ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ウケ狙いが生み出す惨劇×内戦回避のための戦争(ホカホカ)

Togetter - 「NHKスペシャルが本気を出しすぎていてもう何も恐くない」

もしこの番組が、「マスコミが戦争を煽った事を自己批判できるのか? という特集。」としてしか捉えられないような作りになっていたとするのならば、それ自体が正に戦前に行われたマスコミ報道と同じ性質を持つものということになるだろう。
------------------------------------------

 ▼(1)ウケ狙いが生み出す惨劇

マスコミは民衆に大きな影響を当たることは出来るが、コントロールすることなんて出来ない。親が子供を、学校が生徒を思い通りにすることができないのと同じように(特定の小集団が世間の流れを自在にコントロールすることが出来る、という考え方が陰謀論の根源)。一方がいくら特定のベクトルに誘導しようとしても、それに流されたり、それを支持したりするような状況が受け手側にも同時に成立していないと、その誘導は成功しない。そして小集団が無理に世間を特定のベクトルへと導こうとすれば、大多数の側である民衆から顰蹙を買うことになり、自身の身が危うくなる。

人気商売という性質をとりわけ色濃く持つマスコミは、こういったことに非常に鋭敏だ。故にマスコミは、利益のために、或いは自身の身を守るために、常に世間が持つ潜在的ベクトルを先読みし、その流れに沿った情報を提供しようと試みる。そしてその読みが当たっていれば社会はそのベクトルへと動いてくことになるし、外れていればバッシング(当時はそれが不買運動として表れた)を受けることになる。マスコミはただ、ひたすらそのトライ&エラーと修正を繰り返しているだけとも言える。

 ***

背景に強大な武力的裏づけでも持っていない限り、世間に支持されないメディアは基本的に生き残れない。これはメディアの本質であると同時に、営利企業の本質でもある。そして殆どの人間はその組織、或いはそれらが作り出すシステムに依存している。故に、世間に支持されない個人もまた生き残るのが難しい。よってマスコミに所属する人間に限らず、その能力がある人間はどうしてもウケ狙いに走る傾向がある。さらに言えば、経済的利益を伴わない匿名掲示板などにおいてさえウケ狙い的振る舞いが非常に活発であることからも分かるように、それは必ずしも金銭的利益のためだけに行われているというわけでもない。人間にとって他人から認められるというのは、それほど重要な意味を持っているということだろう。そして戦前におけるあれらの報道も、そのウケ狙いが生み出したものと考えた方が妥当だろう。

石橋(東日記者)「谷萩大尉が『あれは関東軍の謀略』と話してくれた」  報道しろよwwwwwwwwwww
tareyuu

まあそれは正論だが、実際にそれを報道していたら、その新聞社は今は存在していなかった可能性すらある。となれば、大概の人間はそんな危険な賭け(外れれば自己責任だぞよ)はせず、安全な道を選ぶことだろう。そのような処世術――現在では自己管理能力と呼ばれることが多い――を持ち合わせていない一部の人間を除いて。しかし、そういった人間が洗練された組織に入り込む余地はあまり無い。

商売で言うと、引き時をミスったんだな……
kisei64

むしろ引き時があると思っていたことが間違いなのではないか。多くの人間が実際に戦争にまで至るとは思っていなかった、というのは、バブル時はみな自分は引き際をわきまえていると思っていた、というのと同じこと。

「メディアの戦争導入・開始責任」を此処まで完璧に発掘したのは高く評価するが、「NHK自身の検証」が全く抜けているのが最悪である。以前の「軍部がー」に比べれば数段マシだが、この期に及んで「NHKは知らない・スルー」との姿勢は厳しく批判されるべきと考える。 
hebotanto

「NHKは知らない・スルー」という内容ではなかったと思うが、それはともかく――しかしだとすれば、「民衆自身の検証」は一体誰がするのだろうか?番組では「メディアがおかしくなれば国家はおかしくなる」と言っていたが、その「おかしい」というのは誰が判断するのか。その当時、それはおかしくはなかったのではないか。マスコミは情報の提供はするが、それに評価を下すのは民衆の側だ。よって、単純にマスコミの報道に騙されて戦争へと突き進んだと言うのならば、それはマスコミが持つ力の過大評価(と同時に、民衆は馬鹿だと言っているのと同じ)であり、とんだカマトトだ。だがマスコミはそのことを分かっていながら、その方が民衆にウケるからという理由でそのような報道をすることもあるだろう(そうすれば、民衆は馬鹿であるが故に責任能力はなかったということになる)。或いはそのような筋書きにしないとバッシングされかねないという恐怖心がそうさせるということもあるだろう。

