ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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自虐と他虐、「自虐史観」と自己責任、戦争と内戦

橋下維新「自虐史観でない教科書を」 大阪市会で決議提案へ - MSN産経

今現在、多くの日本人がこの国の政府や世間的風潮を批判し、また、自国民同士で批判し合っていることだろう。それを自虐と言う人間はどこにもいない。だが何故か、戦前・戦中の政府や軍隊、世間的風潮への批判だけを特別視し、それにのみ自虐というレッテルを貼り付ける人間がいる。
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ここで言う自虐の「自」とは、恐らく「日本」のことをさしているのだろう。しかし、「日本」というのは日本政府や社会的趨勢、橋下維新だけを指しているわけではない。この集合体を形成している、それら以外の者もまた「日本」だ。よって、其々が己の持っている世界観は他人のそれよりも劣っていて、それ故自らのそれを否定しなければならない、というような自虐的発想に溺れていない限り、自ずとそれらの「自」同士はお互い衝突し合うことになる。これはその衝突の一つであり、それ故「自虐」はその対抗相手への批判の根拠にはならない。

ここで何故「自虐史観」などという言葉が出てくるのかと言えば、それはその者が大日本帝国時代の世間的風潮や軍隊と自らを同一化しているからだろう。そしてそれに唯一絶対の「日本」であるかのような前提を与えるが故に、このような表現が出てくる。だが、当時の風潮や軍隊と自らを同一化していない人間からすれば、その「自虐史観」とやらは、今多くの人間が行っている、自国内における何らかの思想や風潮への批判と同じことでしかない。

むしろ全てを「日本」と一まとめにしてしまうなら、多くの自国民に不幸をもたらした戦前・戦中の思想や風潮、動きこそ(結果論ではあるが)自虐的だったと言えるのではないか。実際、ここで批判的に扱われている「自虐史観」には、単に外国への侵略行為だけでなく、そのような自国民に対する虐への批判や反省もまた同時に込められていることは疑う余地がないだろう。例えば、勝ち目の無い戦いを強いるということは、無理に自殺を強いるのと同じことだ。当時の多くの人間は戦争を行うことをはやし立てたかもしれないが、全ての人間がそうだったわけではないし、そのせいで嫌々何かを強いられ、苦しめられた人間も大勢いたはずだ。他ならぬ日本人から。無計画な作戦を元に戦地に送られ、戦う前に餓死した人間だって大勢いる。つまりそれは単に外国との戦争というだけでなく、自国民同士の殺し合いでもあったわけだ。そのような自虐行為への批判や反省を「自虐史観」であるとして斬り捨てるということは、「日本」であっても自らの認める「自」以外の者には、或いはその「自」による大儀のためなら虐をもやむを得ず、と言っているのと同じことなのではないか。

そもそも、他虐を真に受けてしまうと自虐になるわけで、気に食わないことがあると直ぐに他虐に走ったり、それを頼りにして人気を獲得してきたような人間が自虐を問題にするとしたら、それは全く筋が通らない。自虐を問題視する人達は果たして他虐が持つそのような問題に対して気を配ってきただろうか。

 ***

「自虐史観」批判には、他にもまだ大きな問題がある。それは現在の潮流であり、多くの「自虐史観」批判者もまた賛同しているであろう自己責任理論との相性の悪さだ。

「弱い人間は好きで弱くなったのだからもっと強く踏みつけてやればいいのよ」というのは、「自虐史観」批判の急先鋒である金美齢の言葉だ。要するにこれは、人が窮地に陥るのは努力不足と精神的未熟さが原因であり、それ故、そのような人間が苦しむ/苦しめられるのは自業自得である、という考え方だ。こういった考え方は、今現在――どこからどこまでが努力不足や未熟さのせいなのか、という線引きは其々で異なっているだろうが――多くの日本人に支持されている。そして金美齢や橋下知事など、「自虐史観」批判者の多くはとりわけこういったことを強く主張してきたはずだ。

