ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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「敵」の自害と慮りに甘え続ける日本×「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

松井知事「自己完結して死んで」 ミナミ通り魔事件で - 47NEWS

松井一郎大阪府知事は11日、大阪・ミナミで男女2人が刺殺された通り魔事件で逮捕された容疑者について「『死にたい』というのなら、自分で死ねよ。本当にむかむかくる。人を巻き込まず自己完結してほしい」と述べた。

自分の意志で生まれてきた人間なんていない。人間の一生は無理矢理社会に巻き込まれることで始まり、社会とのもみ合いのなかでその在り様が決定されていく。よって、生活することも死ぬことも、自己完結などあり得ない。よく言われる「自立」のパッケージの中身にしたって、それは社会システムへの巧みな依存でしかない。

リアルタイム検索でこの事件に関する注目キーワードが幾つか上がっていたので見てみたところ、松井知事発言のように、「甘えるな、死にたいなら自分で死ね」で溢れかえっていた。だが、この甘え発言は倒錯と言うほかない。ちょっと回りくどくなるが、何故それが倒錯であるかについて書いてみる。
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 ▼(1)似非自由競争主義者と二つのトレードオフ

黒葛原歩先生の生活保護に関する怒涛のツイートをまとめたよ。 - Togetter

実際ね,ホームレス支援とかしてるとね,どー考えても生活保護しかないのに「本人が保護を受けたがらない」っていうケースが,結構あるのよ。でも,そしたら解決は【1】役所以外で助けてもらう,【2】自力救済,即ち窃盗・詐欺,【3】死ぬ,しかないでしょ。で,残念ながら【2】になる例がまた,結構あるのよ
ATsZRA 2012/05/27 22:27:01
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丸囲み数字は確か機種依存文字だったように思うので、丸囲みは【】に変更している。

実際には、【3】が自殺のことだとすると、もう一つ、【4】全てを投げ打って敵と戦う、という選択肢もある。

現代社会における常識では、労働問題もまた、市場での自由な競争に任せておけば全て上手くいく、ということになっている。だが、競争には敗者がつきものだ。そして競争に破れ、市場から淘汰されたからといって、労働力という商品がすぐさま現実から消え去るわけではない。

この問題に対し、多くの自由競争主義者は、再び競争に参加させる、という処方箋を出す。しかし、物としての商品は価格をどんどん下げて再び市場に投入ということも可能だが、労働力を売るのは生活を維持するためであり、それにも限界がある。また、物であれ人であれ、それにとって無理な条件で使用され続ければ壊れてしまうのは同じことだ。その時、物なら廃棄すればそれで済むが、人はそう簡単にはいかない。だから、物では取れる対策を人でもまた取れるとは限らない。そもそも、幾ら価格や条件を下げたところで、自由市場において全ての商品に買い手が付くことなどあり得ない。さらに、一度市場で淘汰された者が就活するというのは、市場の意向に反して無理矢理商品を誰かに売りつけることを意味するから、市場の意向を尊重する者ほどそれが困難になるという問題もある。

つまり、「再び競争に参加させる」という解決法は、自由競争であればこそ尚更それが功を奏する可能性は低くなる。そして競争であれば必ず、競争に参加することすらできなくなる敗者が生まれる。「労働」を重んじるのならば、市場で価値を失った者を国が雇う、という解決策もあるが、自由競争を重んじる者はこれを否定するだろう。

そこで次に、ではこの問題にどのように対処し、それにどれ程のコストを払うのか、という問題が突きつけられる。留意しなければならないのは、これは自由競争導入に伴って必然的に生じる、自由競争そのものの問題だということだ。故に、この問題に配慮することに対して――自由競争主義と相反するものだという意で――社会主義的などというレッテルを貼る自称自由競争主義者がいるとすれば、それは似非と見るのが妥当だろう。自由競争主義者であれば尚更、この問題に真剣に取り組む必要があるからだ(それをしないというのは、例えば原発を推進しておきながらそのリスクについては無視、と同じ)。