即ち、双方共にそれが嘘であると分かっていながら、阿吽の呼吸によるすり合わせによって世間的常識が作り出されてしまう可能性がある。そして最初は誰もが「自分はそれを方便だと知っている(引き時をわきまえている)」と思っているのだが、そのうち常識が一人歩きし始め、気づいた時にはもはや誰も止められなくなっている。当時もそのような状況が作り出されていたのではないか。

メディアも民衆も受け狙いに走り、そこでウケたものが「正しさ」に成り代わっていく。そういったウケ狙いが生み出す危険性という問題に切り込まず、一般民衆とは異なった特殊な性質を持つマスコミの人間が民衆を騙したから戦争へと突き進むことになった、というような筋書きの番組を作るなら、それは自己批判をダシにした世間へのご機嫌伺いであり、それこそが正に戦前に行われたマスコミ報道と同じ性質を持つ、幇間芸的な報道ということになるだろう。

――まあ、実際にこの番組を見てみたところ、必ずしもメディア側が一方的に戦争へ導いた、というような作りにはなっていなかったようには見えたが。しかし、見方によってはそうとも取れる、中々微妙な作りになっていた。とはいえ、今の民放にはその微妙な作りのものですら作ることは不可能であり、その意味ではやはり、この番組は十分評価するに値するものであったことは間違いないだろう。

 ▼(2)民衆からのボトムアップとしての戦意高揚報道

しかしこの番組を見て思ったのは、このマスコミと民衆との関係性は、今も全く変わっていないのではないか、ということだ。違いがあるとすれば、現代では敵の候補が主に自国内の対象から選ばれているということと、もうひとつ、――以前に強大過ぎる対象を敵に選んで痛い目に遭ったことの反省からか――戦っても絶対に自身の身を危うくすることがないであろう弱小対象を敵として選定している、ということくらいではないか。

そしてアメリカや諸外国の代わりに選ばれた現代日本における敵は、「ゆとり」であり「キレる若者」であり「軟弱な若者」であり、オタクであり公務員でありゴミ屋敷の住人でありニートでありモンスターナントカであり、或いは以下のような存在だ。

一日食費416円で生活していたら、贅沢と言われてフルボッコ - 情報の海

ここでは、国益を害する敵をもっと苦しめて打ち倒すべし、という声が民衆の側から自発的に上がってきている。ネット時代には民衆の声がよりはっきりと可視化されるようになったわけだが、こういう民衆の声があるからこそ、メディアはそのウケを狙って人集めをすることができる。そして民衆が抱え持つその願望とメディア側の先読みが上手く合致するが故に、結果としてそれは誘導になる。実際、その手の戦意高揚報道は人目を引くのが最も容易で、しかも効果も高い。よって昨今のニュースや報道バラエティーの内容もまた、そういった類のものが主になっている。

少年非行、減少の実感なし 内閣府の世論調査 - 47NEWS

 少年の刑法犯が減り続け、周囲で子どもの非行をあまり見聞きしていないのに、少年非行が「増えている」と感じている人が75・6%に上ることが29日、内閣府の世論調査から分かった。非行の背景として、携帯電話やネットの普及で見知らぬ人が出会える環境があると回答した人は63・4%もいた。

そしてその民衆の願望とメディアの「ウケ狙い」というコラボレーションによってこういった常識が誕生し、その常識が法を動かしていく。例え犯罪は減っても厳罰化は進んでいく。

あいつらが我々の生活を、生命を脅かしている。あいつらを倒せば社会は良くなるはずだ。――そういった敵の存在が希望なき時代に希望をもたらしてくれる。或いは、その敵との戦いが生活の苦しみを一時だけ忘れさせてくれる。退屈を紛らわせてくれる。意味のない人生に動機を与えてくれる。故に、国内の状況が逼迫すればするほど、こういった戦意高揚報道の需要が増していくことになる。そしてその需要に応えることでマスコミ(或いはアフィブログでもいいが)は潤う。こういった構造は戦前から何も変わっていない。