しかしこの考え方からいくと、当時の日本が窮地に陥ったのは努力不足や未熟さ故であり、それを反省しなければならないということになる。それどころか、それは「もっと強く踏みつけて」やるべき対象ですらある。そしてその対象は、その踏み付けを甘んじて受けねばならず、それに対して不満を漏らすのは「甘え」ということになるはずだ。つまり、自己責任論はこういったマゾヒズム的趣向を強要するものであり、「自虐史観」批判とは本来相容れないもののはずなのだ。

「自虐史観」を問題とする者達がよく行う、日本は石油を止められ、追い詰められて仕方なく戦争に…という主張も、自己責任論からすれば自業自得の一言で済ませてしまうことができる。実際、それは中国や仏印への侵攻がその引き金になっていて、落ち度がありまくるわけだし。政治下手だったが故に…という主張も、コミュニケーション能力――実質的には折衝能力――は努力で補える。よってその能力の無さ故に痛い目にあってもそれは自業自得であり、不平不満を漏らすのは甘え、というような一般的主張からすれば、断罪されるものでしかない。他の列強がやってたから(みんなやってるから)、という理由に関しては、いちいち言うまでもないだろう。

また――自国民の命を大切にしない人達がこんなことを言うのはおかしな話だが――仮にそれらを生き残るために、人々の生活を守るためにはやむを得ない侵攻だったとしても、それをよしとするなら、資源不足や財政難に悩まされる多くの国々(「自」)は、それを理由として侵攻を行ってよいということになってしまう。果たしてそのような理屈を仕方がないこととして受け入れることができるだろうか。

さらに言えば、生活のために仕方なく…を擁護すべき理由とするなら、生活のために強盗や窃盗をしている人間もまた擁護すべきだろう。実際、どのようなシステムを作ってもそこに上手く収まらない者が出てくるわけで、そういった世渡り下手な人間は、正規のシステムの外で非合法の生存活動を行うか、飢え死にするか自殺するかしか選択肢がない。こういった問題は古今東西、どの国も抱えている問題であり、その前提こそが社会問題における出発点だ。つまりそこには、ただ断罪すればよい、というだけでは済まない難解な問題が存在している。しかしながら、それを擁護するでもなく、幾ら同情の余地はあっても法は法、でもなく、ただ「努力不足」や「未熟さ」という言葉で斬り捨ててきたのが「自虐史観」批判者の一般的態度だったのではないか。そうである以上、生活のために仕方なく…を理由としてそれを擁護することもできないはずだ。

 ***

社会に身を置いていない人間が己を卑下するなどあり得ない。自虐と言うのは常に社会の中における他者との関わり合いの中で生まれてくるものだ。取り分け、他虐を受けることはその者に自虐の芽を芽生え易くする。他虐が自虐を生み、自虐が(「苦痛の平等」により)他虐を生む。よって自虐が問題であるとするなら、まずその大きな元となっている他虐をこそ問題にすべきだろう。

しかし「自虐史観」批判者の多く――少なくとも金美齢(ウィキペディアによると日本国籍)や橋下知事――は他の日本人に対し、むしろ積極的に他虐を行ってきたのではないか。本来「自虐史観」批判とは相容れないはずの自己責任理論を用いたりしながら。もちろん、こういった矛盾はその者達が他虐を行った人間は彼らの思う「日本」ではなかった、とすれば全て氷解してしまうわけだが。――まあ要するにそういうことなのだろう。自己責任を自分ではない他人に向けているうちは、それは自虐にはならないのだし。

しかしだとしたらそれは、(自らの想起する)お国のために尽くさない者は非国民、という考え方となんら変わらないだろう。というか、先の戦争が自国民同士の殺し合いという側面を持っていたように、今の状況もまた、文化・社会システムを介した内戦の最中なのかもしれないが(足の引っ張り合いとしての競争しかできない体質。まあどこの国も似たような問題は抱えているだろうが)。だから自虐や他虐が絶えない。

