは異なった度合いと方向性を持つのであり、「やり方次第だ」という事です。

怪しげな商品よりも「適切な診断」や医薬品を薦めるというの物を考えて下さい。サプリメントだけでなくそれまで病気として(一般には)考えられていなかった物や医療機関を利用していない物を「病気にする」仕事があります。今、聞こえの悪い言葉をあえて使っているのですが、もうちょっと直接的に書くと「いかにして患者を増やすか」という感じですね。ひょっとしたら、最近そうしたテレビCMが増えているのに気づかれているかもしれません。では、この患者を増やすという仕事は「他人への迷惑」というものなのでしょうか?

まず、第一に「患者を増やす」というのは古くから行われてきた医療技術の進歩そのものといって差し支えないです。第二に医者の出した薬は本当に効く(まあ副効果もあるかもしれないが)という事でしょう。第三に、「他人への迷惑」はこの場合最大の迷惑をこうむる(競合する)のは代替療法であって「患者」ではありません。もちろん同業他社とも争うでしょうが、代替療法よりはマシです。という事は、ここで行われた行為は、イメージを駆逐し、かつ高度な性能と価格における競争が発生する方向に動いています。消費財の世界の一部をモノの世界に引き込む効果を少なからず持っているわけです。

私は全てに関して悲観的になる必要はないと考えています。もちろん全てが「社会の役に立っている」あるいは「全て社会の役に立つため」と考えるほどお人よしでは有りませんが、全くの嘘であるとも考えてはいないのです。人間のそうした努力が無意味である事にはならないのであれば、その信念を貫く事には価値がある、と考えるほどにはお人よしです。

生きるとは、他人に迷惑を掛けることでもある

>サングラスだけなので捕まりました。私は怪しくないよ。ほら完璧普通。

自分などは中身の方が怪しいですからね。ヘンリー8世の時代なら既に私は死刑です。

>いわゆる、Win-Win は幻想に過ぎない、という事ですね。

いえ、Win-Win 自体が幻想というより、労働(商売)を行うこと、及びその前提条件として必要となる公認労働環境の獲得は、それだけで Win-Win の条件を満たすはずもないし、また、ある関係において Win-Win の関係が結ばれたからといって、それだけでは必ずしも「社会のためになっている」とは言えない、ということです。何故なら、ある Win-Win のために loser が生み出されるということは決して珍しくないからです。そして本来、社会にはその loser も含まれているはずです。にもかかわらず、それが何の臆面もなく「社会の役に立っている」と読み替えられるのは、その loser は社会の一員ですらない、ということを言っているに等しいのです。

しかもそうやって「非社会」化された存在は、社会的競合の結果、つまりある種の――皆が(少なくとも建前上)礼賛して止まない――競争であり、社会的ポジション争いの結果として生み出されている側面もあるわけです。ところが、それに敗れてある人間がその「非社会」ポジションに収まると、それは競争が足りなかったせいにされてしまう。つまり、予め全ての人間が収まることができる分だけの良好な社会的ポジションが用意されていない以上、ポジション争いであるところの社会活動は、結果として誰かの迷惑にならざるを得ないということです(文字通り死ぬほど迷惑を掛けられて自殺していく人間に、自殺は迷惑だという言葉が投げつけられるのが現実。かといって、生き続けたところでそれはそれでまたやはり迷惑だと言われたりするわけですが)。

よって、他人への迷惑は、生活を維持するのに不可欠でないそれをすべきではない、という程度のものであって、「他人に迷惑を掛けてはいけない」という規範自体が間違いだと私は思っているわけです。そのような規範は、それを真に受けた人間の自由を奪い、ポジション争いにおいて不利な状況を作り出す一方、自身が他人に掛ける迷惑に無神経な人間には大きなアドバンテージを与えることになる。そしてそれによって良好なポジションを獲得したならば、今度はそのこと自体が「社会の役に立っている」と乱暴に読み替えられ、そうであるが故に、そういった人間はどんどん増長していくことになる。自らが獲得したポジション的優位を大いに活用しながら。私が問題視しているのはそこなんです。

>患者を増やすという仕事は「他人への迷惑」というものなのでしょうか?

「患者を増やす」にも問題はあると思います。例えば「患者化」によって、本来状況/構造によって生み出されている問題が、恰も個人のビョーキが起因となって生み出されているものであるかのように扱われてしまう可能性が出てくる。その場合、その問題は「患者」側がビョーキを治すことによって解決すべきであるとされ、一方的に責任を負わされることになる。となれば当然問題が改善される方向に動き出すこともない。或いは、人間が元々保有する多様性に起因するコミュニケーション齟齬の問題が、一方の側のビョーキの問題として捉えられ、治療の対象とされてしまうということもあるでしょう。お前の努力と苦労で多様性を克服せよ、というわけです。そしてそこに戸塚ヨットスクールや吉田百合子、地獄の研修、その他自己啓発ビジネスの入り込む余地がでてくる。それらは基本的に代替療法なわけですが、「患者化」が逆にそれらの必要性を裏づけてしまうということもあり得るわけです。

>「全て社会の役に立つため」と考えるほどお人よしでは有りませんが、全くの嘘であるとも考えてはいないのです。

そもそも、「社会」というのは概念上の存在であり、実際にそれが明確な主体として存在しているわけではありません。つまりそれは結局のところ、個々人が思い浮かべるそれでしかなく、そのような個人的感覚が正しさの根拠として持ち出されてしまうこと自体に問題があると思うのです。全ての人間の思惑が一致するなんてことなんて先ず無いでしょう。個々人の目的は常に競合している。ところが、その個々人の目的の集約が、一旦「社会」というフィルターを通すことで、真理化してしまう。そして「真に正しい人間の目的」が抑圧の後押しをする。

要するに、「役に立っている」と言うのなら、自分のためになっている、或いは Win-Win の関係を結ぶことができた誰々のためになっている、はたまた、そこで述べられた何らかの目的のためになっている、というように、誰の何のために役立っているかを言えばよいだけであって、何の留保もなく安易に「社会の役に立っている」などと言うべきではないと思うのです。

>その信念を貫く事には価値がある

もちろん、世の中が決して解決しない問題で溢れているからといって、全てを仕方が無いでかたずけるよりも、そちらの方が良いでしょう。しかし信念を貫くにしても、その前にまず世の中がこういった問題を抱えているということをよく理解しておかないと、それがかえって仇になってしまう可能性も出てくるわけです。歴史的な惨劇は大抵、「社会を良くするため」に行われていますから。あの注意書きで私が言いたかったのは、そういうことなんです。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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