 ▼(3)敵の集合体としての日本人

国民が下手に戦争を望まないように、不可避の兵役の義務を課したほうがいいと最近強く思うようになった。やっぱり身内が軍に居たら、簡単に戦争しろとは言えないし、ヒステリックに流されることも少ないよね。
ko_zan

まあ、戦争が「他人事」の間は「熱狂」なんて、メディアが変わろうと誰も止められないんじゃないかな?仕組みで人質をとらなきゃ、人は理解なんかしないからね。何度だって同じ間違いを繰り返すでしょ。
ko_zan

いや、身内に軍人がいたからこそそれは「正しいこと」でなければならなかったし、身内に関することだからこそもっと戦争に関する報道をして欲しいという要望があり、その要望に応えることで新聞が売れたという話だったのだが…。というか、身内を人質に取ってもオッケーなんて言葉が、本当に身内を大切する人間の口から出てくるだろうか。そもそも、この論理が法に成り代わるためには「熱狂」が不可欠だ。「国益のため」に人質を差し出さないとは何事だ、というような。つまりこれは「熱狂」を求めているにも等しい。止められないから求めるというのは妙な話だ。そしてその「求められた熱狂」があったからこそ、赤紙が生まれたのではないか。

それに、自分の身を守るためには「世間の皆様にご迷惑をお掛けてすみませんでした。みんなこいつが悪いんです」と言って真っ先に身内を差し出し、これでもかと言わんばかりにそれを踏み絵として踏みつけてみせるというのが日本における一般的作法のはずだ。外国では国中から非難される凶悪犯ですら、身内が命懸けで擁護し続けたりすることもあるが、日本ではまずそういうことは考えられない。要するに、日本は世間原理主義的な性質を非常に強く持っていて、だからこそ世間へのご機嫌伺いとしての「ウケ狙い」が尚更大きな意味を持つことになるし、その世間が恐ろしいが故に、身内をも簡単に差し出してしまう。

だが、世間は何の理念も原理も持ち合わせていないし、冬山の天候のように突然ガラリと態度を変えたりするものだ。そもそも世間とは実態ではなく、其々が思い浮かべるそれでしかない。そのような不確かなものに「正しさ」や行動原理を依存している集団は、お互いに疑心暗鬼にならざるを得ず、結果としてそれは敵の集合体となる。

 ▼(4)内戦回避のための戦争(ホカホカ)

実はあの戦争は、国内問題の逼迫に際し、その敵の集合体が真っ向から衝突し合い、本格的な内戦へと発展することを回避するための戦争だった、という面もあるのではないか(旧日本軍が敵だけではなく味方の命に対する扱いも極めて軽かったというのは、その性質が表れているのではないか)。少なくとも今現在のトレンドである中国脅威論、或いは「異常者(或いは犯罪者)」脅威論というのは、「正常者」のガス抜きとしての性質を持っているように思う。

そもそも、実際に多くの日本人の命や生活を最も脅かしているのは、中国でも「異常者」でもなく、他ならぬ「普通の日本人」だ。そしてそこでは、お互いがお互い虎視眈々と他の日本人を「異常者」へと蹴落とし、罰を与えるチャンスを見計らっている。そこで下手打とうものなら、すぐさまその者は異化され、世間への生贄として捧げられる。そしてそれを肴とする祭りが執り行われる。

バッシングの最大の魅力は、――そこでターゲットにされているもの以外は――それが執り行われている間、束の間の安寧を獲得することができるというところにある。何故なら、それが行われている間は、その集団において自身が主要な敵として祭り上げられる危険性がなくなるからだ。もちろんその安寧は、祭りが終わると同時に危機として再び「みんな」に跳ね返ってくるわけだが、そのストレスを解消するために、或いはその恐怖から逃れるために、益々人々はそれを求めるようになる。

実生活における「正しさ」は理屈ではなく、世間的趨勢が作り出す法と社会的抑圧が支えている。その趨勢によって支えられている何かと真っ向からぶつかり合うということは、世間を敵に回すことを意味する。だが、実生活における最も現実的で身近な脅威は、大抵そういう対象だ。そしてその世間的趨勢こそが日本における体制に他ならない。しかしその体制は実態をもたない世間であるが故に、絶対に倒せない。だから体制と戦っても無駄だし、それを妥当した後の社会を夢見ることもできない。逆に言えば、体制と戦うということは、不特定多数の「普通の日本人」と戦うということだ。即ちそれは泥沼の内戦を意味する。