そんな、何の理念も原理も共有しない烏合の衆であるところの日本人同士による内戦がより本格化するのを避けるため、結果的に生み出されたのが先の戦争であり、終身雇用制度であったりしたのだろう。しかし前者はより大規模な自国民同士の殺し合いを生み、後者は世代間抗争を生み出した。まあそういう国なので、他虐によって他人の自虐を引き出し、それによって足を引っ張る※1というのは個体間の生存競争においては合理的と言えば合理的な判断なのかもしれない。但し、その集合体たる国家として見て、或いはより長いスパンで見てどうなのかは分からないが。



※1 本当に自虐的な人間は、欠陥品としての自分を上手く社会に売り込むことができないので、まともな社会的ポジションを獲得するのが難しい。その分ポジションが空くことになる。足の引っ張り合いであるゼロサムゲームにおいては。

コメント

おそらく自虐史観という表現の仕方で誤解が生じているんだと思います。
正確には、偏ったイデオロギーによる歴史観を正したいという事でしょう。

>偏ったイデオロギーによる歴史観を正したいという事でしょう。

もちろんそうでしょう。それは了解しています。

歴史観にせよ国家観にせよ、どのような観点(立場)から、どのような観測機(感覚)で観測するかによって見えるものが変わってきます。そして同じ観測位置と観測機を持つ人間は誰一人として存在しません。これは、全く同じ歴史観や国家観を持つ者はいない、ということを意味します(共有すべき真理があると言うなら、それは宗教の領域の話になります)。

その際、各々は自らの見たそれと大きくかけ離れているものが見えるという人を偏っていると感じることでしょうし、出来ればその「偏り」を正したいと思うことでしょう。それ自体は自然なことと言えます(こういうことを言うとポストモダン的だという批判を受けそうだが、例えば、歴史学からかけ離れた歴史観を持つ者が払底されることがあり得ないのは事実――あったらあったでそれは怖い――。さらに言えば、そもそも殆どの人間は歴史学的に見てそれがどれ程の妥当性を持つかの判断ができるほどの知識を持っていないし、また皆がそれを獲得し得るような世界が存在しないのも事実だろう。もちろん、そのような条件をを悪用し、何の論拠も示さず、或いは過去に否定された説を何度も持ち出して定説を覆そうとする輩がウザい、というのはあるだろうけど、それはまた別の――“観”というより、学問や政治上の――話)。

ここで述べているのは、「偏りを正したい」という目的のためによく手段として用いられる「自虐史観という表現」は、それを単なる印象批判のためのレッテル貼りとして捉えるのではなく、内容批判として捉え直しても全く的を射ていないということです。もっと言えば、むしろその論理は、それを用い勝ちな論者の主張の妥当性や整合性を逆に否定することにすらなりかねない、ということです。即ち、「自虐史観という表現」がこの手の論争上で内容批判として有効であるという「誤解」を解くのがこの記事の趣旨なわけで、そこを明確にすることができたのなら、(少なくともこの記事上において)もう他に言うことはないわけです。

 ***

それと話は変わりますが、最低限のルールとして、ハンドル・ネームは投稿者の同一性が識別可能なものでお願いします。

出雲物語

自虐史観・・・

諸行無常。奢れるものも久しからず。
そう、島根のように。


島根です
広島空港まで行けば飛行機もいっぱい飛んでます

島根です
無人駅の改札を自動改札と言います

島根です
車がないので道路は安全です

島根です
砂丘はなかとです

島根です・・・
島根です・・・
島根です・・・


島根ネタは昔よくやったな。当時はヒロシネタはなかったけど。「島根県民とは出雲大社があることを唯一の誇りにして生きている連中です。そんな彼らにとって最大の屈辱はお隣鳥取県と間違えられる事です」とやれば、島根県民と鳥取県民の間で勝手に盛り上がる。でも近年作られたとかいう「島根は日本の領土です」が一番おもしろい。