しかしどのような対策を取ろうとも、それにはコストがかかる。そして一線で競争を続けている者達の多くは、なるべくならそれにコストを払いたくない、と思うことだろう。何故ならそこにトレードオフの関係が成立しているからだ。

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其々がどのような形態で生活を営むかはともかく、誰かの生活やその水準を守ろうとすれば、他の誰かのそれを犠牲にしなければならない。そのためには誰かをシステムから切り捨てなければならない場合もあるだろう。ある一時点を切り取って見れば、あるいはこれ以上経済成長が望めないとすれば、ここにトレードオフの関係が成立しているのは事実だ。しかしそこには同時に、システムに包括出来ず、【1】の選択肢も持ち得なかった人間は、否が応でも【2】【3】【4】のうちのどれかを選択せざるを得なくなる、という問題もまた存在している。これもまたトレードオフの関係にある。

ところが、前者のトレードオフは「現実は厳しいのだ」という決め台詞と共にやたらと強調され、切り下げや切り捨ての正当性の根拠として頻繁に持ち出される一方、それとセットになっているはずの後者のトレードオフについては、逆に恰も存在しないかのようにして扱われるのが通常だ。もし切り下げや切り捨てを野放図に行い、何も問題が起こらないのであれば、それで生活が守られる側の人間にとっては、これほど「甘い現実」はないだろう。

だが、もちろんそう上手くいくとは限らない。包括化の努力を怠り、安易に切り捨てや切り下げという手法にばかり頼りすぎると、トレードオフとしての【2】【3】【4】から生じる問題がどんどん増えていくのは当然のこと、自らが切り捨てられる側になる可能性もまた高まっていくことになる。貧困層と富裕層の財産ばかりが増加し、中間層が消滅することを後押しする危険性だってある。さて、それらを踏まえた上でどうバランスを取るべきか、というのが社会政策の出発点のはずだ。

であるが故に、一つの意見として、安易に切り下げや切捨てをすべきではない、という主張が出てきたりするわけだが、多くの場合そういった主張は道徳的意見とみなされ、道徳だけでは社会は上手く回らないのだ、という主張に丸め込まれる。その一方で、包括化失敗のトレードオフとして必然的に生じてくる問題に対しては、自己完結しろ、甘えるな、という道徳的非難が寄せられる。つまり、個人の道徳による解決が求められる。だが、それこそ正に道徳では絶対に解決しない問題なのだ。

 ▼(2)宥和策の失敗に伴って生じる必然的紛争

全ての人間が生活を維持し続けることはできないし、全ての者が納得の行く人生を送ることもできない。全ての者が納得の行く社会を作ることもできない。この世がユートピアでないという事実は、生きるとは、生死をかけたポジション争いであり、迷惑の掛け合いであるということを意味する(――生まれてきて良かったと思うことのできない人間からすれば、産み出されること自体が既に大いなる迷惑)。つまり、例え同国人であろうと、其々は元々お互いに「敵」としての性質を絶えず水面下に備え持っているわけだ。

だが、その性質をむき出しにしたままだと、お互い常に「敵」に怯え続けなければならなくなる。それではよろしくないということで、なるべくその性質を直接的にぶつけ合わずに済むよう婉曲化することで人間社会は発展してきた。つまり、社会制度・政策は、「敵」同士が集まって生活せざるを得ないこの社会における宥和策としての性質を持っている。

これが何を意味するかと言えば、その宥和策で下手を打てば、それだけ紛争が激化するということだ。宥和策は基本的に社会システムへの包括という形で行われるが、それが失敗すれば、システムに包括化された人間とそうでない人間は、お互い「敵」としての性質をむき出しにして向き合わなければならなくなる。

