ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「労働」という名のマクガフィン~労働問題は作業問題ではない

人間社会を『アリとキリギリス』的な世界観で理解しようとする風潮は昔から根強くある。しかし、人間社会には『アリとキリギリス』のような作業さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアは存在しない(社会的競合も資源の枯渇も存在しないという前提条件の下で、其々が落ちているものを自由に持ち帰って蓄えるのが『アリとキリギリス』における労働)。人間社会における生存活動について知ろうとするならば、作業について考察するだけでは不十分だ。何故ならそれの本質は作業ではなく、社会的競合という条件の下、「労働」というマクガフィンを巡って行われるポジション争いだからだ。
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人間は「労働」というマクガフィンを巡る物語に依存した形でしか大きなまとまりを得ることができない。人間とはそういう生き物。

そして「労働」は、具体的な条件を伴った明確なものとしてそれを定義づけることができない。何故なら、それがなされてしまった時、もはやそれはマクガフィンではなくなってしまうからだ。その魔法が解けてしまった時、その「労働」は人々を結びつける力も神聖さも尊さも誇り高さも全て失ってしまい、ただの作業へと成り代わる。そして「労働」は「労働」としての価値を、人々はまとまりを、一般的共有物としての世界観を失う。

故に「労働」は決して明確で統一的な定義を持ち得ない。ただその都度、マクガフィンとしての力を獲得した活動がそれとして認識され得るのみだ。そしてそれが「労働」という称号を、つまりマクガフィンとしての力を獲得しているうちは、その内容について問われることはない。「労働」とは元々内容を表しているわけではないからだ。幾ら阿漕な商売をしていても、幾ら道義に反する方法でその称号を手に入れ、守り続けていても、それがその称号を保持しているうちは、他のそれらと同じ神聖で尊く誇り高い“何か”でしかない。そしてその“何か”を保有しているが故に、その者は世間に対して胸を張ることができる。

逆に幾ら努力や作業をしてみたところで、その称号を、マクガフィンとしての力を獲得することができていなければ、その活動はただの個人的趣味や利己的行為、或いは無駄な行為としてしか認識されない。例えば二人の人間が全く同じ作業をしてみたところで、公認労働環境を獲得することができた人間とそうでない人間では、一方は労働をしたことになるが、もう一方は労働をしたことにはならない。

 ▼(1)何がそれを「労働」へと変化させるのか

単に作業しただけでは「労働」にはならない。それが「労働」に成り代わるためには、他にも何らかの条件をクリアしなければならない。では、そもそも世間一般では何をもってしてその作業が「労働」であると判定されているのか。一体どのような条件を満たせばそれをしているとみなされるのか。

金を儲けるための動きを取れば「労働」をしたことになるのか?しかしその考え方は、「しようとした」という個人の感覚を根拠にしようとする論理であり、全くお話にならない。では実際に金銭獲得に繋がる活動をすればそれが「労働」になるのか?いや、必ずしもそうとは言えないだろう。例えばホームレスは非常に過酷な条件の下、日々働き続ける労働者であるはずだ。もし「労働」にともなう苦労、即ち「内容」がそれを神聖で誇り高いものにしている正体であるとすれば、一般よりもより大きな苦労が伴うであろう金銭獲得活動を行っている彼らは、より神聖でより誇り高い存在ということになるはずだ。

だが実際にはそうはならない。それどころか、「ちゃんと仕事してくださいよ~(by加藤浩次)」などというように、働いていないことにされ、むしろ人々から蔑まれてしまうことの方が多い。暖房や冷房が効いた快適なスタジオでくっちゃべっていることが立派な「労働」とみなされる一方、正に『アリとキリギリス』のアリに最も近い活動をしている彼らは、『アリとキリギリス』的教訓が生み出す怠け者(キリギリス)として扱われてしまうわけだ。

なぜそうなるのか。稼ぐ金、動かす金が小さすぎ、経済的貢献をしていないとみなされるからだろうか?しかしそれで怠け者とみなされるというのは理屈が合わない。また、より大きな金銭を動かすための活動が「労働」なのだとするなら、ただのギャンブルもまた「労働」とみなされてしかるべきということになるはずだろう。だが、実際にはそのように認識されることは余りない。

さらに、より大きな金銭を獲得するための活動が「労働」なのだとしたら、会社員はいつ「労働」をしたことになるのか。というのも、その考えからいくと、少なくとも会社員は作業を行っているその時点ではまだ「労働」をしたということにはならない。何故なら、獲得する金銭の多寡以前に、会社員が実際に金銭を手にするのは作業よりもずっと後のことであり、もしかしたら賃金不払いでそれをもらえない可能性もあるからだ。つまりその考え方では、サービス残業や賃金未払いによる作業は「労働」には含まれないことになる。と同時に、より大きな金銭を得たり動かしたりすることほど尊い「労働」ということになる。

だが実際にはそのようには認識されていない。よってこれもまた「労働」であるか否かを分け隔てる分水嶺になっているとは言えない。それに、もし金銭獲得行為、金を動かす行為が「労働」なのだとしたら、強盗や詐欺は――法律違反ではあっても――内容としては「労働」の条件を満たしていることになるはずだ。だがそれらは内容的にも決して「労働」であるとは認められない。