追伸・・・というか本題

くだらない事ばかり書いて、本題を忘れていたよ。

ポストモダニズムを持ち出す事は結局のところ良い結果を生みません。私は別の観点を提示します。

まずは、ポストモダニズムの科学批判を今回の記事にあてはめて見ましょう。

「そもそも殆どの人間は「科学的」に見てそれがどれ程の妥当性を持つかの判断ができるほどの知識を持っていないし、また皆がそれを獲得し得るような世界が存在しないのも事実だろう。」

科学の世界ではデータの公表が義務付けられ、第三者が検証できるようにされています。しかし、地球温暖化を検証してみましょうか。私には気象学の知識も気候モデルの知識も物理演算モデルの知識もスーパーコンピュータを動かす資金もついでに政治力も欠如しているので、事実上これを検証(直接にはという限定つきですが)できません。大多数の人間にとって、その点は科学も歴史も変わらないというのが実情でしょう。私にとってこれはコストの問題なのです。

コストの問題(別の観点)と捉えなおすのなら、どうでしょう。直接的ではなく間接的な方法をとる方法(つまり分業)などでコストを下げる事は可能です。ならばこの記事の話題には、実情がどうとか現状がどうとかではなく、もっと良い解決方法があるわけですし、(相当な労力を無駄な相手に使う事になったとしても)その方が良いのです。まあ一言で言うと、正面から論破すべし。

> そのような条件をを悪用し、何の論拠も示さず、或いは過去に否定された説を何度も持ち出して定説を覆そうとする

こちらのほうがさらに恐ろしい問題ですね。少なくともコストの問題としてみると、悪用に論駁するコストは相手に対して遥かに大きいのですから、このような悪用は「ある意味効果的」です。しかも、垂れ流しにもってこいという。

>島根です・・・

しかし島根はこの格差社会においては圧倒的な勝ち組なのではないかと。一票の格差的な意味で。

 ***

>ポストモダニズムの科学批判

科学そのものを批判したつもりはないのですが。しかし、「科学」という看板や「反科学」というレッテルを政治的に利用することに関して私は批判的です。

例えば、ある代替医療に全く効果がなかったことを明らかにし、「第三者が検証できるよう」にするまでは科学と言えるでしょう。それ自体を批判するならば、それは科学批判と言えるでしょう(そして私はそれを批判しません)。しかし、「こういうデータが出た。“だから”こうしなければならない」となると、それはもはや科学ではなく政治や宗教の分野の話になります。その「こうしなければならない」において――即ち政治的、宗教的主張において「科学」という看板を利用するなら、それは疑似科学が行っていることと全く同じことを行ってしまっていることになります。

そもそも、目の前で実際に起こっている現象に対し、何故このようなことが起こるのか、を考えることこそが科学的な視点でしょう。(一般的価値観からして)合理性に欠ける方向へ動く人間がいるという(――要するに気に食わない)現象を目の当たりにした時、こんなはずはない、これはおかしい、だからその現象を是正しなければならない、というベクトルへと向かうことは、むしろ科学とは逆向きの姿勢であるはずです。それをするなら、一人の政治家・宗教家として堂々と行えばよいのであり、そこで「科学」の看板を掲げるべきではありません。

自分がウンザリしているのは、このような指摘を「疑似科学批判批判」と一まとめにし、或いは合理性に欠ける方向へ動く人間に「反科学的」というレッテルを貼り、嘲笑し、受け流してきた“「科学」側”を名乗る者達、及びそのような姿勢を恰も科学的な態度であるかのように是認している世間の動向に関してであり、科学そのものに対してではありません。

>正面から論破すべし。

何のために論破するのでしょう?論破されて納得する人は殆どいないでしょう。多くは、力が無いが故に力のある者にねじ伏せられたと感じ、ただ反感を持つだけではないでしょうか?論破の価値は、ディベートという競技上における勝利以外に無いように思います。