そうなれば、前者の側から見れば後者の人間は、生きることを選択しようと自害しようと最後まで戦いぬこうと、その存在自体が常に暴力性を帯びることになる。一方、包括化されなかった側の人間からすれば、された側の人間から絶えず「死ねという状況」を投げつけられることになる。

その時、自らが包括化されている側にいるからといって、つまり、戦力的に圧倒的に優位な側にいるからといって、その紛争の被害から全く無縁でいられると考えるのは間違いだろう。相手に「死ね」という状況を投げつければ、その者から「お前こそ死ね」というカウンターが返って来るのを覚悟しなければならない。その反撃を無いものと予想するなら、それは見立てが「甘い」と言うほかない。ましてや、自害でなく討ち死にを選んだ「敵」に、「甘えるな」などと言うにいたっては全く支離滅裂だ。

 ***

宥和策に失敗すれば紛争が起こる。紛争が起こればそれによる被害を被る可能性が出てくる。だからそれを緩和するために力を尽くさなければならない。しかしそれにはコストがかかる。しかも、幾ら手を尽くしたからといってそれが上手く行くとは限らない。そもそも全ての人間をシステムに包括することなどできない。逆に言えば、幾らシステムに収まろうとしてもそれに収まることができない人間もいる。そういった者は嫌でも強大な包括勢と「敵」として向き合わなければならなくなる。だから紛争が、それによる被害がこの世からなくなることはない。だからこそ現実は厳しい。

一方「甘えるな」言説は、甘えなければ全て上手く行くはず、という甘い見立てが背景に想定されていて初めてその説得力を獲得し得るものだ。そして「厳しい現実」が現れると、それに向けて一斉にその甘い見立ての成果物が投げつけられる。「甘えるな、死にたいなら一人で死ね」と。だがそれもまた、紛争が起こっても「敵」は「誰にも迷惑を掛けず」勝手に自害してくれるに違いない、という甘い見立てが裏切られたからこその拒否反応だろう。そうやって問題解決を「敵の自害」に依存し、その慮りに甘え続けてきたのが今のこの社会ではないか。冒頭の事件における甘え発言は、こういった倒錯の上に成り立っている。

 ▼(3)「生きろ」「戦え」の胡散臭さ

『もののけ姫』のキャッチコピーは「生きろ。」だったが、この手の、生き抜くことの大切さ、生命の大切さ、を説く言説にはどこか胡散臭さが漂っている。

社会システムに上手く依存することが出来ている人間は、ただそれを持続すればよいだけで、態々「生きる」という選択を積極的にする必要はない。その選択が迫られるのは、そのシステムの外に追いやられた時だ。そして「生きる」を選択するということは、冒頭の例で言うと【2】を選択することに他ならない。宮崎駿は果たして、そういう状況に追い込まれた者に対し、「【2】を選択しろ」と言うことができるだろうか。自分は出来ないと思う。そしてそれは彼だけでなく、殆どの者がそうなのではないか。生きることの素晴らしさを説く言説がどこか胡散臭いのはこのためだ。

結局、殆どの人間は生き抜くことや生命の大切さなど肯定できない。ましてや「逃げずに戦え」を肯定できる人間などそう滅多にはいないだろう。何故ならそれは、【4】を選択すること推すことになるからだ。実際にそんな主張をした人間は、頭のおかしい奴扱いされるだろう。もちろん、システム内での競争もまた戦いとは言える。しかしそれは所詮婉曲化されたそれでしかない。それだけを切り取って肯定しても、「戦え」を肯定したことにはならない。お互い「敵」としての性質をむき出しにして向かい合った時、自害を選ばず戦い抜くことを肯定してこそ「戦え」を肯定していると言えるだろう。

要するに、「生きろ」「戦え」は、生きるか死ぬか、戦うか逃げるか、という本当に差し迫った状況にない時にだけ支持され、本当にそれが現実味を帯びてくると途端に否定される、そういうイメージだけで中身空っぽなオシャレ・アイテムとして使用されているだけにすぎないのだ。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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