よってその内戦を避けるため、戦っても安全な対象を敵に選定し、それに怒りをぶつけることでガス抜きをする。そしてその敵との戦いによって結びつきを得た(異化された外部に相対する)コアとしての集団を形成する者達は、苛立ちのベクトルを外部へと向けることで、深刻な衝突を避けることができる。

つまり、過去の戦争も現在国内で行われている敵との戦いも、「普通の日本人(正常者)」同士が衝突し、泥沼の内戦となることを避けるためのホカホカ的行為として行われているという面が少なからずともあるのではないか。そしてそのホカホカ行為は、独裁ではなく、多数決という民主主義的な理路によって肯定される。

 ▼(5)敵に怯えるが故に敵を求め、敵を求めるが故に敵に怯える

「就職活動に悩んでいた」逮捕の学生供述 バス横転事件 - 朝日新聞


バスジャックで男逮捕「刑務所行きたくて」 - 日テレNEWS24

 2日昼前、浜松市でバスジャック事件があった。バスジャックした男は約30分後に逮捕され、バスの乗客・乗員にケガはなかった。警察の取り調べに対し、男は「刑務所へ行きたかった」などと話している。

先日、コアの内部に入ることが困難であると悟り、自暴自棄になった人間がバス内で問題を起こすという事件が二件ほど立て続けに起こった。この事件を其々の報道機関がどのように報道したかは知らないが、自分がたまたま見たテレビ・ニュースでは、あるアナウンサーがこの事件を受け、バスにもハイジャック防止法を設けるべきだという主張を展開していた。それにもう一人のアナウンサーが問いかける。

「厳罰化ということですか?」「もちろんそうです」

これもまた「敵との戦い」のことを報道してくれ、「異常者」に罰を与え、退治してくれという民衆の願望をメディア側が読み取ったが故のものだろう※1。しかしこの「異常者」達も、ほんの数年前までは「正常者」であったはずだ。だがその「正常者」も、コアに入るための関所を上手く通過することが出来なければ「異常者」にならざるを得ない。

そしてこれまで世間に、或いは自らが「正常者」であることに「正しさ」を依存し、「異常者」という敵と戦ってきた人間がそのような肩書きを獲得してしまうと、その者はもはや自分自身を救うことができなくなる。そうでなくとも、一度関所で差し止められた人間は、次は「異常者」としてコアの内部に入り込むという更なる難題を突きつけられ、例えそれをクリアしても、今度は「異常者」としてコアの内部で生活していかなければならないという問題が突きつけられる。

日本人は、コアを守るため――即ち国益のため――に「仕方がない」という理路で、簡単に身内であるところの他の日本人を斬り捨てる。やむを得ずというより、むしろ積極的にその身内を世間に差し出す傾向がある。例えそれが自分自身であっても。いや、「異常者」である以上、もはや身内ではないということなのかもしれない。そしてそこでコアの外部へと追いやられた「異常者」は敵となり、その敵との戦いが人々に動機と希望をもたらす。だがそうであるが故に、「正常者」は自らもまた「異常者」としてコアの外部へと追いやられるのではないか、という危機感を常に抱き続けなければならない。そしてその恐怖を誤魔化すために異化された敵と戦う。そのために敵を求める。努力していれば異化されることは無いはずだ、と自身に言い聞かせながら。それが努力信仰を生み、異化されたものへのバッシングの正当性を補強するという負のサイクル。

コミュニタリアンを自認するマイケル・サンデルが、封建的な面があったにせよ、日本には過去にコミュニタリズム的なものが存在していたとも言える、みたいなことをいっていたが、それは完全に勘違いだろう。日本に存在していた(いる)のは、世間という亡霊との主従関係の上に成り立つゴニングミイズムみたいなもの。というか、コミュニタリズムの行き着く先は結局そういうものなのかもしれないが(共同体内部で世間が形成される)。まあ常にコア側にいられる人間からしたら、それは凄く良い社会なんだろうけどさ。



※1 そもそも、罰を与えるということしか問題解決の方法を思いつかないのかもしれない。それは多くの者は実際にそのような環境で育ってきたからということもあるだろうし、他人に罰を与えないと不平等感を感じてしまうという平等主義的欲求故のものでもあるだろう。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/475-ea42be35
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | HOME | 

プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。