その上で敢えて論破を目指すとしても、「偏り」という個人が持つ感覚的なものを論破することは不可能に思えます。もしそれを「第三者が検証できるよう」論破しようとするなら、それは具体的なデータを提示し、あなたの方が偏ってますよ(だからあなたは間違っている)、という結論に導くことでしょう。が、もし偏りを一般的傾向から外れること(即ち数の多寡の問題)と捉え、そしてそれ故に正さねばならないとすれば、それは私自身の存在を否定することになります。

何故なら、私はこの社会において「偏った存在」であり、経済効率性・合理性から判断すれば、劣悪な条件や環境の下で文句を言わず死ぬまで馬車馬のように働き続けるか、極力誰にも迷惑が掛からないよう消滅するしかない存在だからです。

そしてこの「経済効率性・合理性」という概念は(――これは本当は、誰の何にとって、という主語や目的語を入れ替えるだけで簡単に反転してしまうわけですが)現に、主に経済・倫理学方面で「悪用」され、非常に大きな力を持っているわけです。それ故私は、「どちらが偏っているか」というテーマには乗っからず、そもそも「偏り」って何よ?と問うのが最良だと判断したわけです。もちろん、「科学」や「経済学」が「悪用」されるように、「ポストモダニズム」もまた「悪用」される可能性を持っているわけで、それにはちゃんと釘を刺して配慮はしておいたつもりです。

二の舞

> 「ある代替医療に全く効果がなかった[...] こういうデータが出た。“だから”こうしなければならない」となると、それはもはや科学ではなく政治や宗教の分野の話になります。(なぜならデータは絶対ではなくどのような観点(立場)から、どのような観測機(感覚)で観測するかによって見えるものが変わってきます)

> 共有すべき真理があると言うなら、それは宗教の領域の話になります

それ、まさしくポストモダニズムの主張なんですよね。

まずはおさらいしてみましょう。

ある現象を説明する理論Tpがあり、これを検証した結果Tpが採用されたとしましょう。説明Tpに対しては「常に」対立仮説Tn( = Tpではない)が存在します。Tnで現象を説明するためには、検証に問題があったとか、偶然的条件に問題があったとか追加の説明が必要になります。結果として、より単純に説明できるTpが採用される(合理的選択)でしょう。

しかし、科学の世界でも手に入る証拠は間接的で曖昧な事も多く、背景となる仮定画存在する以上完全な独立性と中立性を保障できないし、合理的選択自体が検証可能でない上に、間違いである事もあり、しかも、「どちらも誤り」なんてのもよくある話ですし、検証自体が誤りかもしれません。前提となるデータも不確かさを含む上、どのような理論に立つかで、その意味が変わる事もあります(例:進化分岐学でもテスト方式で分岐が変わる事があります)。理論が間違うのと同様にデータも検証も間違うのです。つまり、科学において客観性というのは限定されたものでしかありません。

ポストモダニズムでは、科学理論の変遷や支持の拡散と寡占変化、判断材料や検証の変遷が問題になりました。数の多寡の問題が科学の世界でも起きており、どれ程の妥当性を持つかの判断は結局できていないし、その基準を獲得し得るような世界が存在しないと主張したのです。命題的真偽(完全に共有される真理)がない以上、「こういうデータが出た。だからこちらの説明を採用しなければならない」となると、それは政治や宗教と同じであると主張しました。従って宗教的説明であれ科学的説明の何であれ、「真理に対して」等価値を持つという事になります。

ポストモダニズムは実際的な理由が有りました。科学の影響力は、聖域であった人間の精神機構や文化宗教教育にも多大な影響力を持つ様になったのですから事態は切迫していたのです。合理的選択を否定する事で科学を攻撃し聖域を護ろうとしました。もはや聖域は「偏った存在」であり、そしてそれ故に正さねばならないとすれば、それは聖域自身の存在を否定することになります。そして、実際にそうなりました。いくつもの学問分野でそれまで主流だった研究方針が瞬く間に衰退し、新たな学派に置き換えられました。