では、利益を生み出す行為が「労働」なのか?しかし、だとしたら赤字の会社はさっさと廃業した方がよいということになる。赤字の国家はさっさと解体した方がよいということになる。それらは絶えず負の利益を生み出し続けているわけだから。

だが実際にはそうはならない。日本の多くの企業、そして世界の多くの国々は赤字だが、だからといってその負の利益を生み出す行為を簡単に止めようとはしない。それは、利益を生むことよりも自分達の状態や社会的ポジションをより好ましいものとして維持し続けることの方が重要だからだろう。もちろん大きな利益を生んだ方が良いに決まっている。だがそれはあくまで己の状態をより良く保つために望ましいからであって、そのためにはむしろ負の利益を生み出し続けることもやむなし、とするのが実情だ(ex.原発はたかだか数年間の発電のために、その後十万年間管理し続けなければならない廃棄物を出す。しかしそれを分かっていても止められない)。

 ***

つまり、一般に用いられる「労働」とは決して内容のことを指しているわけではない。作業のことを指しているわけでもない。「労働」とはあくまで称号であり、マクガフィンとしての力を伴っているかいないかが、その称号が付与されるか否かを分け隔てている。

マクガフィンとしての力は、「社会の役に立っている」と多くの人々に認識される状態を持っていること、と言い換えてもいいかもしれない。もちろん、そこで重要なのは内容ではない。内容がどうであろうと、そのように認識されていればそれは力を獲得することになるし、そうでなければそれは力を獲得し得ない。

そもそも、「(こうあるべきという)社会」や「役に立っている」自体が認識上の存在でしかない。ある人物が思い描く理想にとって必要なものだけがこの世に存在する、という状態はまずあり得ない。世界は常に人間が生み出す規範やシステムの外にも広がっている。そのことから考えると、理想の外側にあるそれらも含め、あらゆる全てのものはこの世界の存続に必要であり、役に立っていると言える。しかし同時に、理想の形は人の数だけ存在し、その多くは競合しているため、「役に立っている」ものは必ず誰かの迷惑にもなっている。つまり「社会の役に立っている」とは、そういった個々人の捉え方の問題でしかない。

しかしなんにせよ、それが生み出す力が、称号の獲得が、其々が社会的に良好なポジションを獲得し、それを維持するための大きな鍵となっているのは確かだ。

 ▼(2)「労働」と「努力」が織り成す煌びやかな物語への見果てぬ夢

「労働」は内容を指しているわけではないし、作業とイコールで結びつけることもできない。ところが実際には、労働問題は恰もそれが作業問題であるかのようにして取り扱われることが多い(ex.労働者はみんなのために役立つ作業をしているから、苦労をしているから偉い)。

なぜそうなるのか。恐らくそれは、「労働としての作業」が「努力」として読み替えられるが故のものだろう。

「努力」は魂の気高さの象徴。その多寡によって尊ばれるべき者と蔑まれるべき者、つまり其々の魂の貴賎が判断されることが多い。そうやって「作業」を「努力」と読み替え、それを通して魂の貴賎と「労働」を絡めることで、マクガフィンを巡る物語はより煌びやかで求心力のあるものへと昇華する。例えば『アリとキリギリス』はその煌びやかな物語の代表的存在だろう。

 ***

しかしそういった物語を創造しようとする試みは、何も創作物という舞台の上だけで行われてきたわけではない。現実世界という舞台においても、そういった物語を作り出そうとする動きは常にある。その一番分かり易い例が共産主義だろう。

――本来、個々人の努力具合は決して測ることはできない。全く異なった条件を持つ個々人が、其々自分が元々持っている力の一体どれほどまでを引き出してきたのか、ということは誰も知り得ない。よって其々の努力具合を比較対照することもできない。しかしながら、努力が測れないと煌びやかな物語を成立させることができない。

それを可能とするため、其々の努力具合を作業によって平等に計測するシステムを考案し、それによってはじき出された努力具合に応じて報酬を受け取る、という社会を作ろうとしたのが共産主義だ。つまり、「みんなのための作業」としての「労働」さえしていれば誰もが幸せになれるユートピアを作ろうとしたわけだ。

しかしながらその試み上手くは行かなかった。何故なら、元々この世界は作業量や苦労の多寡によって国家や人々の貧富が決まるようにはできていないからだ。そもそも、其々の理想や目的を一つに統一することがすでにできない。それは常に競合し続けるようにできている。そういった条件に抗い、人間社会を『アリとキリギリス』的ユートピアへと変貌させようとする社会実験は失敗に終わったのだ。

しかし未だにそういった、作業さえしていれば、努力さえすれば誰もが幸せになれるユートピア、「労働」と「努力」のハーモニーによって醸し出される煌びやかな物語への夢を、多くの人々は捨て去ることができない。

何とかしてそれを現実世界という舞台の上に作り上げたいという思い。或いは既にそれが現実世界において成立していると信じたい、という思い。そういった人々の思いの強さが、労働問題が恰も作業問題であるかのような錯覚を生み出し、支えている。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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