ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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批判に資格は必要ない×批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

Twitter / 猪瀬直樹

まだ言いたいことがある。ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビュ―うけてもよい。


Twitter / hiroki azuma

猪瀬さんに森川さんを紹介した甲斐があった。コミケ条例適用外の言質を都トップから得た。マンガ規制反対で猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん、これが政治です。

この森川という人物は、夕張で雪かきをしてきたのだろうか。猪瀬氏がネトウヨ認定しない人間はオッケーということか。まあこれは、行政のトップが政策についての意見を、自分の気に入った人間からはだけは聞いてやると言っているわけで、どのみちそんな無茶な主張に乗っかって妙な前例を作らない方がいいに決まってはいるのだが…。

にしても、もし「これが政治」※1なのだとしたら、政治は権力やコネを持った一部の人間だけに許された特権ということになってしまう。
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実際ネットの一部ではこの発言に多くの反発が寄せられているわけだが、逆にそれを非難する声もある。

はてなブックマーク - Twitter / hiroki azuma

tegi おたく文化 これを否定するだけの人ってなんなんだ。自分は何をしてるのか。あんたら聖人かなにかか。

Sigma こういう実績積み上げの努力を叩く人らは、どんな政治活動してたの? 何人の政治家を説得したの? 抗議署名してただけ? / でも、コミケはゾーニングできてるし問題ないのは明白。そんな安全サイドの話はいいんだ

しかしこれは逆だろう。むしろ彼は、コネを持たない多くの人間は行動しても無駄だという内容の発言をしているわけだから。だからこそ多くの人間がそれに拒否反応を示したわけで。

そもそも「実績」というが、これは実績とは言えない。いくら言質を取ったところで、実際に明文化されていない限り、結局のところそれはお上の都合で恣意的に運用されてしまうというのはいわずもがなだ。言質と名文が対決すれば、最終的に名文の方が正しいということになる(そしてそれは手法として戦略的にも用いられる)。また、実際に条例が適用されないとしても、こんなやり方ではお上の配慮によってそれが許されている、というような状況が作り出されてしまうことになる。

仮にこれを実績だとみなしても、実績を出したとされる者をそれを出していない者が批判してはならない(或いはその批判が嘲笑の対象にされる)、ということになれば、多くの者はそこで口をつむぐしかなくなる。また、実績を出して初めて政治活動をしたことになるのならば、予め成果が約束されている一部の人間だけしか政治に参加しなくなるだろう。これは、社会的に大きな影響力を持っていない者は黙っていろ、と言っているに等しい。もちろん、批判としての条件を満たしていない非難は「叩き」として蔑まれてもしかたがない。だが、それはその者が実績を出したか否か、或いはそこでの主張以外に何か他に派手な活動をしていたか否かとは全く関係のない話だ。

つまり、政治参加や政治活動を重んじるのであれば尚さら、「これが政治です」の持つ問題性に注目せざるを得なくなってくる。また、批判をすること自体に何らかの条件を課すのだとすれば、それは多くの人間から政治参加の機会を奪うことになるわけで、そのような主張をするのと同時に、より積極的な政治活動をしていなかったことを問題視するというのは、全く筋が通らない。

 ▼批判に資格は必要ない

民主主義は内容を一切保証していない。ただし、誰もが自由に主張することができる。それが民主主義が持つ唯一の長所。その長所を奪ってしまったら、一体民主主義に何が残るのか。

批判の価値は、それが批判としての条件を満たしているか、批判として的を射たものであるか、ということによって判断されるべきであり、その者が持つ肩書きや属性や経歴で判断すべきものではない。また、批判すること自体に資格を求めるのも誤りだ。もしその者が別の案件で全く異なった逆の主張をしていたとしても、或いはそこでなされた主張とは間逆の行動を取っていたとしても、それはその主張自体が間違っていることの証明にはならない。そういった整合性の無さによって損なわれるのはあくまでその者自身の信頼性であって、そこで述べられた批判自体の評価はまた別にあるはずだ。

それに、実際にそれによって成果を出した者や出せる者だけしか批判をしてはならないのだとすれば、それは一部の人間だけに限られた特権となり、多くの者は目の前にどんな酷い状況が成立していても、ただただその現状を追認するしかなくなる。また、そこで述べた主張と己の状態とを常に一致させなければならないのだとすれば、「聖人」は滅多にいないわけだから、世の中の主張は自ずと自己の状態と簡単に一致させることができるような粗悪な主張で溢れかえることになるだろう。そしてそれは同時に、過去の過ちによって行ってよい批判や主張がどんどん狭められていくことをも意味しているから、人々から修正の機会を奪うことにもなってしまう。

 ▼批判の禁止が誹謗中傷を増長させる

そもそも、批判に資格が必要なのだとすれば、一体誰がその資格を判断するのだろう。そしてその資格を判断する側の正しさは何によって担保されるのだろう。結局のところ、それは武力であったり、社会的抑圧であったりするのではないか。

何かが批判され始めると、それが持つ内容の判断以前に、批判自体を封じ込めようとする動きが必ず出てくる。この社会は、批判を武力によって封じることは問題視されるが、社会的抑圧によってそれを封じることには非常に寛容だ。実際、実社会(とネットの外の社会を仮にこう呼ぶ)で体勢の側を批判すれば、人生そのものを危機に晒すことにもなりかねない。そこでは、抑圧による押し通しによって「正しさ」が担保されている。それ故に、多くの者は批判をする機会を、批判の仕方を学ぶ場を得ることができない。そしてその代わりに、「押し通し」を学ぶ。

ネット上に誹謗中傷があふれている※2のは、このことと無関係ではないように思う。実社会では、体勢の側を批判することは実質的に禁止されているに等しい。よってその分の鬱積を、人生を危機に晒すことなくものが言えるネット上で晴らすことになる。しかし、批判や議論の仕方について学ぶ場が殆ど無いため、多くの者は、批判一つとっても、それをどのようにして行ってよいのかが分からない。となれば結局、実社会でみっちり仕込まれた、抑圧による「押し通し」で其々の「正しさ」を証明するしかなくなる。それが誹謗中傷として表れる。そしてネット上におけるその抑圧は、再び実社会が持つ抑圧の「正しさ」の根拠として利用される。

どうもこのような悪循環があるように思えてならない。



※1 「猪瀬さんやぼくを叩いていたみなさん」をコネも抑圧も使わず纏め上げて、「これが政治です」と言っていれば格好よかったのに。それこそ政治だと思うが。明文化に漕ぎ着けたのならともかく、コネ使って言質を得たことで威張られてもなあ。「みなさん」は、コミケの心配だけを理由として騒いでいたわけでもないだろうし。

※2 実際には誰もが見られるような形で可視化されていないだけで、ネットの外もまた誹謗中傷で溢れているのは間違いないだろうけど。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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