科学側の回答は、客観性というのは限定された物で、真理や命題的真偽には直接言及できなくて構わないという物でした。観察データは絶対の真理でも、完全に役に立たないものでもありません。この両極端のいずれにも与せず、相対的比較という経験的整合性の要求です。

忘れがちですが、Tpを「採用した」という事は、対立理論Tnを排除する事が合理的である=より簡潔な説明を「採用するべき」という判断が行われているのです。その結果として、合理的選択は「科学の理論内部」でも常に起きていますし、これをなくす必要もありません。

代替医療を採用するかでも話に違いは有りません。医療の選択は政治的イデオロギーではなく合理的選択です。「命題的真理ではないのだから、合理的選択は科学ではなく政治や宗教の分野の話になる」という今回の説明には、もはや合理性が期待できません。少なくともポストモダニズムと同種の着尺性を抱える以上、同種の反論ができます。それでも尚、医療選択が政治や宗教だというのなら、それはあなた自身が「反科学的」というレッテルを貼っただけです。要するに気に食わない現象を目の当たりにした時、その現象を是正したいというベクトルへと向かっているのです。



> 自分がウンザリしているのは、このような指摘を「疑似科学批判批判」と一まとめにし、或いは合理性に欠ける方向へ動く人間に「反科学的」というレッテルを貼り、嘲笑し、受け流してきた“「科学」側”を名乗る者達、及びそのような姿勢を恰も科学的な態度であるかのように是認している世間の動向に関してであり、科学そのものに対してではありません。

相手の説明に問題があたなら、次にするべきことは、客観性を高めた反論を行う事であり、客観性そのものを否定する事ではありません。無論、それ相応のコストが要求されるでしょうが、その答えは合理的反論を導く事になるでしょう。まずは、それを「科学」側を名乗る者達」に向ける事です。

では科学の浸食を受けた学問分野は、その性質を大きく変えはしましたが、消え去りはしませんでした。結局消え去ったのはイデオロギーだったということです。重要な事は、我々、一人一人が客観性の洗礼を受ける覚悟が必要だという事です。



・・・

歴史学が大多数の妥当性判断に使えていない、および役に立たないのなら、役に立っていない当の歴史学者はその現状に対して何を行っているのでしょうか。やはりこの問題は、歴史学者の意見を聞いてみるべきでしょう。これらの論争に巻き込まれなかったとは考えづらいので、既に有益な話題を扱っているはずです。

「非合理的行動」という合理的選択

>結果として、より単純に説明できるTpが採用される(合理的選択)でしょう。

まず、私は科学的見地から見て「より単純に説明できるTp」として、現在そうである以外のものが採用され得る可能性があった、などと主張しているわけではありません(「科学的見地から見て」と限定したのは、例えば世間一般が諸問題において精神論を「より単純に説明できるTp」として採用していたりするように、其々の集団、文化圏にもまた個別のTpが存在しているためです)。また国家が発展するにつれて、実際の医療現場において西洋医学が選択されるようになるという現在の傾向に代わり、代替医療がメインとして扱われるような可能性があり得た、などと言っているわけでもありません。

>「こういうデータが出た。だからこちらの説明を採用しなければならない」となると、それは政治や宗教と同じであると主張しました。

私はこのようには言っていません。私が言ったのは「こういうデータが出た。“だから”こうしなければならない」です。

具体的な根拠を挙げてある説がTpであると主張すること、それにより、より単純に説明できる説を取捨選択していくというところまでが科学でしょう。しかし、社会的趨勢及び個々人が実際にそのTpとして採用された説に沿って収斂していくか否か、即ち「結果(=合理的選択)として」どうなるかはともかくとして、ある説が科学的にTpとして採用されたことをもってして、社会一般において人々はこのよう考え振舞わねばならない、社会はこうあるべきだ、とする主張や活動自体は、もはや科学と呼べるものではないのではないか、ということを言っているわけです。ですから「命題的真理ではないのだから、合理的選択は科学ではなく政治や宗教の分野の話になる」などと言っているわけではありません。

