ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

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洗脳と教育、マインドコントロールとコミュニケーション能力

洗脳と教育、マインドコントロールとコミュニケーション能力による折衝、これらに厳密な内容的違いはない。それらはただ政治的にのみ使い分けられる。例えば、ある枠組みの主流派がそうでない人間を洗脳することは教育と呼ばれるが、その主流派が異端であると認識される社会ではその教育は洗脳と呼ばれる。

教育と洗脳は違う、という人もいるだろう。しかしその定義自体曖昧だし、ルールの遵守という判定法を設けるにしても、ルール自体その時代や場所によって変動するし、同じルールでも立場によって解釈が異なってきたりもする。労基法のようにルールそのものが機能していないケースだってあるし、ルール自体が既に洗脳の仕組みかもしれない。

もちろん、それを使った行いが実際に犯罪として社会的に認知されればその呼び名は定まるかもしれない。だが逆に言えばそうならないものに関しては各々がどう認識するかという、単なる好き嫌いで判定せざるを得ないということになる。
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美代子容疑者、弁護士も洗脳されかけた - 社会ニュース : nikkansports

例えばこの場合などは、「美代子容疑者、弁護士も洗脳されかけた」などと書かれているが、実際は単に彼女が生まれ持ったコミュ能力の高さをそこで発揮しただけなのではないか。つまりマイナスの属性を持たない者がコミュ能力の高さを発揮すればそれは人当たりの良さになるが、犯罪者であることが社会的につまびらかにされたような者がコミュ能力を発揮すればそれは洗脳(文脈上、マインドコントロールの方が内容的にあっているように思うが…)と言われたりする。

この事件などは「マインドコントロールもの」として扱われることが多かったが、暴行監禁連れ戻し殺害という物理的手段を併用している以上、幾ら美代子容疑者のコミュ能力が高くてもそれによる服従を「マインドコントロール」というのには無理があるだろう。それは単なる暴力による服従なわけだから。どちらかと言えば暴力団案件と考えた方が適切だ。実際、物理暴力に過度に依存していることからして、彼女のマインドコントロール能力は汎用性に乏しいと考えられる。中核を構成するメンバーとの序列関係なども、単に相性によるものと考えた方が妥当なのではないか。

それに、オウム事件などは事件が明らかになった後も帰依し続ける者がいたし、事件の後になってから入信する者さえいたが、この事件では捕まった中心メンバーの誰も美代子容疑者をかばおうとしていない。

兵庫・尼崎の連続変死:逮捕1週間 「疑似家族」に亀裂 息子「縁切りたい」距離置く供述

監禁事件でよくある、逃げ出せる状況があったのに逃げ出さなかった、という事例でもない。むしろ何度も被害届けや通報があったのに警察が事件性がないものとして取り合わなかったということの方に異常性が見られる。

それよりむしろ「地獄の研修」に象徴されるような、物理的暴力の代わりに苦役を用い、そこで従順な者を「成長」したとして優遇する一方そうでない者を大勢の前で侮辱して恥をかかせる――そういった恐怖心を利用して選択を誘導する手法の方が余程内容的に「マインドコントロール」と呼ばれるに相応しいのではないか。

だがそれは決して「マインドコントロール」とは呼ばれない。何故ならそれは一般企業で有用なものとして普通に用いられている教育手法だからだ。その一般企業を顧客として抱えているマスコミがそれを「マインドコントロール」と言うわけにはいかないだろう。

「コミュニケーション能力」は本来、文化的・感覚的乖離がある者と相対する時に如何に円滑にその者と意思疎通を取ることができるか、という能力のはずだ。だが、現在ではそれは単に政治的折衝能力のことを指してそう呼ばれている。企業がよく言う「コミュニケーション能力の高い人材」というのは、対内的には上の者(上司)に媚びへつらい、対外的には折衝相手を上手く篭絡する能力を持つ者のことに他ならないだろう。後者はそのまま「マインドコントロール能力」と呼んで差し支えないし、前者は上の者には逆らえない雰囲気の形成に寄与することで間接的にマインドコントロールを下支えすることになる。だがこのようなマインドコントロールとコミュニケーション能力の関係性が大っぴらに取りざたされることはまずない。

こういった言葉の使い分けは、過労やいじめ自殺の場合でも行われている。そういう状況に陥っている者には、先のことはともかくとりあえず一端その場から離れるという手もあるはずだが、彼らはそこから手を離したらもう終わりで、死ぬ以外に道は無いと思い込んでいる。つまりそう思い込ませるような環境が周りに成立している。だがその自殺が「洗脳」や「マインドコントロール」によるものと言われることはない。何故ならその環境は我々が社会規範やシステムを通して関与し、作り上げているものでもあるからだ。故にその環境による教育は単に「世間の厳しさ」という名で呼ばれることになる。

つまり、洗脳やマインドコントロール自体は別に特異なものでもなんでもなく、むしろ日常的なものとして常に存在している。国によって一般的な思想や世界観の傾向が全く異なってくるのもそのためだろう。

もちろんある集団内におけるそれが取り分け巧みであった場合はそこに注目するのもよいだろう。だが尼崎の事件で特異だったのはむしろそれよりも暴行監禁連れ戻し殺害という物理的暴力と、それだけのことを大勢の犠牲者を出しつつ長年続けてきたにもかかわらず、今の今になるまで全く発覚しなかったことの方だろう。実際、美代子容疑者が物理暴力なしにこの活動を続けていれば、事件として発覚しなかった可能性も高いのではないか(恐喝罪で検挙される可能性はもちろんあるが、それで活動が止んだかどうかは疑わしい)。にもかかわらず、そこではむしろ「洗脳」や「マインドコントロール」の方が特異性として大きな注目を集めた。

 ***

美代子容疑者が何をやっていたのかといえば、それは一言で言えば営利活動だろう。何らかの繋がりを持った者に因縁を付け、金を搾り取る。組織に取り込んだ人間を脅して親類の下に営業活動に行かせる。そしてまたその親類などを巻き込み、どんどん事業を拡大していく。違法行為を一端脇においておくと、それは企業が他の企業を買収してどんどん成長していく姿に似ている。

もちろんそこでは明らかな違法行為が行われていたわけだが、道端で起これば直ぐに事件として検挙されるような事柄が、学校や会社や親類内で行われると全く事件として取り扱われなくなるという一般的現象――多くの「普通の」組織や集団がお世話になっているその現象の下支えがあったからこそ、事件の発覚がここまで遅れたという面もあるだろう。

そういった組織の在り様や組織内の人間関係を見ると、学校や会社でのそれを想起せざるを得ない。そしてそれ故に、この事件が持つ特異性である物理的暴力や警察の不手際よりも、世間一般における人間模様との内容的類似性の方に意識が向いてしまう。その居心地の悪さを払拭するため――彼らのそれらと我々のそれらを差異化するために用いられた識別札が「洗脳」や「マインドコントロール」だったのではないか。故にそれが不必要に強調されることになった。我々のこれと彼らのあれは根本的に違うものなのだと。だから似たような内容を持っていても我々は正常なのだと。そういう自己確認(「我々との違い」は物理的暴力を挙げるだけで十分なはずなのに、それだけでは済まされなかった)。

だが洗脳やマインドコントロール自体は特別異常なものではなく、日常に溶け込んで空気のように普通にそこに存在しているものだ。そして社会的不人気性を炙り出されない限りそれらは「教育」「コミュニケーション能力」といった名で呼ばれる。この恣意的使い分けが自分にはとても気持ち悪く感じる。それらが全く逆のイメージを持っているだけに。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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