 ***

次に「合理的」という言葉について。「合理的」という言葉は、このやり取りの中で異なった二通りの意味合いで用いられています。私が前回言及したのは、特定の目的を達成するために手段として如何に理にかなっているか、という意味でのそれについてです。即ち合目的的なそれであって、今回の返信で用いられている「合理的」とは大きな隔たりがあります。合目的的な文脈で用いられる「合理的」は、その目的をどのように設定するかによって当然変化します。にもかかわらず、恰も人間が画一的な一つの目的を共有していて、皆はそれに準じたこの合理的選択に従うべきである、というような形で用いられる「合理的」について私は批判したわけです。

一方ここでは、結果としてそうなったのだからそれは理にかなっていたのだ、という意味で「合理的」という言葉が用いられています。

この表現を用いて前回私が述べたことを言い直すと、「非合理的行動」が常に存在し、それが完全に消滅することがないという状況、或いは、個々人の認識レベルに限定的な個別のTpが存在し、それが必要な手続きや検証を経て採用されたTpのTnとして何度も立ち現れるという状況もまた、合理的選択の結果ということになるのではないか、そしてその現象を反科学的なものとして分類するのは、合理的選択の否定になり、おかしいのではないか、ということになります。

>一人一人が客観性の洗礼を受ける覚悟が必要だという事です。

ただし、それを反科学的なものとして分類するのがおかしいと言っているだけであり、結果としての合理的選択自体を批判すべきではない、と私は思いません。というのも、結果としてこうなった(することができる)のだからそれは妥当なのだ、という論法はいささか問題を抱えているからです。

よくある「この程度のことで死ぬのなら、それは環境に順応することが出来なかったということであり、自然の法則からして淘汰されるのはやむを得ない」といった主張も、実際に「この程度のこと」が実行もしくは現状維持されるならば、それは合理的選択だっとと言うことができるでしょう。実際にこうなったのだからそれは妥当な判断だった、という考えで皆が動けば、それを問題視することもできない。

人間社会には様々な災厄が付き物であり、それを誰かが請け負わなければならない。こういった状況もまた合理的選択の結果ということになります。そして覚悟をしようがしまいが、それによる洗礼を誰もが其々の形で受けることになります。それに対してそれが合理的選択であり「必要だった」といえば、それはそう言えるかもしれない。そしてそれは科学からすれば善いことでも悪いことでもない。科学自体は社会的概念である善し悪しの判断をすることはできないからです(むろん、それが道具として何らかのベクトルの役に立つことはあるでしょうが)。しかし人々はそれに納得がいかなければ文句を言うはずですし、それをせずに納得しなければならない、ということにはならないはずです。ですが、それをするのは何であれ科学以外の分野ということになるでしょう、ということです。

>気に食わない現象を目の当たりにした時、その現象を是正したいというベクトルへと向かっているのです。

明確にしておきますが、私がこのブログで行っているのは「気に食わない現象を目の当たりにした時」、それに対して「気に食わない」と言い、何故それが気に食わないと思うかを説明する行為に他なりません(例えばこの記事では、歴史的にどうこうというより、むしろ「自虐史観」というロジックにその焦点が当てられています)。是正こそ目指していませんが。そんな力あるはずもないので。

しかし私に限らず、科学の守護者や歴史の守護者が存在するとは思えないので、それが科学的、歴史学的により妥当なベクトルに向かっているのものであれそうでないものであれ、結果としてそうなっているだけで、基本的に其々は「気に食わない」から何かを批判しているに過ぎないと私は考えています。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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